littlekiss の回答履歴

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  • 技術革新のスピードと、市民の関心度の過去と現在。

    技術革新のスピードと、市民の関心度の過去と現在。 非常にわかりにくい文章になるかもしれません。 今さっき感じた疑問が頭から抜けなくて… 私達のいる現代はパソコンや、最近はスマートホンや便利なもので溢れかえってます。 ここ10年を振り返っても、10年前の当時の映像を見ると文明的に古臭く感じるほどです。 僕は今の文明が最先端(こんな時代に生まれて幸せだ!)と思ってます。 多分100年前の人も思ってたと思います。 いや、多分ほぼ猿から人間に進化して家族を持ち、グループを持ち、村を作り・・・(ずーっと続く) これってその一瞬一瞬の人たちは「今が最先端だぜ!」と思ってる、と僕は考えたんです。 それじゃ1000年後はどうでしょう? 今現在きらびやかに輝く東京や新宿や秋葉原、ニューヨークや香港や、こんな世界も1000年後には古代都市に見えるのでしょうか? そしてもう一つ 文明が育つスピードは年々、いや秒単位で倍々で加速してるんじゃないかと思いました。 猿が骨でナイフを作った、火を使い始めた、石器を作った これらは何百年?何千年?と長い年月でゆっくりじわじわ技術を蓄え、ゆっくり「今って最先端」な時間が流れて行ってますよね? まさか骨ナイフから農作まで10年で行けるわけないし、実際何千年かかってるかは調べてないのでわかりませんが…長い年月がかかってると思います。 ここ最近はどうでしょう。 10年前。科学的にも医学的にもどんどん急成長(と言っても医学は十数世紀の医学の爆発的発見の世紀でほぼ出尽くしたらしいと聞きましたが、今もロボット技術などの面で凄く進歩してると思います)を続け、10年後はもっと驚くべき技術の進歩が見れると思います。 こういう文明?というのでしょうか。発展のスピードは年々スピードアップしてると思いますか? いや、そう思ってるだけで骨ナイフを初めて使った人間も、僕らがパソコンだスマートフォンだと驚いて樂しむ喜びの指数は同じで 技術の進むスピードも変化せず、このまま驚きや喜びも増えない、一定の喜び指数なのでしょうか?そんな指数はありませんが目に見えない定規として。 もしこのまま技術が進むスピードが それこそ地球が生まれ、生命が生まれ、生き物が爆発的に生まれ、人間ができ、その先の未来へ どんどん進化するスピードが早くなったら数千年後は、数万年後はブレイクアウトしてしまわないか心配です。 進化するスピードは人間がどうこうする事ができるとは思えませんし。 逆に技術や文明が伸びるスピードがずっと一定であれば、きっと結局この世界はもともと退屈で、我々の感じる新しい刺激は幻想だと思いました。 だって昔から驚きや喜びの指数は一定なんですもん。 そしてもう一つの説、遅くなってたらどうしましょう。 もちろん骨ナイフの時代から石器作るまでに何百や何千年(調べてません汗)かかった中に魚は食えるぞ!とか動物は回りこめば取りやすいとか、そういう発見がたくさんあったと思います。 例えばその古代人の知識が0だったとします。 そうするともうすることなす事全てが文明の最先端。毎日発見があり、まさに技術や文明の大爆発なんじゃないかと思ったわけです。 もちろん、どんな技術をポイントにしてひとつの技術の進歩の基準にしてるの? と聞かれれば困りますが、今回出した骨ナイフとかパソコンとかは一例です。 わかりにくい話かもしれませんが、物凄く悶々とします。 また、こういう学問はあるのでしょうか? 悩んでる自分としては大真面目です。 よろしくおねがいします。

  • イメージが動きだす

    ひらめく時って、稀ですがイメージが動き出して自然と仮説が浮かび上がることがあります。 (イメージが動くというのが新鮮でした) そして、それはわかり易く言えば、夢からベンゼン環のヒントを得たというエピソードに近いものです。 今回はそれが起きる理論はいいので、似たような体験があれば教えてください。

    • MOG777
    • 回答数3
  • 本当の友情と偽装された友情について

    「友情について」という質問で、友情とは何か、を先に質問したものです。今回はその結果を受けて、発展的な問いを投げかけさせていただこうと思います。 いろいろなご回答を読ませていただいた結果、友人とは自分のアイデンティティの基盤となる人間関係である――という考えが、一番、しっくりくるように思いました。ここで、アイデンティティが示すものは、精神の本来、帰属するべき場所という意味です。すなわち、心が安心し、緊張から解きほぐされるという意味です。「心のふるさと」を確認させてくれる人間関係と言い換えてもいいでしょう。 ふるさとであるというなら、もっとも理想的な帰属意識は、無邪気であった子供の時期と言えます。そこで、もっとも理想的な友人は、「竹馬の友」という言葉がある通り、幼いころから育った環境を等しくし、共通の価値観をもつ相手です。こうした相手は、好き嫌いに関係なく、共通の基盤をもっているので、表面的な諍いで関係が破壊されることはありません。激しい議論をすることができるでしょうし、お互いの問題点を注意し合うことができるでしょう。これがすべての友人関係の理想的な基本モデルと言ってよいのではないか、と私には思われます。 ところが、現代で「竹馬の友」をもつ人は、かなり少ないと言えます。それは引っ越しが多いとか、学校が離れ離れになるという要因が引き起こす問題であるように思います。高校の友人でさえ、連絡がつかないという人も多いでしょう。いや、それどころか、自らのアイデンティティをもつということ自体、時代遅れの考えとみなされる風潮にあります。では、心を安心させたい時、多くの人が採る手段は、どのようなものでしょうか。 一つの安易な解決方法は、偽の友達をもつことです。この偽の友達は、利害関係を共有していてはなりません。というのも、利害関係を共有しなければしないほど、緊張が少なく、相手に対して寛容さを示すことができるからです。相手が訳の分からないことを言い出しても、実質的に自分に損害が無い限り、微笑んで聞いてあげることができるでしょう。気楽に慰めてあげることができるでしょう。しかし、こうした偽装した友人関係では、突っ込んだ議論をするや否や、関係が破綻してしまいます。なぜなら、あくまで表面的な関係であって、Yesしか言わないことによって、相手が観たいものを見せているに過ぎないからです。つまり、相手の幻想を映す鏡となるだけの関係であるからです。しかし、このような偽装された友情は、他者との交流であるというより、ナルシシズムの延長と言ってよいものです。 私としては、「偽装された友情」を退け、「本当の友情」と言うべきものを回復する手立てが無いものかと思います。これにはどのような方法が、考えられるでしょうか? もし、二十歳を過ぎて竹馬の友と呼べるような友人を得た経験をした方があったら、その経験を交えつつ、それがどのようなものであったか、教えていただけないでしょうか。これは、前回の問いに比べて、かなり難しい問いだと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

    • noname#148745
    • 回答数16
  • 友情について

    最近、友情とは何かを考えているのですが、私は次のモンテスキューの言葉が気になっています。というより、私の関係の大部分を集約しているように思います。 >友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、 お返しに大きな親切を期待する契約である。 モンテスキューによれば、友情とは、「契約」であり、かつ、少ない元手で、大きなメリットを見込める関係だというのです。ムシがいいと言えばそれまでですが、これは現実にあるような気がします。たとえば、カウンセラーを友達に持てば、無料で相談ができるでしょう。学者が友達にいれば、無料で教えを請うことができるでしょう。本当ならアポを取って、お金を支払うべきところを、無料でやってもらえることになります。私の方でも、専門を生かして相手を助けますが、金銭のやり取りよりは、支払うべきコストとして楽であるわけです。 しかし、一方で、友情とは利益に関係なく成立する純粋なものだという意見もあるかと思います。そしてメリットを見越した上でしか友情が成立しないのだとすると、能力のない者は友達など持てないことになるでしょう。となれば、これは何かしら偏った意見であるには違いありません。ところが私は、対人関係において、メリットの無い関係というものがよくわかりません。そこで、皆さんに伺ってみることにしたのです。 1.モンテスキューの言葉をどのようにお考えになりますか? 2.メリットやデメリットを考えない純粋な友情をお持ちですか? 3. 2について、Yesであるのなら、何が関係を成立させる基盤になっているとお考えですか。 4. 友情をどのように定義しますか?

    • noname#148745
    • 回答数16
  • なぜ福祉国家の枠組みは崩れ、格差社会は形成されたの

    なぜ福祉国家の枠組みは崩れ、格差社会は形成されたのでしょうか? それを促進した政策もあると思いますが、どのようなものがあるでしょうか? お願いします

    • noname#164464
    • 回答数5
  • 認知症の人に、「人生 全う」 感ってありますか?

    私の母は 80歳で、認知症です。 子の務めとして、「親の人生を全うさせてやりたい」 のですが、 そんな状態の母、果たして それは彼女の望むところなのか 私の一人よがりなのか・・・ 私は、独り身の甲斐性無しで、今50歳です。 両親は、父83歳・母80歳。 母がダメです。 父はシッカリしてますが、母の認知症を受け入れきれず 始終怒ってばかりいます。 この先、私は両親の面倒をみなければなりません。 今まで育てあげてくれた恩を感じており、両親を最期まで看取る覚悟でいます。 でも、ボケてしまった母、私が尽くしてるコトは全く認知できてません。 (私がダレだか判らない・・・というまでには至ってませんが。) 私は、ボケていようが、「親の人生を全うさせたい」 のです。 親に、「ありがたがれ!」・・・などとは全く思ってません。 そこで質問です。 「人生を全うする」 とは、具体的にどういったコトを成し遂げた場合に言えるコトでしょうか? 「ボケた親の人生」 、この先 私はどうすれば 「全うさせた」 ことになるのでしょうか?

    • tomajuu
    • 回答数12
  • 悪には善意をもって徹するという考え

    正直理解できない考えなのですが。

  • つゆと落ち、つゆと消えにし我が身かな。

    宿題なんですけど。 この回答で二重マルがもらえますか? つゆ?は、雨露ですか? この時、露イコール秀吉? 秀吉の価値を意味してますか? 露の落ちる速度イコール人生ですか? ここの部分は爺さんしかわからない。 人生は早いのですか? 難しいなぁ。

  • われわれはなんで元気がないのか?

     元気が出ないですか?  出せないですか?  なぜですか?  気力が萎えるいちばんの原因は おそらく不条理に遭ったという経験からではないか?  ほかによりよき可能性があったんだがと悔やみ得た体験ならば 一たんあきらめがつく。失敗は成功の基ゆえ。  可能性があり得るのにこれが 閉ざされていることに対しては 憤りと失望とを通り越しても こころに落ち着かない部分をかかえてしまう。  おそらく――考えるに―― 権限を持つ上司に対しては 仲間どうしの協調のためにも 多少の不合理なことに対してならこちらが折れてもよい。ガミガミ電波にも耐えて行ける。    そうすると 無謬性の神話を まだ掲げるのは アマテラス公務員か? この神話の前には いかにこちらが納得の行く話をしても あちらがダメと言えば 可能性は閉ざされる。  でもこの壁も溶融し始めたであろうか?   ならば われわれの気力を萎えさせる絶望的な垂直壁は なんだろう?  神聖にして侵すべからざるアマテラシテ天皇か? いま現代において そうか?  政府がすでにスサノヲ市民政府となっている現代社会において まさか?  仮りに国民投票をすれば その制度に賛成一色であろう。世襲という制度に民主制に反する要素があるように思うが これも その一代ごとに投票すればよいことになる。  ひょっとして フクシマにかんする陰謀説というその問題か?  ヒロシマ・ナガサキ問題が まだ尾を引いていたのかという問題なのか?  《オリエンタリズム》の問題?  つまり欧米か? 《犯人》は。実質的に言ってわれわれは植民地化されているのか?  なら まづはその間違いを指摘してやりつづければよい。  あるいは北朝鮮? 中国? ・・・  われわれはなんで元気がないのか?  どこで間違えたのか?

  • 人生の数段階の表情を書いた絵とその解説

    東洋のものであったと思います。うら覚えですが、泣いている子供の顔と、努力して怒っているような若者の顔と、円熟して笑顔になっている老年期の顔が書かれた絵と、その解説を読んだ記憶があるのですが、誰のどんなものが思い出せません。不十分な情報ですが、思い当たる方はいらっしゃいますでしょうか?よろしくお願いいたします。

  • 月が好きな友人にプレゼントを贈りたい

    月を見るのが好きな友達(男性・高校生~大学生)へプレゼントをしたいと思っています。 月に関するおもちゃや、本等、あまり高価なものではなく、ちょっとしたサプライズ的なものをあげたいのですが、何かオススメがありましたら、教えてください。(宇宙~ではなく、月、満月が特に好きなようです)お願いします。

    • yui0611
    • 回答数10
  • 月は

    月(moon)は何のために宇宙に存在しているのでしょうか? 何か意味があるのでしょうね。 必要が無いものならば初めから無くてもよかったと思うのです。 何か理由があって、我々が月と呼んでいるあの物体は存在しているのでしょう? もしかすると我々人間には到底理解できないような理由なのかもしれませんが。

    • noname#146242
    • 回答数7
  • 人間の弱さを知っている人へ

    私は、自分の弱さを知るものです。絶望し、仕方なく認めました。22の頃から18年間こんな自分とつきあってます。弱さを知っている人は、本当の優しさや、強さを持っていることも知っています。ただ、この頃さびしく感じるのが、何で自分でなければらならなっかったのかです。何でこんなつらいことを認めなければならないのか。なぜ、それが自分なのか。せつないです。俺の周りでも、ごく少数の人が人間の弱さを知っています。彼らも絶望し、それを認めています。 この頃、いろんな人の弱さが自分の中に入ってきてわかるゆえ、悲しいです。だけど彼らは、自分の弱さを知らないので、ずっと苦しんでいるままです。本当は、それが一番いやなのかもしれません。そんな悲しみを何で俺がわからなければならないのか。心が折れています。本当のことなんて知らなければよかった。 同人の方でお答えをお持ちのかたご回答をお願いします。

  • 存在の受け容れを優先し 批判を先送りすべきか?

     母は 誰れをも その出会いから受け容れていました。家をおとづれる人は誰をも もう自分の家が恋しいというところまで歓待しました。  八方美人であるかも分かりませんが その人の嫌なところ・つまりあまりにも目立って合わせづらいところに目をつぶっているわけではありません。  おそらくまづは その存在を受け容れている。その人全体を歓迎している。そしてそのあと 互いの嫌なところは 互いに直して行きましょうという態度だったと思われます。  ところが この姿勢であると けっきょくずるずるだらだら死ぬまでその限りなき包容がつづきます。  ことに哲学の話になるなら なっても 全体としての存在の受容が優先され 対話はすすみません。  つまり それぞれ互いに相手の考えを理解してそれらを尊重するといった段階にまですすむことさえも まれになります。  学問というのは 先人の理解を理解したあと そこにも疑問が生じたなら 自由に大胆に問い求めて行く。先人や先輩との思想上のけんかをも経て行くいとなみなのではないか?  互いに相手の存在をとうとぶからこそ――人格の全体を受け容れ これを愛するからこそ―― 考え方で意見の一致しないところについては 互いにそれを問い質す。自由に批判しあう。  もし批判をしないなら――まれに意見が完全に一致するという場合もありましょうが―― それは互いに相手の存在を無視しているという結果になるのではないか?  嫌っているというのではなく――嫌いというなら まだ大きく全体としての愛の範疇にふくまれましょう―― すでに存在および人格をないがしろにしてしまっている。  けんかをしないということは まだ人格およびみづからの思想が出来上がっていないからか もしそうでなければ 人間という存在を放棄したい・つまりはその自然本性としての自由意志を脱ぎ捨てたいと言っているにひとしい。のではないか?  これは ゾンビであると考えられます。すでに死んでいます。いかがでしょう?  もし相手の意見のほうが――経験相対においてですが――ただしいと思ったなら そのように扱わなければならない。その意志表示をおこなって初めて人間は人間である。  【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4803472.html

  • 美の乞食に問う:醜さとは何か?

    美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?

    • noname#145704
    • 回答数47
  • 美の乞食に問う:醜さとは何か?

    美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?

    • noname#145704
    • 回答数47
  • 美の乞食に問う:醜さとは何か?

    美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?

    • noname#145704
    • 回答数47
  • 美の乞食に問う:醜さとは何か?

    美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?

    • noname#145704
    • 回答数47
  • 美の乞食に問う:醜さとは何か?

    美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?

    • noname#145704
    • 回答数47
  • 美の乞食に問う:醜さとは何か?

    美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?

    • noname#145704
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