ghostbuster の回答履歴

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  • アメリカの「勇気」、「潔さ」

    アメリカ文学やアメリカ映画で、「勇気」や「潔さ」がテーマとして描かれている作品をご存知でしたら、タイトルや著者名を教えていただきたいです。 おねがいします。

  • 近代俳句の近代とは?

    正岡子規は、俳句の近代化を進めた、と言われます。(なんとなくそういうフレーズを記憶しています) 俳句における近代というのは、子規以前の俳句と比べて、どのような違いをもって言うのでしょうか。

    • fall60
    • 回答数6
  • 近代俳句の近代とは?

    正岡子規は、俳句の近代化を進めた、と言われます。(なんとなくそういうフレーズを記憶しています) 俳句における近代というのは、子規以前の俳句と比べて、どのような違いをもって言うのでしょうか。

    • fall60
    • 回答数6
  • ヘーゲル・カントの哲学

    私は現在大学でへ-ゲルとカントについて学んでいます。ですが、どうも自分なりに次のことが理解できずに悩んでいます。よろしければ分かる方がいらっしゃったら教えてください。 -ヘーゲル- 『経験』にかんすることで、経験の成立過程とそれに伴う真の主体とはなんなのかがよくわかりません。 -カント- 『現象』にかんすることで、ア・プリオリとか経験的自我とか超越論的自我の関連が難しいです。とくにその成立過程についておしえてください。 漠然とした質問で答えずらいと思いますが、よろしくおねがいします。

    • kotamai
    • 回答数1
  • The Life of Sri Ramakrishna(サリンジャー)

    "Hamilton”の127ページにサリンジャーが"The Life of Sri Ramakrishna"のコピーを送るようイギリスの出版社に催促されたと書いてありますが、これは実際には世の中に出版されていないのでしょうか?なにかその本に関する情報を得ようと検索しても何もでてこないので・・・ご存知の方、教えてください!

    • honey57
    • 回答数2
  • Nrdine Gordimerの・・

    Is There Nowhere Else Where We Can Meet?という作品を日本語訳で読みたいのですが、探してもなかなか見つかりません。日本語訳のものは出ていないのでしょうか??もしあるのであれば、どの本、もしくはサイトにあるのか教えてください!

  • 仮言命法は・・・

    定言命法=カントという図式が私の頭の中にはぼんやりとあるのですが、仮言命法はどのような方達が主張したのでしょうか? 自分の中では、仮言命法=功利主義者と言う風に思っていたのですが、これは正しいのでしょうか?

    • jyamu
    • 回答数3
  • 仮言命法は・・・

    定言命法=カントという図式が私の頭の中にはぼんやりとあるのですが、仮言命法はどのような方達が主張したのでしょうか? 自分の中では、仮言命法=功利主義者と言う風に思っていたのですが、これは正しいのでしょうか?

    • jyamu
    • 回答数3
  • 『にんじん』って

    フランス文学 かの有名な『にんじん』ですが、あれは何が伝えたいんでしょうか。 最後に読んだのが小学生の時だからなのかも知れませんが、私のイメージは「虐待の話?」です(^_^;) 少年の苦悩を描いた、とかなんとか評論には書いてあるけど、なんか納得いきません。明らかに残酷な話で当時の私は激しいショックを受けました。少年の苦悩がダイレクトに分かる程心理描写が巧み、というような作品でもなかったような…。 作者は何を伝えるつもりだったのでしょうか。

  • 質問です!

    イデアと形成・質料って何が違うんですか?どなたか比較して説明していただけませんか。

    • ryo222
    • 回答数2
  • レポートの書き方なんですが・・・

    哲学の授業で映画を見せられ、今までの授業にもとずいて映画批評のレポートを提出しなければならないのですが、今まで批評なんて書いたことないし、哲学的に映画を批評するなんてやったことありません。どのように書けばいいのでしょうか?

  • 樋口一葉の辞世の句の意味

    「さりとはの浮世は三分五里霧中」というのが、樋口一葉の辞世の句の最後の部分ですが、私の知識では、現代語に直すとどういう意味になるのかよく分かりません。「さりとは」は前の句を受けるものとして、「そうは言っても」でしょうか?「三分五里」は1センチ少しの長さですから「そうはいっても、世の中というものは、ほんの表面だけでも、理解し難いものだ」ということなのでしょうか?アドバイスをお願いします。

    • noname#24767
    • 回答数4
  • 樋口一葉の辞世の句の意味

    「さりとはの浮世は三分五里霧中」というのが、樋口一葉の辞世の句の最後の部分ですが、私の知識では、現代語に直すとどういう意味になるのかよく分かりません。「さりとは」は前の句を受けるものとして、「そうは言っても」でしょうか?「三分五里」は1センチ少しの長さですから「そうはいっても、世の中というものは、ほんの表面だけでも、理解し難いものだ」ということなのでしょうか?アドバイスをお願いします。

    • noname#24767
    • 回答数4
  • 「グレート・ギャッツビー」とジャズ・エイジ

    F.スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」について。 よく、ジャズ・エイジというとフィッツジェラルドや この小説の名前が挙がりますが、 小説そのものはどいういう風にジャズ・エイジを象徴していると思いますか。 具体的にどの場面がジャズ・エイジらしいのでしょうか。 小説だけを読んでもよくわからなかったので、 どなたか教えてください。

    • noname#11612
    • 回答数2
  • 「作品論」ってなんですか?

    高校の「表現研究」という授業の中で、 「作品論」を書いてこいという課題が出されました。 10分程度の短い映画について書くものです。 量は作文用紙2枚程度とあんまり多くはないのですが、 そもそも作品論というものがどのようなものかわかりません。 先生の説明を聞いてもさっぱりなんです・・・。 作品論=作品分析 みたいなことしか教えてもらえず、 課題が進みません。 「作品論」ってどのようなものなのか、教えてください。 お願いします><

  • 手紙はかならず宛先に届く

    これは、ことば遊びではありませんか? 質問に不審な方は、HNをクリックして、コメントを見てください。 以下余白

    • noname#15238
    • 回答数17
  • 手紙はかならず宛先に届く

    これは、ことば遊びではありませんか? 質問に不審な方は、HNをクリックして、コメントを見てください。 以下余白

    • noname#15238
    • 回答数17
  • え。山田風太郎の戦中派不戦日記って手つかずじゃなかったの?

    きのう、同著者の『戦中派焼け跡日記』を読み始めたら、なんだか既視感のある文章がぽろぽろ出てきまして。初見のものの合間合間に確かに見たことのである文章が。だけどどうも語順や表記がしっくりきません。あれ? あれれ? と首をひねり続け、もしかしてと『戦中派不戦日記』をめくってみると、あららら。 なんと幾つも記載がだぶっていました。もちろん『不戦』のほうは昭和二十年の大晦日で終わり、『焼け跡』のほうはその翌日の昭和二十一年元日から始まります。そして同じ事実に関する記載の表現を見比べると、『不戦』のほうが整っています。 こういうことでしょうか。山田は二十一年以降の日記を上梓する気はさらさらなかったので、そっちから面白そうな出来事を二十年の中に引きずり込んだ、という。 まあそれはいいとして、文章に斧鑿を加えるのって、えええ、ちょっと待ってください山田先生、って感じなんですが。『不戦』のあとがき(第二段落)でおっしゃってることと違ってません? この絶倫の史料は、もしかして、というより、やはり、全篇にわたって手が入ってるんでしょうか?

  • え。山田風太郎の戦中派不戦日記って手つかずじゃなかったの?

    きのう、同著者の『戦中派焼け跡日記』を読み始めたら、なんだか既視感のある文章がぽろぽろ出てきまして。初見のものの合間合間に確かに見たことのである文章が。だけどどうも語順や表記がしっくりきません。あれ? あれれ? と首をひねり続け、もしかしてと『戦中派不戦日記』をめくってみると、あららら。 なんと幾つも記載がだぶっていました。もちろん『不戦』のほうは昭和二十年の大晦日で終わり、『焼け跡』のほうはその翌日の昭和二十一年元日から始まります。そして同じ事実に関する記載の表現を見比べると、『不戦』のほうが整っています。 こういうことでしょうか。山田は二十一年以降の日記を上梓する気はさらさらなかったので、そっちから面白そうな出来事を二十年の中に引きずり込んだ、という。 まあそれはいいとして、文章に斧鑿を加えるのって、えええ、ちょっと待ってください山田先生、って感じなんですが。『不戦』のあとがき(第二段落)でおっしゃってることと違ってません? この絶倫の史料は、もしかして、というより、やはり、全篇にわたって手が入ってるんでしょうか?

  • え。山田風太郎の戦中派不戦日記って手つかずじゃなかったの?

    きのう、同著者の『戦中派焼け跡日記』を読み始めたら、なんだか既視感のある文章がぽろぽろ出てきまして。初見のものの合間合間に確かに見たことのである文章が。だけどどうも語順や表記がしっくりきません。あれ? あれれ? と首をひねり続け、もしかしてと『戦中派不戦日記』をめくってみると、あららら。 なんと幾つも記載がだぶっていました。もちろん『不戦』のほうは昭和二十年の大晦日で終わり、『焼け跡』のほうはその翌日の昭和二十一年元日から始まります。そして同じ事実に関する記載の表現を見比べると、『不戦』のほうが整っています。 こういうことでしょうか。山田は二十一年以降の日記を上梓する気はさらさらなかったので、そっちから面白そうな出来事を二十年の中に引きずり込んだ、という。 まあそれはいいとして、文章に斧鑿を加えるのって、えええ、ちょっと待ってください山田先生、って感じなんですが。『不戦』のあとがき(第二段落)でおっしゃってることと違ってません? この絶倫の史料は、もしかして、というより、やはり、全篇にわたって手が入ってるんでしょうか?