JidousyaGaisya の回答履歴
- 実存主義 とゴドーを待ちながら
サミュエル ベケット(Samuuel Becket)の「ゴドーを待ちながら」(Waiting for Godot)のおける サルトルの実存主義 (Exsistentialism) のあり方について教えてください。
- 数学の世界には悪意がないといいますが・・・。
オマエ(Y軸)シネヨ グラフを重ね合わせると上記のように解読可能な複数の2次方程式を与えそれを生徒に解かせます。 これでも数学の世界には悪意がないといえますか?
- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- .NET Framework 3.5 SP1の件
.NET Framework 3.5 SP1をインストールしたいのですが、Microsoftからダウンロードしたファイルを起動しても何も起こらず、インストールできません。 完全なパッケージも起動すると、「ファイルを展開中」とウィンドウが出て、メーターが100%になるとウィンドウが消えてその後何も起きません。 .NET Framework 4はインストールできてるんですが、3.5SP1じゃないと起動しないアプリケーションがあるみたいなのでインストールしたいのですが、いろんなサイトを見ても解決できず・・・。 OS Windows 7
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- Mikakeha
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- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- 機械論的身体観とは、意識が、機械的身体を一部分一部分すべてコントロール
機械論的身体観とは、意識が、機械的身体を一部分一部分すべてコントロールするというもので、つまり「思考する私」が、直接身体を操っているのだとする身体観です。 身体活動を習得するとき、身体活動のプログラムを意識が作成し、習得した後はそのプログラムに従って、ほぼ自動的・無意識的に身体が動きます。 しかし元々のプログラムを作ったのは意識であるので、活動のときに無意識であっても、そのことは機械論的身体観には反しないといいます。 ところが、この身体観では説明することが困難な活動の例もあるのだそうです。 そのような例が、なにか思いついたら、是非おしえてください。お願いします。
- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- 鰐達の顎
多くの肉食動物達は下顎を動かして捕食を試みているのだろう、 と私は勝手に考えていますが、 鰐達の口の動きをTV映像で見ました際に、 上顎を動かして捕食している様に感じられましたので、 確認への御協力を御願いしたくなりましたから、伺わせて下さい。 『下顎を固定化させて上顎を動かす捕食は本当に可能なのでしょうか? それとも其のTVを視聴した際の勘違いなのでしょうか?』 経絡の任脈・督脈の境目が上下の顎の処に位置していますので、 其の事情をも踏まえた回答を賜れますと、有り難いです。
- ベストアンサー
- 生物学
- SakuraiMisato
- 回答数4
- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- 諸悪の根源
問う人: 一つ訊いてもえーか。 「人の道」: 何でも訊いてみい。 ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人: 諸悪は何処から来る 「人の道」: 漬かろーとする心が諸悪を生む 問う人: なぜ漬かろーとする心が諸悪を生むんや 「人の道」: 漬かろーとする心は、神や仏を造るからや。 漬かろーとする心は、天国、地獄を求めるからや。 漬かろーとする心は、有を無であると願い、無を有であると願うからや。 漬かろーとする心は、無限なる宇宙を否定するからや。 漬かろーとする心は、真理の探求を放棄するからや。 漬かろーとする心は、形や権威に縛られるからや。 漬かろーとする心は、歴史を振り返ることを恐れるからや。 漬かろーとする心は、正しいことを諦めるからや。 問う人: ではどーすれば漬かろーとする心から解き放たれる 「人の道」: 今さら何を訊く、その答えは言わずと知れたこと。 問う人: そーか、「人の道」を歩めばえーんや。 「人の道」: そのとーり、「人の道」を歩めばえー。 もしこの考えが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 漬かろーとする心が諸悪を生み、「人の道」が諸悪を無くすちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- Hitonomiti
- 回答数5
- なぜ相手の知識を無視した回答をするのか
問いに対して、専門的な知識、学術用語をどう見ても非常識なくらい並べ立てて回答する人間がごく少数ではありますが、存在します。 そういう人間は本当に質問者に対して教えてあげたいのか、単に自分の知識を披露したいだけなのではないかと勘ぐってしまいます。 もちろん正確に答えるには専門用語が必要なこともあるでしょう、しかしもっと噛み砕いて説明することも可能なはずです。 そういうことをしない人間に限って、以前少し掘り下げて聞いてみたらその言語について十分な知識を持たずに論理に組み込んでいることが1度ならずありました。 相手と自分の土俵が違うという最低限のことくらい想像して回答できる人間が増えるにはどうすればよいでしょうか。 そう思ってこの質問を書いてみました。きっとメッセージになるはずだ。
- 日本人は 論理思考をそなえている。
この命題を次の二点で 問います。 (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。 (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか? (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~ 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる 一つ松 吾(あ)夫(せ)を 一つ松 人にあり≫せ≪ば 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を 一つ松 吾夫を ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~ (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう) 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ 一本の松 我が背子よ もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように 服を着せように ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。 その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか? (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか? 言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。 これが かれこれ千五百年 経つ。 けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。 はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。 ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。 うんぬん。 というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?
- XP用の古いソフト(WaveLab)を7で使いたい
「Windows7」で音楽用ソフトWaveLabの古い物(V:3)を使いたいのですが, ### Windows7の状態でWaveLabをインストールすると見かけ上,動いているように見えますが,ファイルや入力のアクセスができず,ファイルをアクセスしようとすると「プログラムが強制終了されます」. ### 7に合っていない場合にこのようなことが起こる,という記事を見つけて,「DEPで当該プログラムを例外指定する」というのがありました.やってみましたが,効果はありませんでした. ### Windows7の「XPモード」というのをやってみましたが,ファイルのアクセスはできますが,入力を認識せず,やはり使えません. ### なお,このソフトは前にはXP(SP2,SP3)では正常に動いていたものです. 新しいバージョンがあるようですが,あまり使うソフトではありませんし,価格も高いので,新規に購入するつもりはありません. XPに戻すのもばかばかしく,いらいらしています. どなたか教えていただけないでしょうか. よろしくお願い致します.
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- noname#186677
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- NHKなど、マスコミは、情報操作している?
福島原発の問題を、できるだけ過小に見せようとしている姿勢が覗えます。 4月4日、廃棄物処理施設から、海へ投棄される、低レベル放射性廃液1万1500トンについてですが、 (1)、NHKは、「法定基準の約100倍」と表現していますが、民主党に厳しい読売によれば、実際には157倍です。これは、切り捨てするにしても、せいぜい、約150倍、ではないでしょうか。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110404/t10015095221000.html http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110404-OYT1T00923.htm (2)、NHKでは、投棄される低レベル汚染水の濃度について、最も薄い、廃棄物処理施設の濃度である、1cc当たり「6.3ベクレル」にだけ言及し、5号機、6号機の最大500倍の20ベクレルの濃度については言及していません。 以上から、NHKは、やはり、大本営発表、であり、できる限り、問題を過小評価するよう情報操作しているのではないでしょうか? (そのほか、各マスコミ共通して、(1)「ただちに健康に問題は無い」としていますが、食物連鎖によって生物濃縮されることについては、一切言及がありません。また、(2)ヨウ素以外に、他の放射性物質を含んでいないのかが不明です。)
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- noname#134018
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- 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・
・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α) この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。 参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。 ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~ 一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。 しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。 ▲ (五箇条の御誓文) 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが: ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~ 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に 《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと 雖も止まず》。 とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・ 【上田正昭】 その翌年の正月にも 《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。 溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。 というのが出ていますね。 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。 《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに》 (万葉集 三・426) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。 ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。 (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。 (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。 権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。 (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。 (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。 (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?
- 液体の中に気体を入れると球状の形をする理由について
水などの液体に空気などの気体が入っていると、液体の中に入っている気体は球のような形になるみたいですが、どうして球状の形をするのでしょうか?
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