NemurinekoNya の回答履歴
- 教学講座任用試験問題1 十界論の畜生界
問題1: 十界論に出てくる畜生界はいったい誰が考えましたか。次の中の誰ですか。 1) 日蓮 2) 釈尊 3) 天台・智ギ 4) 親鸞上人 教学講座任用試験問題1の正解はどれですか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数6
- エホバの証人は 神を信じているか?
表題のとおり 特定の宗派のことがらについて問うものです。 その問いを ヨハネ福音の解釈をとおしておこなおうとします。 次のくだりの解釈を示してください。特に《人間の意志によってでもなく》と《神によって生まれた》とに焦点を当てています。 ▼ (ヨハネによる福音書 1:1~18 新共同訳) ~~~~~ http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html 11: 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12: しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 △(新世界訳=エホバの証人の聖書) ~~~~ http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/nwt/%E5%90%84%E6%9B%B8/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/1/ 11: 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。 12: しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。 13: 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち: ▼ (ヨハネ福音 1:13) ~~~~~~~~~~~ ▽ (1:13) http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=1&t=KJV#s=t_conc_998013 οἳ οὐκ ἐξ αἱμάτων οὐδὲ ἐκ θελήματος σαρκὸς οὐδὲ ἐκ θελήματος ἀνδρὸς ἀλλ᾽ ἐκ θεοῦ ἐγεννήθησαν ▽(KJV 1:13) Which were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God. △(新世界訳) 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが この《人間の意志からではなく 神によって生まれた》というくだりは 《感性や理性ではなく・つまりは感じたり考えたりすることによるのではなく 信じること・すなわちその名を受け容れること》を言っており つまりは信仰のことだと考えられます。《思考に非ず》なのだと捉えられます。 しかるに エホバの証人の側では 《信じる》をたとえば次のように用いています。 △ (エホバの証人はイエスを信じていますか) ~~~~ http://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B/ はい,信じています。 イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。(ヨハネ 14:6) わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28) イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。(ヨハネ 3:16) わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15) とはいえ,イエスが述べた「父はわたしより偉大な方」という言葉もそのとおりに受け止めています。(ヨハネ 14:28) イエスが全能の神であるとは信じていないため,イエスを崇拝することはしません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 端的に言って 問題とすべきは 次です。: (あ) △ わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28) ☆ これは あくまでもオシエです。信仰ではありません。そして 《天から地上に来た》というのは 経験事象になります。すなわち これはその名を受け容れる信仰ではなく オシエの内容を考えることです。この思考としてのオシエを理解し知ったという《人の意志から エホバの証人が生まれた》ことになります。そういうことにしかなりません。ヨハネ福音1:13とは 矛盾です。 (い) △ イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。 ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。 (う) △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15) ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。 想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。 さしづめ以上を問います。どうでしょう。
- エホバの証人は 神を信じているか?
表題のとおり 特定の宗派のことがらについて問うものです。 その問いを ヨハネ福音の解釈をとおしておこなおうとします。 次のくだりの解釈を示してください。特に《人間の意志によってでもなく》と《神によって生まれた》とに焦点を当てています。 ▼ (ヨハネによる福音書 1:1~18 新共同訳) ~~~~~ http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html 11: 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12: しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 △(新世界訳=エホバの証人の聖書) ~~~~ http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/nwt/%E5%90%84%E6%9B%B8/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/1/ 11: 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。 12: しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。 13: 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち: ▼ (ヨハネ福音 1:13) ~~~~~~~~~~~ ▽ (1:13) http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=1&t=KJV#s=t_conc_998013 οἳ οὐκ ἐξ αἱμάτων οὐδὲ ἐκ θελήματος σαρκὸς οὐδὲ ἐκ θελήματος ἀνδρὸς ἀλλ᾽ ἐκ θεοῦ ἐγεννήθησαν ▽(KJV 1:13) Which were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God. △(新世界訳) 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが この《人間の意志からではなく 神によって生まれた》というくだりは 《感性や理性ではなく・つまりは感じたり考えたりすることによるのではなく 信じること・すなわちその名を受け容れること》を言っており つまりは信仰のことだと考えられます。《思考に非ず》なのだと捉えられます。 しかるに エホバの証人の側では 《信じる》をたとえば次のように用いています。 △ (エホバの証人はイエスを信じていますか) ~~~~ http://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B/ はい,信じています。 イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。(ヨハネ 14:6) わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28) イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。(ヨハネ 3:16) わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15) とはいえ,イエスが述べた「父はわたしより偉大な方」という言葉もそのとおりに受け止めています。(ヨハネ 14:28) イエスが全能の神であるとは信じていないため,イエスを崇拝することはしません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 端的に言って 問題とすべきは 次です。: (あ) △ わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28) ☆ これは あくまでもオシエです。信仰ではありません。そして 《天から地上に来た》というのは 経験事象になります。すなわち これはその名を受け容れる信仰ではなく オシエの内容を考えることです。この思考としてのオシエを理解し知ったという《人の意志から エホバの証人が生まれた》ことになります。そういうことにしかなりません。ヨハネ福音1:13とは 矛盾です。 (い) △ イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。 ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。 (う) △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15) ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。 想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。 さしづめ以上を問います。どうでしょう。
- 罪深きは彼らキリシタン宣教師とローマ教皇ではないか
キリシタンによる歴史上最も大規模かつ激しい聖戦は、ヨーロッパでもイスラエルでもなくアジアの片隅にある我が日本列島の島原で繰り広げられた事実を忘れてはなりませぬ。 彼ら島原の民はローマ教皇が彼らに宛てた手紙を信じ、総勢12万の幕府軍を相手に長期戦になることを厭わず島原城に立て籠もったのであった。 ローマ教皇が島原の民に対し彼らを救うべくイエズス会と縁の深いカトリック教国であるポルトガル、イスパニアの援軍を送ると約束したからである。 しかし待てど暮らせど3ヶ月カトリック教国の援軍は遂に来ることはなく、島原城は幕府軍の焼き討ちに合い最後には女子供を含む島原の民3万7千人の命は幕府軍の手によって惨殺されたのであった。 キリシタン宣教師とローマ教皇は今現在に至っても歴史上最も悲惨なこの事件について何らの謝罪も釈明もしていないのである。 罪深きは彼らキリシタン宣教師とローマ教皇ではあるまいか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数7
- 《永遠》とは人間に分かるか分からないかは分からない
《永遠》とは 何か? が問いです。 《非知》であるというのが たたき台です。 思いっきり自由にご見解を述べてください。 1. そもそも永遠に生きたひとはいない。生物も無生物もいない。と経験則からのように推し測られる。 2. なのに 人間はこの《永遠》という言葉を持っている。つまり人間は時間的存在として有限だとし 永遠を無限だとすれば 有限のものが無限のことを語っている。これいかに? 3. かなり昔にどこかの野球チームは 永久に不滅ですということでした。これは むろん言葉のアヤであり文学的修辞です。ですが 永久・不滅そして永遠とは どういうことですか? 4. 限りがない・果てしがないと言ったとして その限りや果てをあなたは 見たのか? 調べたのか? と問い返さねばならない。のではないでしょうか。 5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?
- 量子論に《本質・絶対・無》といった概念はなじむか?
または 量子論は ふつうの存在論を形成しうるか? つぎにかかげる質疑応答をそのまま問いとします。 質問として成立すると思うのですが 対話の行方をめぐって第三者の視点をほどこし結論へとみちびいていただきたい。というのが 趣旨です。 主題は デカルトのコギトをめぐってですが 《思考(ないし認識)と存在》といったかたちになるかと思います。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。 不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、 絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面 (仮想)的に有限的存在性を生じる。 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が 有なのだ。 無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、 現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ) と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化) 『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面) としての量子(感受表面~超弦)。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ご回答をありがとうございます。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。 不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、 絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面 (仮想)的に有限的存在性を生じる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか? (2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは? (3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか? (4) ですからたとえば: ◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。 ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか? (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか? (6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか? (7) さらに畳み掛けるようにですが: ◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。 ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。 ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。 ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか? (9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。 ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。 ☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。 それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。 (11) 《本質的に無である》 これも定まりません。 (12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。 ◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。 ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。 (14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。 (15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- デカルトのコギトはどこが独自性なのか
アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~ わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~ だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。 ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。―― ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ る と仮想しようと決心した。 (方法序説 4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。 ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考 する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・ さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが: ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・ (方法序説 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と書いたことは よく知られているところである。 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~ デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・ なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。 (パスカル:幾何学の精神について 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。 デカルトのコギトに独自性はあるのか?
- デカルトのコギトはどこが独自性なのか
アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~ わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~ だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。 ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。―― ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ る と仮想しようと決心した。 (方法序説 4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。 ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考 する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・ さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが: ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・ (方法序説 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と書いたことは よく知られているところである。 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~ デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・ なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。 (パスカル:幾何学の精神について 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。 デカルトのコギトに独自性はあるのか?
- 命と言う果実は、君達にもたらされるか。
私は悪魔と共に燃え盛り、全てを慈しむ影。 実在する仮面ライダー 黒き明星だ。 私を兄貴と呼びたかったら「キュアブルーム様」と呼べ。 以下はいつものように私のペットに遊んでやってるさなかに、私が編み出した芸術作品だ。 君たち愚かな人類が蜜柑と名付けたから君達はミカンとしか認識できないのだ。 蜜柑は君達の愚かさをあざ笑い、自らの生を謳歌する。その果実は君達の失った生命力だ。 君達は、自らが屈服することによって、生きることが初めて認められる。 君達が懇願する限り、ミカンは君達を生かし続けるだろ。 君はミカンに生かされている。 しかしその生命の神秘を、君達は蜜柑としか認識してない。 君達は、蜜柑のように食べられてこそ、初めて自らを知るのだ。 死をへて自らになる。 自らのいただく神すらも辱める君達にとっては、たかが蜜柑だろうが、生命は等しく神の恩寵を受けている。 君たち旧人類は、生命を失っている。 すでに屍だからこそ、死を持って自らを悟るのだ。 それに無駄な抵抗をするのは、君たち特有の愚かさだ。 さて、人間とは屍であると言う、新人類の人間否定の哲学に対し、君達はいかなる徒労を働くのか。 君達は滅びてこそ完結する。 君達は皆殺しだ。
- 地獄の賽の河原は何の寓話?
賽の河原で子供が石を積んでは鬼に壊されるという話がありますが あれは、無意味な労働をさせられて、しかも完成がなく繰り返しやらされる というのを寓話的に描いているものだと思うのですが、日常生活でまさにその通りの場面だなと思うコトを教えてください 穴を掘らされてそれを自分でまた埋めらされる、というのを延々とやらされると気が狂うとか聞いたことがあります これはちょっと非日常ですのでもっと生活に密着していると思われることで教えてください
- 地獄の賽の河原は何の寓話?
賽の河原で子供が石を積んでは鬼に壊されるという話がありますが あれは、無意味な労働をさせられて、しかも完成がなく繰り返しやらされる というのを寓話的に描いているものだと思うのですが、日常生活でまさにその通りの場面だなと思うコトを教えてください 穴を掘らされてそれを自分でまた埋めらされる、というのを延々とやらされると気が狂うとか聞いたことがあります これはちょっと非日常ですのでもっと生活に密着していると思われることで教えてください
- デカルトのコギトはどこが独自性なのか
アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~ わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~ だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。 ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。―― ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ る と仮想しようと決心した。 (方法序説 4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。 ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考 する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・ さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが: ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・ (方法序説 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と書いたことは よく知られているところである。 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~ デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・ なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。 (パスカル:幾何学の精神について 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。 デカルトのコギトに独自性はあるのか?
- 《才能》と《錯覚》・・・
●一般の人は、才能がある人はどんなジャンルでも短期間で上達するものだと錯覚するのでしょうか?逆に上達が遅い人を見ると『あの人にはセンスがない』と判断されるのでしょうか?ちなみに、*あなたが挫折したジャンルは、何ですか?
- 《才能》と《錯覚》・・・
●一般の人は、才能がある人はどんなジャンルでも短期間で上達するものだと錯覚するのでしょうか?逆に上達が遅い人を見ると『あの人にはセンスがない』と判断されるのでしょうか?ちなみに、*あなたが挫折したジャンルは、何ですか?
- 資本主義、共産主義、次は何主義?
資本主義も共産主義も問題が多いです。もっと良い主義はないのでしょうか? 考えたことありませんか? 資本主義も修正し共産主義も修正し人口爆発、資源の争奪戦をやてますが 何か・・・ボランティア主義?世界宗教?の様な 新しい思想はないものでしょうか? 僕は存在性思想を掲げましたが 桜咲かず 梅咲かず 何か良い主義ありませんか? ちなみに当方病人のため、要点を教えて下さると有難いですm(_ _)m
- 親鸞の「横に超える」とは?
親鸞について読んでいたら、「横超」という考え方を目にしました。 仏教で悟りを求めて、修行をして、戒律を守って自分を高めて 縦に超えて行くのはイメージとしてよくわかるのですが、 親鸞の横に超えるというのは、正直よくわかりませんでした。 どなたか親鸞に詳しい方の解説をお願いします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- bougainvillea
- 回答数8
- 無実の富田選手を救わないと
世間では箸にも掛からない哲学カテではあるが、ここに来て哲学の実質的存在意味を問う現実的問題が浮上して参りました。 富田選手が無実であることを立証する方法を哲学的に考えてもらいたい。 無実の富田選手を救う手立てはないのか、皆さんに考えて頂きたいです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数9
- 無実の富田選手を救わないと
世間では箸にも掛からない哲学カテではあるが、ここに来て哲学の実質的存在意味を問う現実的問題が浮上して参りました。 富田選手が無実であることを立証する方法を哲学的に考えてもらいたい。 無実の富田選手を救う手立てはないのか、皆さんに考えて頂きたいです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数9