ghostbuster の回答履歴
- slings and arrows
幸福に関する TIME の記事 The New Science of Happiness を読んでいたら、途中に Hamlet の一節に出てくる life's slings and arrows という表現が出てきたのですが、 その沿革についての議論をお聞かせください。
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- 文学・古典
- decidrophob
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- ハイデガーの空間論について
必要があってハイデガーの「Bauen Wohnen Denken」の一部を訳出せねばならなくなったのですが、どうしても意味が把握できないところがあり、質問させていただきたいと思います。 人間と空間の相互浸透性について指摘した後の文です。 原文(152) Die Sterblichen sind, das sagt: wohnend durchstehen sie Raume auf Grund ihres Aufenthaltes bei Dingen und Orten. Und nur weil die Sterblichen ihrem Wesen gemas Raume durchstehen, konnen sie Raume durchgehen. この空間をdurchstehenする、durchgehenするとは、どういうことでしょうか。普通に「持ち堪える」「通過する」では、いまいちピンと来ないのです。 初期ハイデガーの空間論は門外漢にもなじみがあるのですが、どうもこの時期のものはわかりません。どうか、よろしくお願いします。 ちなみに該当箇所の英訳です。 To say that mortals are is to say that in dwelling they persist through spaces by virtue of their stay among things annd locals. And only because mortals pervade, persist through, spaces by their essence are they able to go through spaces.
- ヒュームの私的因果の不可能性
今、クリプキのWittgenstein On Rules and Private Languageを読んでいるのですが、そこに出てくるヒュームの私的因果の不可能性という概念がよくわかりません。 そこに記述されている内容の具体的に何が私的因果に相当するものなのか?よくわかりません。 簡単に説明できる方、よろしくお願いします。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#10278
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- ヒュームの私的因果の不可能性
今、クリプキのWittgenstein On Rules and Private Languageを読んでいるのですが、そこに出てくるヒュームの私的因果の不可能性という概念がよくわかりません。 そこに記述されている内容の具体的に何が私的因果に相当するものなのか?よくわかりません。 簡単に説明できる方、よろしくお願いします。
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- noname#10278
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- ハイデガーの空間論について
必要があってハイデガーの「Bauen Wohnen Denken」の一部を訳出せねばならなくなったのですが、どうしても意味が把握できないところがあり、質問させていただきたいと思います。 人間と空間の相互浸透性について指摘した後の文です。 原文(152) Die Sterblichen sind, das sagt: wohnend durchstehen sie Raume auf Grund ihres Aufenthaltes bei Dingen und Orten. Und nur weil die Sterblichen ihrem Wesen gemas Raume durchstehen, konnen sie Raume durchgehen. この空間をdurchstehenする、durchgehenするとは、どういうことでしょうか。普通に「持ち堪える」「通過する」では、いまいちピンと来ないのです。 初期ハイデガーの空間論は門外漢にもなじみがあるのですが、どうもこの時期のものはわかりません。どうか、よろしくお願いします。 ちなみに該当箇所の英訳です。 To say that mortals are is to say that in dwelling they persist through spaces by virtue of their stay among things annd locals. And only because mortals pervade, persist through, spaces by their essence are they able to go through spaces.
- ヘーゲルの人倫って何??
ヘーゲルの人倫が、家族と社会と国家それぞれにあることは分かったのですが、何故それが「だから、人のものを盗んではいけない」、という風になるのですか?
- オースティンの発語内行為
オースティンの発語内行為の意味をネットで調べているんですが、いろいろな説明が混ざり合っていて正直よくわかりません。そこで、オースティンの発語内行為を分かりやすく説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。
- カント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)
カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。 理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。 『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。 この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。
- カント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)
カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。 理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。 『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。 この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。
- カント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)
カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。 理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。 『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。 この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。
- カント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)
カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。 理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。 『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。 この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。
- アメリカの今の生活とピューリタニズム
ピューリタンの信条などの要素(参考書にはelements of Puritanism)が今のアメリカの生活にもいくつか存在している。と参考書は語っているのですが・・。 実際にアメリカで生活をしていない私にはどんなところでそれが言えるのかがよくわからないのです。 できれば簡単な例や説明をしていただけるとうれしいです。今までアメリカの生活という点では考えたことが無い(実際に生活していないしね)ので、まったく見当が付きません。 どなたか力を貸していただけませんか?
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- 歴史
- mezasedaiken
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- 価値の哲学
価値そのものに関する考察も、そろそろ結論を出さねばなりません。 現在、結論を出すとすれば、「価値にそのものについて言うことは出来ない」と言うことになります。 ただ最後に、お聞きしたいことは、以下の一点です。 価値は多義的な言葉ですが、量的意味が有ること。 つまり現実的には、価値評価によって量的比較を行っているという事実と、理論的には、量を測る為には、質的統一が必要だということ、---長さを重さで測られないように、有用性や希少性、美的価値といった、質の違ったものを量的に比較することの不可能性、---この矛盾をどう解決できるのかという問題です。 お時間が有りましたら、価値一般についてもご意見アドバイスをお願いします。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#15238
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