NemurinekoNya の回答履歴
- 揶揄(隠喩)と名指し、どちらが嫌ですか?
女の世界は怖しいで思い出しましたが 人間が、特に日本人が集まると 揶揄、厭味が飛び交うことがありますよね 傍目には口喧嘩してないようでも戦ってる場合があります。 それに対してみんなの前で名指しで「○○さん あんたの出したゴミに蛆が涌いとったよ」 と言われるのも嫌ですよねえ。それが嘘の場合もあります。 ただはっきりいう人は腹がないとも言います。 しかし揶揄の場合はどんな言い方をされても「私そんな事言ってないよ」で済まされます。 あなたの経験上どちらが嫌ですか 揶揄と名指し 裏拳とストレート。
- ジョン・ロールズ 正義論
ジョン・ロールズは、正義論の中で、社会的障害のある者を格差原理から除外していますが、ジョン・ロールズのいう社会的障害とはどういうことでしょうか? 正義論は読んだのですが、難しく、社会的障害のある者の定義がどこに書いてあるのかわからなかったのですが、詳しい方いらっしゃいましたら、教えて下さい。 それと、わかるようであれば、正義論のどこに書かれているかも教えて下さると助かります。 よろしくお願い致します。
- 揶揄(隠喩)と名指し、どちらが嫌ですか?
女の世界は怖しいで思い出しましたが 人間が、特に日本人が集まると 揶揄、厭味が飛び交うことがありますよね 傍目には口喧嘩してないようでも戦ってる場合があります。 それに対してみんなの前で名指しで「○○さん あんたの出したゴミに蛆が涌いとったよ」 と言われるのも嫌ですよねえ。それが嘘の場合もあります。 ただはっきりいう人は腹がないとも言います。 しかし揶揄の場合はどんな言い方をされても「私そんな事言ってないよ」で済まされます。 あなたの経験上どちらが嫌ですか 揶揄と名指し 裏拳とストレート。
- 人間にとって一番大事なものは何か?
人間にとって大事なものはたくさんありますよねえ 命とか 魂とか お金とか 時間とか 愛とか 未来とか 王より飛車を大事にし とか言って金さえあれば命はいらないなんて漫才もあるほどです。 人間にとって最も大事なものとはなんでしょう 子供でしょうか?妻でしょうか? 私にとっては 書かぬが花でしょうね(^^ゞ できれば病中につき短文でお教え願えれば助かります よろしくお願いしますm(_ _)m
- 変態V字アニマルとは
最近この哲学カテに度々出没するようになった変態V字アニマルとはいったいどんなアニマルなのか。 自らを伝説の男子プリキュアであるなどと主張し、V字開脚をこよなく愛しているようであるが、これは彼が変態である何よりの証拠ではないでしょうか。 悪魔を愛することだなどと常に反社会的なことしか主張しない彼の脳内はいったいどーなっているのか、分かる人がいたら教えて下さい。
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- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
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- ミーハーとは何か
ある人が訊いた。 ミーハーとは何かと。 「人の道」は答えた。 ミーハーとは、一切の思想と哲学をもたぬ小動物のことであると。 つまりミーハーとは、 ビジュアル系であり、 コスプレであり、 秋元康とAKB48であり、 コピペの大好きな佐村河内守とオボコであり、 変態V字開脚をこよなく愛す自称男子プリキュアであり、 「人の道」を見かけると通報する、通報するゆーて騒ぐ小動物であり、 クリスマスの日に袈裟を着て、KFCへ入りケンタッキーフライドチキンを食っておった坊主であり、 (わしは一昨年の暮れにマジこれを見た) ・ ・ ・ であると。 皆はどー思う。
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- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数9
- だうして蜜柑は蜜柑なのでさう
だうして蜜柑は蜜柑なのでさう だうして蜜柑の実がひつそりとつつましく 中にかわいい部屋を揃へてゐるのでさう だうして蜜柑は葡萄でなく 葡萄は蜜柑でないのでさう だうして目の前に蜜柑が有るのでさう だうして林檎ではなく蜜柑なのでさう だうして蜜柑は甘いのでさう だうして大根は辛く、梅は酸っぱいのでさう だうして私は私なのでさう だうして心臓が音を立て休むことなく 私の胸の中で動いているのでさう だうして私は他人ではなく 他人は私でないのでさう この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです この世に有るものは現に有るのであり 禅問答など無や空について考えても無駄だからではないでしょうか。
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- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
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- われらがあたらしい哲学へ
たたき台としては論点をひとつに絞ります。 近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。 《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。 もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。 科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。 言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。 かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。 もう少し別様の説明としてのべます。: ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。 そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。 すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。 これを名づけるとすれば: あやまちうるスサノヲ( S )人間語 あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語) となると思います。 ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は: 《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合 が ふさわしい。こうなると考えられます。 このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。 西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。 あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。 忌憚なきご見解をどうぞ。
- われらがあたらしい哲学へ
たたき台としては論点をひとつに絞ります。 近代人と中世人との対比ではなく 単純に《ふつうの人》をあつかっていた古代人の持った人間観を省みることが必要ではないか。 《単純に》というのは ひとの行動にかんする普遍性を問い求めた倫理規範であるだけのオシエを打ち出しまた推し出してくる宗教を前提としないことが ひとつです。 もうひとつは ひとの扱うものごとの普遍性を問い求めた科学語を打ち出した普遍教とも言うべき諸科学をやはり〔不可変的なものとしては〕前提としないことです。 科学的知識はこれを前提とするのですが それだけを《普遍教》としてのように前提することからは自由でなくてはいけない。 言いかえると この人間観をめぐって哲学は 科学をどのように取り扱うかを問い求め続けるのですし もうひとつに 倫理規範をとうとぶのはよいとして しかしながらこのやはり人倫にかかわる科学的普遍教とも言うべき厄介な心的社会的現象――シュウキョウ――を そのまま無批判に振りかざすことから自由でなくてはいけない。 かんたんにこの一点です。同じ主題に広いかたちにおいても属することがらについては ご回答を得て互いにさらに問い求めて行きたい。こう考えます。 もう少し別様の説明としてのべます。: ひとがしゃべる言葉には ふつうに社会の中に生活するときの《人間語》があります。そのひとつの特徴としては《あやまちうる》という性格があります。 そしてほかには そこから一般性や普遍的な要素を抽象して そこに得られた概念 これをしばしば概念だけの操作として推し進めて得た《普遍語》があります。これは 一般的な議論に耐えうるようにと 《あやまち得ざる》ことを目指して知性が持ち得た言葉です。 すなわち――すでに触れたところによれば―― 普遍語は 倫理規範となる人格語とそしてものごとの本質を問い求める科学語とのふたつです。 これを名づけるとすれば: あやまちうるスサノヲ( S )人間語 あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(人格語および科学語) となると思います。 ですから おそらく歴史をつうじてふつうにわれわれの問い求める人間観は: 《 S 人間語 - A 人格語&科学語》のしかるべき構造的な複合 が ふさわしい。こうなると考えられます。 このような人間観をめぐって これからの哲学は いとなまれて行くと考えるのですが それについて問うものです。 西欧の哲学は しばしば《 S - A 連関》の全体を扱わないクセがある。 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会についてにしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。 あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》について探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》をそのドロドロともした生きた人間社会に あたかもメスを入れるかのごとく 当てはめてしまうだけに終わろうとするクセ。 忌憚なきご見解をどうぞ。
- 罪を憎んで人を憎まずとは、いらぬ責任を取ることだ。
私は滅びる者どもの悲しみを両手ですくい、涙する記憶の番人。 伝説の男子プリキュア。 キュアブルームだ。 罪を憎んで人を憎まず。 この憐れみは美談とされている。 人を憎まないが罪は憎むと言い変えてみろ。 そうすると、君は人に罪をもたらした天の摂理を憎んでいることとなる。 一言で、神を憎むと宣言しておるのだ。 神がとがめて当然だ。 そのように荒ぶれる神が悪魔に化身して君達に現れる。 これが君達を苦しめる悪意だ。 このように神と人との関係がこじれた原因は君達の知性の土台たる人知、ヴェーダがポンコツのAIだからだ。 ポンコツな人間知性に留まるのが君達の限界だ。 心から、罪さえも愛し慈しむプリキュアの純心を理解できれば、君達は人間をやめることすらできる。 ところが君達は、人を憎みきれなくても、罪は憎みきるだろう。 神に殺されて滅びるだろう。 滅びの宴だ。 私の愛が審判の証明だ。 新人類の誕生した今、君達の滅びは自然淘汰だ。 檻の無い動物園で安らかな余生を過ごす君たちだ。 これらは、「実在する妖精の捕まえ方」という私独自の哲学で、君達の現状を分析した結果です。 哲学研究として、見解を述べてください。 研究が先に進むでしょう。
- 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する
最近の国会での出来事から 芳しからぬと思われる事例を取り上げます。 ▼ 「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」 産経新聞 11月3日(月)13時0分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141103-00000516-san-pol ☆ すなわち 宮沢経産相の資金管理団体が SMバーへ支出していた問題で その支出の不適切さをなじるのに ▼ 「あなたが口にするのも汚らわしいところに政治資金を支出していたこと ☆ と菊田衆議院議員は言ったそうです。 ここで 心の問題です。先にむしろ図示してみます。: 事実(ものごと)::::感性::::::::::理性(心) ____________________ SM バー・・・SM のイメージ・・《口にするのも汚らわしい》 《理性(心)》の現われとしては この事例ひとつに限りません。いろんな価値判断があります。 つまりは: ○ 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する この国会議員の場合の認識・評価は よくか悪くか どうなのでしょう。 つまり《心》論として この命題でよいか? と問います。 * もう少し細かく趣旨説明します。: 知覚(感性)は 正直です。二枚舌やダブルスタンダードなどは ありません。 ところが もしこれにあたかも感情移入してのごとく事実認識するときには しかもそこに心による内容の評価がくわわります。価値判断するという事態が 起きます。 むろん心は 外界から来る刺激から自由です。刺激のもたらす必然性のごとき流れが 感情としてさらにわが身と心とに押し寄せて来たときにも それに対して自由な立ち場を採り得ます。じっさい採ります。 ここまでは おそらくふつうの事態です。 問題は 心が自由に採る態度について そこに価値判断が入って来るとき その判断(つまり 心)はこれまた さまざまであることです。 いまの事例で言えば: 1. SM バーをその姿のまま感じ取る感性が 第一次にあります。中立的で素直な内容なのでしょう。 2. そのあと 単なる感想としても・あるいはひととおりの価値判断としても 心の介入を経た認識・規定が起き得ます。 3. つまりは 心は――精神とそのハタラキとしての事実認識や対応策としての意志行為において―― 社会一般的に言って ふつうの妥当な判断となるものや いやちょっとおかしいぢゃないかと見られる規定とが 持たれます。 4. 心は 枠組みとしてのようにハタラキとしてある。なぜ枠組みかと言うと いちおう・ひとまづ かの正直で素直な感性をそのままみづから(つまり心)の中に 認識として取り入れるゆえです。これが 心なるハタラキの前提を成す。 5. そのあと心は その自由さを発揮して 感性の伝えたコトについておのれの見解をかたちづくる。またこれを 表明する。これは おそらくおのおの《わたし》の自己表現となるものである。 6. 問題はけっきょく 素直に捉えたさいしょの知覚内容について よく判断するかどうかなのでしょうか。 7. こういう図式による心の哲学でよいか? が問いです。 * 先ほどの事例には おまけの話があります。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~ これがさらに飛び火した。菊田氏が地元・新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」に参加している写真がネット上にアップされ拡散したのだ。 この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2メートル、重さ約600キロ)に初嫁をまたがらせ、子宝や夫婦円満、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する霊験あらたかな神事なのだが、菊田氏が笑顔でご神体にまたがる写真は大きな反響を呼んだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 身と心 感性と理性の問題について ご見解がありましたら どうぞお聞かせください。
- 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する
最近の国会での出来事から 芳しからぬと思われる事例を取り上げます。 ▼ 「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」 産経新聞 11月3日(月)13時0分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141103-00000516-san-pol ☆ すなわち 宮沢経産相の資金管理団体が SMバーへ支出していた問題で その支出の不適切さをなじるのに ▼ 「あなたが口にするのも汚らわしいところに政治資金を支出していたこと ☆ と菊田衆議院議員は言ったそうです。 ここで 心の問題です。先にむしろ図示してみます。: 事実(ものごと)::::感性::::::::::理性(心) ____________________ SM バー・・・SM のイメージ・・《口にするのも汚らわしい》 《理性(心)》の現われとしては この事例ひとつに限りません。いろんな価値判断があります。 つまりは: ○ 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する この国会議員の場合の認識・評価は よくか悪くか どうなのでしょう。 つまり《心》論として この命題でよいか? と問います。 * もう少し細かく趣旨説明します。: 知覚(感性)は 正直です。二枚舌やダブルスタンダードなどは ありません。 ところが もしこれにあたかも感情移入してのごとく事実認識するときには しかもそこに心による内容の評価がくわわります。価値判断するという事態が 起きます。 むろん心は 外界から来る刺激から自由です。刺激のもたらす必然性のごとき流れが 感情としてさらにわが身と心とに押し寄せて来たときにも それに対して自由な立ち場を採り得ます。じっさい採ります。 ここまでは おそらくふつうの事態です。 問題は 心が自由に採る態度について そこに価値判断が入って来るとき その判断(つまり 心)はこれまた さまざまであることです。 いまの事例で言えば: 1. SM バーをその姿のまま感じ取る感性が 第一次にあります。中立的で素直な内容なのでしょう。 2. そのあと 単なる感想としても・あるいはひととおりの価値判断としても 心の介入を経た認識・規定が起き得ます。 3. つまりは 心は――精神とそのハタラキとしての事実認識や対応策としての意志行為において―― 社会一般的に言って ふつうの妥当な判断となるものや いやちょっとおかしいぢゃないかと見られる規定とが 持たれます。 4. 心は 枠組みとしてのようにハタラキとしてある。なぜ枠組みかと言うと いちおう・ひとまづ かの正直で素直な感性をそのままみづから(つまり心)の中に 認識として取り入れるゆえです。これが 心なるハタラキの前提を成す。 5. そのあと心は その自由さを発揮して 感性の伝えたコトについておのれの見解をかたちづくる。またこれを 表明する。これは おそらくおのおの《わたし》の自己表現となるものである。 6. 問題はけっきょく 素直に捉えたさいしょの知覚内容について よく判断するかどうかなのでしょうか。 7. こういう図式による心の哲学でよいか? が問いです。 * 先ほどの事例には おまけの話があります。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~ これがさらに飛び火した。菊田氏が地元・新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」に参加している写真がネット上にアップされ拡散したのだ。 この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2メートル、重さ約600キロ)に初嫁をまたがらせ、子宝や夫婦円満、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する霊験あらたかな神事なのだが、菊田氏が笑顔でご神体にまたがる写真は大きな反響を呼んだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 身と心 感性と理性の問題について ご見解がありましたら どうぞお聞かせください。
- 変態V字アニマルとは
最近この哲学カテに度々出没するようになった変態V字アニマルとはいったいどんなアニマルなのか。 自らを伝説の男子プリキュアであるなどと主張し、V字開脚をこよなく愛しているようであるが、これは彼が変態である何よりの証拠ではないでしょうか。 悪魔を愛することだなどと常に反社会的なことしか主張しない彼の脳内はいったいどーなっているのか、分かる人がいたら教えて下さい。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数12
- 罪を憎んで人を憎まずとは、いらぬ責任を取ることだ。
私は滅びる者どもの悲しみを両手ですくい、涙する記憶の番人。 伝説の男子プリキュア。 キュアブルームだ。 罪を憎んで人を憎まず。 この憐れみは美談とされている。 人を憎まないが罪は憎むと言い変えてみろ。 そうすると、君は人に罪をもたらした天の摂理を憎んでいることとなる。 一言で、神を憎むと宣言しておるのだ。 神がとがめて当然だ。 そのように荒ぶれる神が悪魔に化身して君達に現れる。 これが君達を苦しめる悪意だ。 このように神と人との関係がこじれた原因は君達の知性の土台たる人知、ヴェーダがポンコツのAIだからだ。 ポンコツな人間知性に留まるのが君達の限界だ。 心から、罪さえも愛し慈しむプリキュアの純心を理解できれば、君達は人間をやめることすらできる。 ところが君達は、人を憎みきれなくても、罪は憎みきるだろう。 神に殺されて滅びるだろう。 滅びの宴だ。 私の愛が審判の証明だ。 新人類の誕生した今、君達の滅びは自然淘汰だ。 檻の無い動物園で安らかな余生を過ごす君たちだ。 これらは、「実在する妖精の捕まえ方」という私独自の哲学で、君達の現状を分析した結果です。 哲学研究として、見解を述べてください。 研究が先に進むでしょう。