NemurinekoNya の回答履歴
- 哲学に人生を賭けるのは愚かか?
私は思春期に色々と考えて 哲学を極めないと世界は良くならないと思いました。 それで大学も中退して、家を出てアルバイトをしながら 自分で考えました。 能率は悪かったですが 仏門に入ったようなつもりでした。 永平寺などでは東大での人が修行を積んで仏教を極め悟りを目指すようですし 京大や東大や九大にも優秀な人が哲学科の大学院まで行って 教授になったりして 哲学をしています。しかし答えがでない。 私はそんなに優秀ではありませんので 違う方法を取った訳です。 哲学的に哲学してみました?その結果「存在性思想」にたどり着きましたが これもまだ ?マークが付きます。 哲学に人生をかけ 病気をして無意味な一生を終えようとする私はバカだったのでしょうか? 病人の為短文でご感想などお聞かせください。
- 《才能》と《英語》・・・
●たとえば、これから英語の勉強を始めた人がいるとします、その人が1年後にほとんど英語が喋れないと周りの人は、『あの人は1年も勉強しているのに、いまだに英語が話せないなんて才能がないんじゃないか?』と判断され、逆に1年後に喋れるようになると『たったの1年で英語が出来るなんて凄い才能だ』と、判断されるのでしょうか?ちなみに、*あなたが好きなパンは何ですか?(あんパン食べたい・・・)
- 『聖書』は 日本人には要らないか?
漠然とした問いです。必ずしも焦点がさだまらないかも分かりませんが 問いとしてはむしろはっきりしているとも考えます。要るか要らないかですから。 哲学カテで問うているというのが ただひとつの前提でしょうか。 という出で立ちで 思うところを述べてみてくださいますか? むろん なぜそう考えるかをお聞きしたい。 そうして主題を伸ばして行ければというコンタンです。 たとえば 『聖書』とそしてクリスチアニズム(特にはそのオシエ)との違いがすでにあります。 教会など坊主の関与する世界とそうではない世界との違いもあります。 あるいは あなたはこの書物をどう位置づけていますか? といった問いにもなるかと考えます。 よろしくどうぞ。
- 《才能》と《英語》・・・
●たとえば、これから英語の勉強を始めた人がいるとします、その人が1年後にほとんど英語が喋れないと周りの人は、『あの人は1年も勉強しているのに、いまだに英語が話せないなんて才能がないんじゃないか?』と判断され、逆に1年後に喋れるようになると『たったの1年で英語が出来るなんて凄い才能だ』と、判断されるのでしょうか?ちなみに、*あなたが好きなパンは何ですか?(あんパン食べたい・・・)
- 《才能》と《英語》・・・
●たとえば、これから英語の勉強を始めた人がいるとします、その人が1年後にほとんど英語が喋れないと周りの人は、『あの人は1年も勉強しているのに、いまだに英語が話せないなんて才能がないんじゃないか?』と判断され、逆に1年後に喋れるようになると『たったの1年で英語が出来るなんて凄い才能だ』と、判断されるのでしょうか?ちなみに、*あなたが好きなパンは何ですか?(あんパン食べたい・・・)
- 《ねたむ神》は ただの表現の問題である。
1. 《ねたむ神》というのは 神がねたむのでは必ずしもなく そうではなく神のもとなる人びとが互いにねたむと言っているのである。 2. ♪狭いながらも楽しい我が家とか ♪雪の降る夜はたのしいペチカといった表現の問題におなじい。 3. 楽しいのは わが家では必ずしもなく ペチカではない。そこにいる家族や友だちやである。ならば ねたむ神と言ったら 神のもとにあつまる人びとがねたむのである。 4. すべての場合に当てはまるとは見ませんが 基本的に見て そういう問題が聖書の表現にはある。これは 大きく重要問題として横たわっていると考えられます。 5. 聖書を文字通りに受け取るのは あまり生産的でも建設的でもありません。というお話ですが いかがでしょう? 6. すなわちその節には――というのは ふるい昔の旧約の時代には―― そういった表現をして神のことを人びとに知らせる必要があった。つまり いきなり神は愛であるというような表現では 人びとにとってはお呼びではなかった。と考えられるのではないだろうか。 7. 《復讐はわれにあり》と神が言ったのは すでに旧約の時代です。ですが このようにかたき討ちは わたしに任せておきなさいと神が言ったことを 現代の韓国人はまったく取り合わないと来ています。いかにネアンデルタール人よりも遅れていることか。 8. 表現の問題ではないか?
- 《ねたむ神》は ただの表現の問題である。
1. 《ねたむ神》というのは 神がねたむのでは必ずしもなく そうではなく神のもとなる人びとが互いにねたむと言っているのである。 2. ♪狭いながらも楽しい我が家とか ♪雪の降る夜はたのしいペチカといった表現の問題におなじい。 3. 楽しいのは わが家では必ずしもなく ペチカではない。そこにいる家族や友だちやである。ならば ねたむ神と言ったら 神のもとにあつまる人びとがねたむのである。 4. すべての場合に当てはまるとは見ませんが 基本的に見て そういう問題が聖書の表現にはある。これは 大きく重要問題として横たわっていると考えられます。 5. 聖書を文字通りに受け取るのは あまり生産的でも建設的でもありません。というお話ですが いかがでしょう? 6. すなわちその節には――というのは ふるい昔の旧約の時代には―― そういった表現をして神のことを人びとに知らせる必要があった。つまり いきなり神は愛であるというような表現では 人びとにとってはお呼びではなかった。と考えられるのではないだろうか。 7. 《復讐はわれにあり》と神が言ったのは すでに旧約の時代です。ですが このようにかたき討ちは わたしに任せておきなさいと神が言ったことを 現代の韓国人はまったく取り合わないと来ています。いかにネアンデルタール人よりも遅れていることか。 8. 表現の問題ではないか?
- 《ねたむ神》は ただの表現の問題である。
1. 《ねたむ神》というのは 神がねたむのでは必ずしもなく そうではなく神のもとなる人びとが互いにねたむと言っているのである。 2. ♪狭いながらも楽しい我が家とか ♪雪の降る夜はたのしいペチカといった表現の問題におなじい。 3. 楽しいのは わが家では必ずしもなく ペチカではない。そこにいる家族や友だちやである。ならば ねたむ神と言ったら 神のもとにあつまる人びとがねたむのである。 4. すべての場合に当てはまるとは見ませんが 基本的に見て そういう問題が聖書の表現にはある。これは 大きく重要問題として横たわっていると考えられます。 5. 聖書を文字通りに受け取るのは あまり生産的でも建設的でもありません。というお話ですが いかがでしょう? 6. すなわちその節には――というのは ふるい昔の旧約の時代には―― そういった表現をして神のことを人びとに知らせる必要があった。つまり いきなり神は愛であるというような表現では 人びとにとってはお呼びではなかった。と考えられるのではないだろうか。 7. 《復讐はわれにあり》と神が言ったのは すでに旧約の時代です。ですが このようにかたき討ちは わたしに任せておきなさいと神が言ったことを 現代の韓国人はまったく取り合わないと来ています。いかにネアンデルタール人よりも遅れていることか。 8. 表現の問題ではないか?
- 創造神話の一種の流出説をどう表現するか?
書き直せばいいのでしょうが、思いつかなかったので質問してみます。 サンスカーラとマーヤー という質問で ブラフマンの世界への顕現 と書いてみたのですが、読み返してみても 私もまぎらわしいと思いましたが、ここでは、 形のない、いわば衝動だけのブラフマンが、世界という形を成した ということなのです。 この場合、岩とか木とか海とか植物、そして、動物や人間も ありとあらゆるものがブラフマンが形を成したもの ということであり、 ですから、人間が苦行者となり、禁欲すれば ブラフマンの衝動が消えて、「無」になる。ということです。 これを人格神が迎えに来たなどと解釈されては 何も伝わっていないことになります。 顕現だとまぎらわしいですか? あと、サンスカーラとサンカーラですが 正しい表記法があるなら教えてください。 ついでに仏教学者にも言ってくださいね。 saṃskāra saṅkhāra 日本語は難しい。 諸行無常より 十二因縁の行のほうが例としてはよかったかな。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 十二支縁起の要素[編集] 2.行(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81 ~~~~~~~~~~~~~~~
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207067
- 回答数4
- 創造神話の一種の流出説をどう表現するか?
書き直せばいいのでしょうが、思いつかなかったので質問してみます。 サンスカーラとマーヤー という質問で ブラフマンの世界への顕現 と書いてみたのですが、読み返してみても 私もまぎらわしいと思いましたが、ここでは、 形のない、いわば衝動だけのブラフマンが、世界という形を成した ということなのです。 この場合、岩とか木とか海とか植物、そして、動物や人間も ありとあらゆるものがブラフマンが形を成したもの ということであり、 ですから、人間が苦行者となり、禁欲すれば ブラフマンの衝動が消えて、「無」になる。ということです。 これを人格神が迎えに来たなどと解釈されては 何も伝わっていないことになります。 顕現だとまぎらわしいですか? あと、サンスカーラとサンカーラですが 正しい表記法があるなら教えてください。 ついでに仏教学者にも言ってくださいね。 saṃskāra saṅkhāra 日本語は難しい。 諸行無常より 十二因縁の行のほうが例としてはよかったかな。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 十二支縁起の要素[編集] 2.行(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81 ~~~~~~~~~~~~~~~
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207067
- 回答数4
- 鎌倉仏教の特徴について
鎌倉仏教の特徴は何か。あと、鎌倉仏教はどのようにして民間へ普及したか。そして、 鎌倉時代の文学作品、美術作品から代表作を選んでその特徴はどうなっているか。 いろんな問題が知りたいので、どうぞよろしくお願いいたします。
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- 哲学・倫理・宗教学
- Veronicazy
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- ブラフマンは善なのか?
~~~~~~~~~~~~~~ 「正しい御指摘です」と彼は言った、「しかしそれでは、ほかならぬそのこと、神々の物語についての規範とは、どのようなものなのでしょうか?」 「おそらくそれは、次のようなものであるはずだ」とぼくは言った、「神がほんとうにそうであるような性格を、つねに必ず与えなければならないこと――神を詩の中で描くのが、叙事詩にいてであろうと、抒情詩においてで あろうと、悲劇においてであろうと、いずれの場合にもね」 「そうしなければなりません」 「そうすると、いやしくも神であるからには、真に善き者であるはずであり、そしてそのとおりに語らなければならないわけだね?」 「たしかに」 プラトン 国家 第2巻 18章 379A~379B ワイド版岩波文庫 国家(上) プラトン 著 藤沢令夫 訳 159~160ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ プラトンは神を善にしているようです。 プラトンがキリスト教に影響を与えているなら 旧約聖書の神が無理があってもキリスト教において 善になってしまうのですが、 それはともかく、インド神話 マーヤーが気になるので、ブラフマンについて、 ブラフマンは善なのでしょうか? マーヤーによって人を欺くかもしれない?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207067
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- どんな《神は死んだ》のか?
どんな《神は死んだ》のか? 主題は ふたつです。 神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか? ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か? まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。 ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~ ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。 寒くなってきてはいないか? これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか? 昼前から行燈を灯す必要はないのか? 神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか? 神が腐る臭いがまだしてこないのか? ――神々といえども腐るのだ。 神は死んだ! 死んでしまい 蘇ることはない! しかも 我々が殺したのだ! 殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか? これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。 (『喜ばしき知識』125番) 大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。 しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。 実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。 《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。 ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。 ・・・ 再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み pp.149-151 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。 そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。 と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。 三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。 つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。 いったいニーチェとは何だったのか? レクイエムを書いてやってください。
- どんな《神は死んだ》のか?
どんな《神は死んだ》のか? 主題は ふたつです。 神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか? ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か? まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。 ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~ ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。 寒くなってきてはいないか? これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか? 昼前から行燈を灯す必要はないのか? 神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか? 神が腐る臭いがまだしてこないのか? ――神々といえども腐るのだ。 神は死んだ! 死んでしまい 蘇ることはない! しかも 我々が殺したのだ! 殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか? これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。 (『喜ばしき知識』125番) 大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。 しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。 実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。 《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。 ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。 ・・・ 再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み pp.149-151 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。 そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。 と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。 三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。 つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。 いったいニーチェとは何だったのか? レクイエムを書いてやってください。
- 人間関係の市場主義的と家族主義的
どこへいっても通じるとか移動の自由とか浅く広いとかたくさんの情報というのが、市場主義的な人かと思います。 反面、家族や深い人間関係をもって、ホームゲーム的な得意あるいは保護された環境でのメリットデメリットあると思います。 最近はたとえば、異性関係は一対一なので、もし市場主義だと相手をいい悪いで判断しても一対多数ではないので、一人と親密さが問われて家族主義的のほうがあっているように思えます。 また、市場主義的だと全体的に人の距離が遠かったり、心の助け合いは存在にくいと思います。逆にいつでも浅い人間関係って流れやすいですけど補充できたりするとは思います。 横にウイングを伸ばすのもいいですけど、情報や広さを得る前者に対して家族主義的というのはどういう良さがあるのでしょう。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#209756
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- G線上のアリアでコントラバスが流れているところは
G線上のアリアでコントラバスが流れているところは、 出だしの高いメロディの合間に流れる低いボンボンという音ですか? また、他にコントラバスの音がはっきり分かる曲はありますか?