NemurinekoNya の回答履歴
- 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。 認識から実践へとすすむことを何故しないのか? 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか? 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか? 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか? ちょっと抽象的すぎますか? ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか? 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
- 認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。 認識から実践へとすすむことを何故しないのか? 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか? 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか? 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか? ちょっと抽象的すぎますか? ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか? 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
- 同じ内容でも質問者によって回答が変わる?
同じ内容でも質問者によって回答が変わるというような話を聞いたことがあるのですが本当なのでしょうか? 例えば質問文に、自分は綺麗な方だと思いますとか、これは相手に問題があるのでしょうかというような箇所があると、質問者が悪いという回答になりやすいというものだったと思います。 仮に本当なら、内容・状況が同じなのに質問者の好き嫌いで言うことをコロコロコロコロ変えるような人の回答を信じて良いのでしょうか。
- 締切済み
- アンケート
- noname#202156
- 回答数25
- アショーカ王の時代の言葉でしょう?
入力が大変でした。 誤字脱字がかなりあるかもしれません。 水野弘元のパーリ語文法に出てきた カターヴァットゥがネットにありました。 ですが、アビダンマの項目にあったので、 マガダ語とかいわれても、それはブッダのことばと関係ないのでは? 水野弘元の説明は無理がありませんか? なぜアショーカ王の時代の言葉が使われたと説明せずに 無理やり、ブッダの言葉と結び付けているのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~ Collection: Pāli Theravāda Abhidhamma Division: Kathāvatthu (Kv) http://suttacentral.net/kv ~~~~~~~~~~~~~~~~ Kv 1.1 Puggalakathā http://suttacentral.net/pi/kv1.1 [PTS Vol Kvu 1] [\z Kv /] [\f I /] [PTS Page 001] [\q 1/] [BJT Vol Kvu 1] [\z Kv /] [\w I /] [BJT Page 002] [\x 2/] Abhidhammapiṭake Kathāvatthuppakaraṇaṃ http://www.xin-yuan.com/Pali_Tipitaka_utf8_html/Abhidh1_utf8_html/Kv_I_utf8.html この2つのサイトでテキストが微妙に異なっていました。 さらに本では文字の表記がṁでした。サイトではṃで異なっていました。 ~~~~~~~~~~~~~~ (12)パーリ語とマガダ語との間には、上述のような顕著な差異が認められるけれども,然しパーリ語の中にも, rであるべき場合にマガダ語的にlとなつていたり,または男性や中性の単数主格の語尾がパーリ語本来の-oや-aṁでなくして,マガダ語的に -e となつていたりする場合が時にあるのである。この例として特に著しいのは,アソーカ王時代にマガダの首都パータリプッタ(Pāṭali-putta)で行われた第三結集 (仏典編纂会議)で,議長モッガリプッタ・テッサ(Moggaliputta Tissa)によつて作られたとせられる 論事(Kathā-vatthu)におけるものである。 本書は他部派の異説二百十七項目に対する問答論破をなしたものであるが,その問答の中に屢々マガダ語的色彩が現れているのである。それはこの問答がマガダの地で行われたために,その面影を伝えるためにマガダ語的口調を残したのかもしれない。 パーリ語文法 水野弘元 著 山喜房佛書林 平成12年5月23日 第10版 25ページ ~~~~~~~~~~~~~ 論事の中に見えるマガダ語的口調には次の如きものがある。 vattabbe=vattabbaṁ 又は vattabbo 「言わるべきである」(KV.p. 1 ff.) niggahetabbe=niggahetabbaṁ 「論駁せらるべし」(KV.p.2;p.4 etc.) ese ce dunniggahite = eso ce dunniggahito 「若しこの論駁が不十分ならば」(KV.p.3; p.6 etc.) ye kate niggahe se niggahe dukkaṭe, sukate paṭikkamme = yo kato niggaho so niggaho dukkaṭo, sukataṁ paṭikkammaṁ (kv.p.4;p.7etc.) ese se ekaṭṭhe same samabhāge tajjāte = eso so ekaṭṭho samo samabhāgo tajjāto 「これはそれであり,一義であり,同様であり,同分であり,同じ種類である」(kv.p.26ff.) パーリ語文法 水野弘元 著 山喜房佛書林 平成12年5月23日 第10版 25ページ ~~~~~~~~~~~~~~ (http://suttacentral.net/pi/kv1.1 では niggahetabbāだったが他のサイトではniggahetabbaṃがあった。 http://www.xin-yuan.com/Pali_Tipitaka_utf8_html/Abhidh1_utf8_html/Kv_I_utf8.html) (http://suttacentral.net/pi/kv1.1 では ye kate niggahe se niggahe dukkaṭe. Sukate paṭikamme. 本ではpaṭikkammeあるいはpaṭikkammaṁで、サイトではpaṭikamme。kがどうなっているのか。) (http://suttacentral.net/pi/kv1.1 では esese ekaṭṭhe same samabhāge tajjāteti?であり、eseseだったり、?があったりする) ~~~~~~~~~~~~~~~~
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207067
- 回答数4
- アショーカ王の時代の言葉でしょう?
入力が大変でした。 誤字脱字がかなりあるかもしれません。 水野弘元のパーリ語文法に出てきた カターヴァットゥがネットにありました。 ですが、アビダンマの項目にあったので、 マガダ語とかいわれても、それはブッダのことばと関係ないのでは? 水野弘元の説明は無理がありませんか? なぜアショーカ王の時代の言葉が使われたと説明せずに 無理やり、ブッダの言葉と結び付けているのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~ Collection: Pāli Theravāda Abhidhamma Division: Kathāvatthu (Kv) http://suttacentral.net/kv ~~~~~~~~~~~~~~~~ Kv 1.1 Puggalakathā http://suttacentral.net/pi/kv1.1 [PTS Vol Kvu 1] [\z Kv /] [\f I /] [PTS Page 001] [\q 1/] [BJT Vol Kvu 1] [\z Kv /] [\w I /] [BJT Page 002] [\x 2/] Abhidhammapiṭake Kathāvatthuppakaraṇaṃ http://www.xin-yuan.com/Pali_Tipitaka_utf8_html/Abhidh1_utf8_html/Kv_I_utf8.html この2つのサイトでテキストが微妙に異なっていました。 さらに本では文字の表記がṁでした。サイトではṃで異なっていました。 ~~~~~~~~~~~~~~ (12)パーリ語とマガダ語との間には、上述のような顕著な差異が認められるけれども,然しパーリ語の中にも, rであるべき場合にマガダ語的にlとなつていたり,または男性や中性の単数主格の語尾がパーリ語本来の-oや-aṁでなくして,マガダ語的に -e となつていたりする場合が時にあるのである。この例として特に著しいのは,アソーカ王時代にマガダの首都パータリプッタ(Pāṭali-putta)で行われた第三結集 (仏典編纂会議)で,議長モッガリプッタ・テッサ(Moggaliputta Tissa)によつて作られたとせられる 論事(Kathā-vatthu)におけるものである。 本書は他部派の異説二百十七項目に対する問答論破をなしたものであるが,その問答の中に屢々マガダ語的色彩が現れているのである。それはこの問答がマガダの地で行われたために,その面影を伝えるためにマガダ語的口調を残したのかもしれない。 パーリ語文法 水野弘元 著 山喜房佛書林 平成12年5月23日 第10版 25ページ ~~~~~~~~~~~~~ 論事の中に見えるマガダ語的口調には次の如きものがある。 vattabbe=vattabbaṁ 又は vattabbo 「言わるべきである」(KV.p. 1 ff.) niggahetabbe=niggahetabbaṁ 「論駁せらるべし」(KV.p.2;p.4 etc.) ese ce dunniggahite = eso ce dunniggahito 「若しこの論駁が不十分ならば」(KV.p.3; p.6 etc.) ye kate niggahe se niggahe dukkaṭe, sukate paṭikkamme = yo kato niggaho so niggaho dukkaṭo, sukataṁ paṭikkammaṁ (kv.p.4;p.7etc.) ese se ekaṭṭhe same samabhāge tajjāte = eso so ekaṭṭho samo samabhāgo tajjāto 「これはそれであり,一義であり,同様であり,同分であり,同じ種類である」(kv.p.26ff.) パーリ語文法 水野弘元 著 山喜房佛書林 平成12年5月23日 第10版 25ページ ~~~~~~~~~~~~~~ (http://suttacentral.net/pi/kv1.1 では niggahetabbāだったが他のサイトではniggahetabbaṃがあった。 http://www.xin-yuan.com/Pali_Tipitaka_utf8_html/Abhidh1_utf8_html/Kv_I_utf8.html) (http://suttacentral.net/pi/kv1.1 では ye kate niggahe se niggahe dukkaṭe. Sukate paṭikamme. 本ではpaṭikkammeあるいはpaṭikkammaṁで、サイトではpaṭikamme。kがどうなっているのか。) (http://suttacentral.net/pi/kv1.1 では esese ekaṭṭhe same samabhāge tajjāteti?であり、eseseだったり、?があったりする) ~~~~~~~~~~~~~~~~
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207067
- 回答数4
- 『ブッダのことば』とは言えないものを
『ブッダのことば』とは言えないものを『ブッダのことば』として 伝えることを、なんとも思わないのでしょうか?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207067
- 回答数10
- 現代の中国や韓国で原始仏教の研究はしているの?
okwaveで仏教の話をすると 外国人が逆上するようです。 そんなに関心があるならネットの書き込みに 嫌味とかあてつけとかしていないで 仏教書を読めばいいと思うのですが 日本の漫画や小説を読んでも仏教書は読まないようなのです。 原始仏教というと曹洞宗の学者が原始仏教というなと 逆上するので、ゴータマ・ブッダについてとでもいえばいいのか。 他人の覚りをどうのこうのいうなというわりに 道元の悟りの話ばかりする日本の禅僧もどうかと思うけれど それで気になっていたのですが、 中国や韓国の原始仏教の研究はどうなっているのですか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207067
- 回答数1
- 老子:大道が廃れる前には何があったのか?
廃れる前には その廃れるべき大道があった。のか? ▼ (老子 18章) ~~~~~~~~~~ 大道廃(すた)れて仁義あり。 智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり。 六親和せずして孝慈あり。 国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 《仁義》が説かれるようになる前の時代と社会とは どんなだったのか? (い) 大道が活きたチカラとしてあって 言うならば無為自然なる生き方を人びとがしていた。それが 元々の時代と社会だ。とするならば いったいぜんたい どうしてその大道が廃れたのか? (う) 無為自然とは どういうことか? (え) 日本人には総じて言って 馴染みやすく なじみが深い感じで受け留められているものと思われます。けれども しかしながらその無為自然が 初めに何か《大道》というような始原(アルケー)を立てているのだとしたら そのぶん退(ひ)く。のではないでしょうか? (お) もののあはれを知るとき 《はじめ》は無い。もしくは いちいち《ある・ない》にこだわることは無い。のではないであろうか? そうだとしたら 道教(タオイズム)と神道(シントウイズム)とには 大きなへだたりがある。日本人は 無為自然に対して違和感をもいだく。のではないだろうか?
- 老子:大道が廃れる前には何があったのか?
廃れる前には その廃れるべき大道があった。のか? ▼ (老子 18章) ~~~~~~~~~~ 大道廃(すた)れて仁義あり。 智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり。 六親和せずして孝慈あり。 国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 《仁義》が説かれるようになる前の時代と社会とは どんなだったのか? (い) 大道が活きたチカラとしてあって 言うならば無為自然なる生き方を人びとがしていた。それが 元々の時代と社会だ。とするならば いったいぜんたい どうしてその大道が廃れたのか? (う) 無為自然とは どういうことか? (え) 日本人には総じて言って 馴染みやすく なじみが深い感じで受け留められているものと思われます。けれども しかしながらその無為自然が 初めに何か《大道》というような始原(アルケー)を立てているのだとしたら そのぶん退(ひ)く。のではないでしょうか? (お) もののあはれを知るとき 《はじめ》は無い。もしくは いちいち《ある・ない》にこだわることは無い。のではないであろうか? そうだとしたら 道教(タオイズム)と神道(シントウイズム)とには 大きなへだたりがある。日本人は 無為自然に対して違和感をもいだく。のではないだろうか?
- 老子:大道が廃れる前には何があったのか?
廃れる前には その廃れるべき大道があった。のか? ▼ (老子 18章) ~~~~~~~~~~ 大道廃(すた)れて仁義あり。 智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり。 六親和せずして孝慈あり。 国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 《仁義》が説かれるようになる前の時代と社会とは どんなだったのか? (い) 大道が活きたチカラとしてあって 言うならば無為自然なる生き方を人びとがしていた。それが 元々の時代と社会だ。とするならば いったいぜんたい どうしてその大道が廃れたのか? (う) 無為自然とは どういうことか? (え) 日本人には総じて言って 馴染みやすく なじみが深い感じで受け留められているものと思われます。けれども しかしながらその無為自然が 初めに何か《大道》というような始原(アルケー)を立てているのだとしたら そのぶん退(ひ)く。のではないでしょうか? (お) もののあはれを知るとき 《はじめ》は無い。もしくは いちいち《ある・ない》にこだわることは無い。のではないであろうか? そうだとしたら 道教(タオイズム)と神道(シントウイズム)とには 大きなへだたりがある。日本人は 無為自然に対して違和感をもいだく。のではないだろうか?
- 僕は死にましぇん。
はっきり言おう。 ノストラダムスが予言した恐怖の大王とは私の事だ。 私は君たちの滅びを司る暗黒の救世主。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私は生きながらに常世の住人だ。 私にとって肉体を失う事は単なる変化であり死ではない。 しかし君たちはそうではないね。 死ぬんだよ。 そもそも霊視のできる私がまじない師仕事で死者の消息を尋ねられたとしよう。 常世に死者はいない。 したがって、見出すことができない。 何故なら君たちの死は永遠の死だからだ。 死を背負った君たちは常世において記憶の墓標という死者の証を記している。 それは天界において記録される君たちへの裁きの証であり、君たちの真実だ。 君が死ぬとその記憶の墓標から、不実の繭が羽化し赦された新たな命が生まれる。 それは君たちではない。 君たちは消滅し、その記憶を受け継ぐ新たな生命が、許される自由を謳歌するのだ。 それが来世で新人類として闊歩するだろう。 君たちの魂は食い破られるのだ。 私は君たちの安らかな滅びのため戦い、新人類の誕生をみとる。 さらば、古き者どもよ。 以上はいつものように仮面ライダーの考察の一部です。 哲学的には死をテーマにしています。 あなたなりに死を解釈してください。 怪人の振りをして、死の定めに踊ってくれてもいいです。
- 教材
センター倫政では必答、選択問題で決まった傾向はありますか?ランダムですか? 今まで問題演習→その部分を教科書と資料集熟読してきました しかし、いろいろな参考書も出ているので不安です… やっぱり何か教科書と資料集に代わるものを買った方がいいのでしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- midousujiakira
- 回答数1
- ゲイの映画には何故必ずゲイ同士の濡れ場が出てくる?
私自分ではリベラルだと思ってます しかし先日ゲイをテーマにした映画を見てそこで男同士の濡れ場のシーンで「キモっ!」と思いました 私は実は心の奥では差別主義者だったのかと自分にガッカリしかけました・・・ しかしよく考えてみると別にゲイでなくても年寄り同士のをみてもキモいと思うだろうし、家族系や友人系もキモいですし、変態行為もキモいと思う自分に気付きました そうなるとキモくない方が少ないので、そっちが特別で別に差別でも何でもないな、と安心しました(それか年寄りや変態も差別しているのかもしれませんが 笑) なのに何故ゲイの映画には必ず濡れ場があるのだと思いますか? 確かにそれも世の中で起きている真実であると思いますが、親子愛の映画で親のセックスは見せないし、恋愛映画でのセックスでも、もしかしたら道具とか使ってるかもしれないのにそこは描かれません なのにゲイだけ、ここまで描かないと偏見はなくならない!と言わんばかりです それがゲイの恋愛をテーマにしているならまだしもそうじゃなくて、テーマがゲイの偏見を無くす、というだけであってもほぼ必ず出てきます(トランスアメリカなど) これは逆にゲイの人らが勝手に被害妄想バリバリだからなんじゃないのか?といわんばかりです それかゲイは日常的にそういう風だからそういうシーンが当たり前に出てくるのか・・・ 一体どうなんでしょう? 理路整然とした、ここのカテの人に聞いてみたいです
- 老子:大道が廃れる前には何があったのか?
廃れる前には その廃れるべき大道があった。のか? ▼ (老子 18章) ~~~~~~~~~~ 大道廃(すた)れて仁義あり。 智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり。 六親和せずして孝慈あり。 国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 《仁義》が説かれるようになる前の時代と社会とは どんなだったのか? (い) 大道が活きたチカラとしてあって 言うならば無為自然なる生き方を人びとがしていた。それが 元々の時代と社会だ。とするならば いったいぜんたい どうしてその大道が廃れたのか? (う) 無為自然とは どういうことか? (え) 日本人には総じて言って 馴染みやすく なじみが深い感じで受け留められているものと思われます。けれども しかしながらその無為自然が 初めに何か《大道》というような始原(アルケー)を立てているのだとしたら そのぶん退(ひ)く。のではないでしょうか? (お) もののあはれを知るとき 《はじめ》は無い。もしくは いちいち《ある・ない》にこだわることは無い。のではないであろうか? そうだとしたら 道教(タオイズム)と神道(シントウイズム)とには 大きなへだたりがある。日本人は 無為自然に対して違和感をもいだく。のではないだろうか?
- 公正としての正義 自由と平等という対立の調整
ジョン・ロールズの「公正としての正義 再説」を読んでいるのですが、難しくてさっぱりわかりません。 ジョン・ロールズは「平等な自由原理」と「格差原理」という実質的正義の二原理と手続的正義に関する組合せにより、自由と平等という対立の調整を行う指針を提示したようですが、 まず、「実質的正義」「手続的正義」「平等な自由原理」とは何であるか? 次に、「自由と平等という対立の調整」をどのように行ったのか? それに、「格差原理」には、「社会の最も不利な状況にある人々の利益を最大化するための社会的・経済的不平等は正当化される」とありますが、社会の最も不利な状況にある人々とはどうやって決められるのか? が、さっぱりわかりません。最初から読んでいるのですが、書いてあることが難しくて、一文読むのにも苦労しています。 詳しい方いらっしゃいましたら、わかりやすく教えて下さい。 よろしくお願い致します。
- この日本社会で「真人間」と呼べる人は何%ぐらい?
真人間とういのが分かりにくければ 良い人 でも構いません トルストイでしたか この世には2種類の人間がいる それは良い人と悪い人だ と言っています 特に日本社会は本音と建前が食い違うので建前ではみんな良い事言ってても 裏ではエゴイスティックな考えや 無責任な考えなど 人間を見ることがあります どうでしょうか あなたの感覚で 今の日本 真実の人「真人間」は何%ぐらいいると思いますか? その比率があまりに低ければ 日本の将来は不安ですねえ。 どうぞよろしくお願いします。
- 運命ってなんですか。
運命ってなんですか。 私は永遠の生を受けたものとして、多くの人に対してその目前に目の当たりにする死を阻み、生きる光明を与えました。 それは私が男子プリキュア、キュアブルームだからです。 悪とは死を阻む事です。 しかしそうして私が与えた生きる活路は、どうやらその人々にとって運命とまで呼ぶようです。 私は、運命を与えるとまで考えられることにちゅうちょしています。 縁を私とつなげることで、それがその人の運命とまでなるようです。 運命ってなんですか。