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- 美の乞食に問う:醜さとは何か?
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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- noname#145704
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- 美の乞食に問う:醜さとは何か?
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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- KYはダンディでありうるか?
KYというのは、もう死語かもしれませんが、「空気、読めない」の略だとお考えください。ここでは一先ず、大まかに、その場のコンセンサスを理解できないで、場を乱してしまう人、と定義しておきます。 しかしKYにも、何通りかあることが、わかりました。私の知り合いには、「能力が足りなくて空気が読めないのじゃなく、空気を読んでいて、かき乱しているのだ!」というのです。なぜ空気をかき乱しているのか? それは、 ・場の雰囲気が間違った方向に行っていると考えるから、正している、 ということのようです。たとえば、イジメ。これがその場の空気だとしたら、間違っていると声を上げることが重要でしょう。汚職の隠蔽。この時に声を上げることも重要でしょう。 ところが、さらに、また別のKYもいるのです。自己満足のために、場をかき乱しているという方です。空気は読めるし、場の様相も分かる。だが、それでは自分が目立てない。ならいっそ、場の雰囲気をかきまわしてやれ。 こういう目立ちたがり屋は、我儘という醜さを持っており、粋ではありません。粋というのは、自分が少々の損を蒙っても、周囲を生かすということに本質があるからです。艶やかな衣を持っていても、ジャケットの裏地に使うのが、粋というものでしょう。目立たないようにするのが粋です。だが、ダンディはまた別です。というのも、ダンディとは、 ・限られた可能性の中で、あらゆる手を使うこと、 ・周囲と異質であることを強調すること、 にあるからです。たとえば、豪華絢爛な衣服を貴族が身にまとう社交場で、一人、喪服を着て行ったとしましょう。するとこの不吉な人物は、ともかく目立ってしまう。周囲は嫌な気持ちがするかもしれませんが、とにかく注目されます。本来ならば等閑視される者が、服の一枚で認知されることになるのです。お金がないながらも、貴族に対抗する社交人の工夫――これがダンディの起源です。こうした美意識は、日本にも見出せます。たとえば、わびさび。一輪の花を目立たせるために、周囲の花を全部切ったなど、その最たる例です。普通にしては平凡な庭に過ぎないから、目立たせようと、自ら、削ぎ落したのです。 さて、このように考えてみると、ダンディであるためには、KYである必要があるでしょう。しかし、すべてのKYがダンディであるわけではありません。ダンディには、何かまた別の要素があります。KYは何をどのようにしたら、ダンディの美を獲得できるでしょうか?
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- noname#145704
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- 美の乞食に問う:醜さとは何か?
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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- 美の乞食に問う:醜さとは何か?
美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。 しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。 私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。 が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か? 美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。 念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。 (1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 (2)醜さとは何かを定義する。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。 それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?
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- noname#145704
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- 志賀直哉、あるいは、天衣無縫の美
ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
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- 文学・古典
- noname#145704
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- 志賀直哉、あるいは、天衣無縫の美
ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
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- noname#145704
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ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
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ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
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ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
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- 占い師というのは 欠陥人間である。
(1) 互いに自由に対等に話し合いのできるという場合 その人ないしその思想に欠陥はない。 (2) この話し合いにおける《自由》をないがしろにし《対等さ》をなくすというところから 占い師は 相手と対面し 話を始める。つまりは 話し合いを落としめ 自分の占いを相手に――なだめすかしつつ――押しつける。 (3) すなわち 占い師の看板には 《ここには 勝手に決めつけた内容の話しかありません。それでよければ 入口をまたいでください》と書いてある。 (4) まあ 職業の自由であり 等価交換なるむしろ民主的な原則にのっとって この占いという生業がある。とはいちど言っておかねばなるまい。また 料金を取ってそうするぶんには 顧客が途中でも自由に席を立って出て行けばよいかたちになっているから まだましである。 (5) けれども この種の人と人とのまじわり(交通)は もはや人間を低劣な状態に落としめるところにおいてこそ発生している。つまり 自分の自由意志の発揮は確保するけれども 相手のそれは封じている――初めの入り口で封じてもよいか聞いている格好である――からには まじわりには成っていない。お客になるほうも 注意をおこたってはならない。 (6) 公共の放送などメディアにおいて この占いが取り上げられることがある。もってのほかではないか? 白痴化運動なのだろうか? コミュニケーションを一方的に遮断しているまじわりを見せて 一般に意志疎通というのは 社会力学上においては 遮断してもよい(遮断されても仕方がない)という印象をあたえつつづけている。 (7) 占い師というのは その思想(生活態度)において 欠陥人間である。 ――この命題を哲学してください。見落としなどを指摘されればさいわいです。
- 志賀直哉、あるいは、天衣無縫の美
ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
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- 文学・古典
- noname#145704
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- 志賀直哉、あるいは、天衣無縫の美
ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
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- 回答数18
- 悪という概念の役割について
江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- shift-2007
- 回答数25
- 悪という概念の役割について
江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- shift-2007
- 回答数25
- 志賀直哉、あるいは、天衣無縫の美
ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
- ベストアンサー
- 文学・古典
- noname#145704
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- 悪という概念の役割について
江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。
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- shift-2007
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- 志賀直哉、あるいは、天衣無縫の美
ずっと前に志賀直哉の魅力を論じようという問いがありましたが、考えているうちに投稿しそびれてしまったので、私が今度は質問してみることにしました。 芥川と志賀が比較されることがしばしばあります。考えに考えて書いた芥川に対し、思ったように気の赴くままに書いた志賀という構図です。しかし、こうした天衣無縫は、近年、必ずしも「美」とはみなされなくなってきたように思います。志賀的な天衣無縫の美についてどのように考えるか。志賀に限らず、天衣無縫と考えられる文学作品を例に、ご意見をください。
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- noname#145704
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