littlekiss の回答履歴
- 「感動する」ということについて
人によって「感動する」ものが違うのは何故なんでしょうか? …馬鹿らしい質問かもしれませんが,ふと疑問に思ってから気になっています.きっかけは友達と感動モノの映画を見に行ったとき,自分は目頭がグッと熱くなってしまったのですが,友人は「何にも感じなかったよ」と言っていたことです. あと,親が「最近感動することがなくなってきた」と言っていたのですが,何故「感動する」頻度が減るんでしょうか?単純に「感動」のしすぎで,慣れがきているから? そもそもカテゴリがここで合っているのかも分かりませんが,詳しい方教えていただけるとありがたいです^^;(回答は医学的なものでも何でも構いません)
- 究極の悪とは――存在について――
《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。
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- noname#80116
- 回答数55
- 究極の悪とは――存在について――
《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。
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- noname#80116
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- 究極の悪とは――存在について――
《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。
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- noname#80116
- 回答数55
- 不存在の証明はかなり困難か不可能なもの?
不存在の証明(悪魔の証明)はかなり困難か不可能なものだとされています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E 限定的な事柄でしたら、比較的に簡単かもしれませんが、ちょっとしたことでも不存在や非存在は、不可能・困難になるのだと思われます。 「何々が存在しない」などと、軽軽(けいけい)に書く不注意者は、この哲学カテにはいないと思いますが、注意深く考察すると、確かに存在しないと言えそうだなと思い付くもの・ことがありましたら、教えてください。
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- qsxdrfvgyh
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- 究極の悪とは――存在について――
《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。
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- noname#80116
- 回答数55
- 老子のパラドックス
あなたがたは、「無」の精神あるいは本質を、知的な分析によらず、 自己の存在の内奥を探ることによって発見しなければならない。 しかも、概念や理論や抽象的な説明によらずに、生きた真実として「無」を理解したことを、 私に具体的にいきいきとしたかたちで示してほしい。 単純ゆえに最良の公安は「無」の公安である。 「無」とは生きて作用するダイナミックな精神を表現した言葉。 「無」は通常の認識力では理解できない。 老子からこの「無」の公安が与えられる。この場合の「老子」は自然である。 自然は言葉による説明をほどこさない。謎を提示するのみである。 全存在をかけて、直接的に把握すべきだということを肝に銘じておいてほしいのである。 1)おまえの本来の顔は何であったのか。親がお前を生む前にもっていた顔は? 2)両手をたたけば音がする。では、片手ではどんな音が? この公安はユニークな解答がそれぞれに存在し、「真理の把握は完全に修行者に任されている」ということらしいですが 私はこの論理的に現象学的に無理な公安?に無為状態となります。 基本的な質問かとも思いますが、パラドックスの意味は「思考の罠」ということですか? 上記の1)、2)の公安についての考え方や何かヒントとなるだけでもください。
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- noname#91067
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- 生きるのが苦痛です
21の♀です。私は今まで自分がこう生きたいというような欲望がなかったので、恋愛にすがって生きてきました。でも恋愛経験薄弱なためにこの年になるまで気づかなかったのですが、恋愛も虚無だったとようやく気がつきました。 元々人付き合いが苦手で他者と長期に渡って関係を築くのが無理なんです。自分の中で理想に近い人とお付き合いできて、やっぱり他者は他者でしかなく、恋人でさえもその一定の距離を置いて付き合わざるを得なくて、あんなに夢中だった私も今はときめいたりすることもなく、ああ、これが恋愛なのか、要するに私は孤独を感じるのが嫌で恋愛に逃げていたんだな、というのが現時点です。 今の彼が性格もあうし最良なので今後彼と別れても誰かと付き合うようなことはなさそうで、唯一の逃避先だった恋愛もなくなってしまいました。 そしたら、自分の力で人生は生きていかないといけないというのは当然なのですが、何をしていても楽しくなく無感動で、やりたいことも何もなく、かといってどこかにまだ知らない本当にやりたいことが眠っているわけではありません。何をしていても暇つぶしなだけでつまらないんです。 毎日寝ることくらいしか楽しみがなくて、何もない未来に向かって生きていくのは、とてもだるいです。 こういうときはどうしたらいいのでしょうか?
- 究極の悪とは――存在について――
《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。
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- noname#80116
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- 究極の悪とは――存在について――
《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。
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- noname#80116
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- 究極の悪とは――存在について――
《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。
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- noname#80116
- 回答数55
- 死ねない理由
生きる意味は?のような疑問をもっている人は,たくさんいます。 逆に考えて,何故,死ねないのかを教えてください。 そして,世間一般では,死ぬことを悪としています。 この理由も,教えてください。 周りの人が悲しむから,親からもらった命だから等の一般論ではなく, ユニークな意見だとうれしいです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- MAXMIN2008
- 回答数40
- 悪は 存在しない
《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。 もとに戻って この質問をします。 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。 以上について 成否・当否を おおしえください。 なお ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#80116
- 回答数44
- 闘牛の詩のタイトルと作者の名前
以前も投稿したのですが、回答が集まらなかったので再投稿させてください。 もう30年以上前のことなのですが、当時小学生だった私が国語の教科書で読んだ詩で、気に入っていたのですがタイトルと作者が分かりません。 内容は、これから死に向かうであろう闘牛の心情を歌ったものです。 これだけ書くと悲壮感が漂ってるようですが、何か凛とした空気と静けさがあって好きでした。 冒頭は、こんな感じで始まったと思います。 「どこから来て、そしてどこへ行くのだろう。この、円い世界。」 できればもう一度読みたいので、どなたかお心当たりがございましたら情報をお寄せ下さい。 よろしくお願いします。_(_^_)_
- 締切済み
- 文学・古典
- noname#77271
- 回答数5
- 論理の鍛え方
他の友達、講義を受けている学生の方々をみていると、ちゃんと自分の意見が伝えられているのに、自分だけ、相手に伝えることが出来ません。 ここで言う、相手に自分の意見を伝える手段は紙です。 大学の課題に於いて、「述べよ」という自分の意見を主張する問題が多いです。 教授(講師)からは「言いたいことは分かるけど、論理的におかしい」という指摘を時々されます。 そういう指摘を受ける度に、自分は言語障害者なのか?と思ったりします。 論理を鍛える方法は何かないでしょうか?(知識でなく、実践的な方法として)
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- sodokutyan
- 回答数13
- 悪は 存在しない
《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。 もとに戻って この質問をします。 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。 以上について 成否・当否を おおしえください。 なお ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。
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- noname#80116
- 回答数44
- 悪は 存在しない
《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。 もとに戻って この質問をします。 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。 以上について 成否・当否を おおしえください。 なお ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。
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- noname#80116
- 回答数44
- 悪は 存在しない
《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。 もとに戻って この質問をします。 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。 以上について 成否・当否を おおしえください。 なお ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。
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- noname#80116
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- 悪は 存在しない
《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。 もとに戻って この質問をします。 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。 以上について 成否・当否を おおしえください。 なお ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。
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- noname#80116
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- 不存在の証明はかなり困難か不可能なもの?
不存在の証明(悪魔の証明)はかなり困難か不可能なものだとされています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E 限定的な事柄でしたら、比較的に簡単かもしれませんが、ちょっとしたことでも不存在や非存在は、不可能・困難になるのだと思われます。 「何々が存在しない」などと、軽軽(けいけい)に書く不注意者は、この哲学カテにはいないと思いますが、注意深く考察すると、確かに存在しないと言えそうだなと思い付くもの・ことがありましたら、教えてください。
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