littlekiss の回答履歴
- すべてのひとを説得することができますか
コミュニケーションについて問います。 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか? ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。 (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。 ☆ そもそも コミュニケーション論です。 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか? 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか? 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか? ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。 ふるってご投稿ください。おしえてください。 なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。
- すべてのひとを説得することができますか
コミュニケーションについて問います。 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか? ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。 (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。 ☆ そもそも コミュニケーション論です。 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか? 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか? 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか? ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。 ふるってご投稿ください。おしえてください。 なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。
- 哲学するうえで大事なこと
哲学するうえで自分のポジションを決めてしまうのはあまりよろしくないのではないでしょうか。 ・神はいる、いない ・死後の世界はある、ない ・輪廻転生はある、ない ・運命はある、ない 一時的なディベートならいいのですが、自分のポジションを決めることは結果的にそれに縛られることになります。 もちろんどのポジションからみても間違いではないのですが局所的なものの見方となるのではないでしょうか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- shift-2007
- 回答数12
- すべてのひとを説得することができますか
コミュニケーションについて問います。 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか? ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。 (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。 ☆ そもそも コミュニケーション論です。 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか? 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか? 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか? ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。 ふるってご投稿ください。おしえてください。 なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。
- すべてのひとを説得することができますか
コミュニケーションについて問います。 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか? ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。 (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。 ☆ そもそも コミュニケーション論です。 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか? 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか? 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか? ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。 ふるってご投稿ください。おしえてください。 なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。
- けんかをしては 何故 いけないのか
ここでは けんかを 口論にしぼってください。 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。 なぜ いけないのでしょう? 理由が分かりません。おしえてください。
- けんかをしては 何故 いけないのか
ここでは けんかを 口論にしぼってください。 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。 なぜ いけないのでしょう? 理由が分かりません。おしえてください。
- けんかをしては 何故 いけないのか
ここでは けんかを 口論にしぼってください。 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。 なぜ いけないのでしょう? 理由が分かりません。おしえてください。
- けんかをしては 何故 いけないのか
ここでは けんかを 口論にしぼってください。 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。 なぜ いけないのでしょう? 理由が分かりません。おしえてください。
- けんかをしては 何故 いけないのか
ここでは けんかを 口論にしぼってください。 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。 なぜ いけないのでしょう? 理由が分かりません。おしえてください。
- けんかをしては 何故 いけないのか
ここでは けんかを 口論にしぼってください。 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。 なぜ いけないのでしょう? 理由が分かりません。おしえてください。
- 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか
○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。 ☆ これが 問い求めの主題です。 趣旨説明です。 (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。 (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。 :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。 (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。 (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。 (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。 (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。 このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。 * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。 (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#80116
- 回答数36
- 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか
○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。 ☆ これが 問い求めの主題です。 趣旨説明です。 (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。 (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。 :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。 (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。 (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。 (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。 (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。 このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。 * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。 (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。
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- 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか
○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。 ☆ これが 問い求めの主題です。 趣旨説明です。 (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。 (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。 :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。 (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。 (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。 (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。 (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。 このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。 * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。 (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。
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- 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか
○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。 ☆ これが 問い求めの主題です。 趣旨説明です。 (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。 (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。 :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。 (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。 (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。 (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。 (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。 このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。 * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。 (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。
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- 悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか
○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。 ☆ これが 問い求めの主題です。 趣旨説明です。 (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。 (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。 :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。 (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。 (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。 (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。 (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。 このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。 * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。 (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。
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○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。 ☆ これが 問い求めの主題です。 趣旨説明です。 (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。 (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。 :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。 (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。 (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。 (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。 (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。 このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。 * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。 (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。
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○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。 ☆ これが 問い求めの主題です。 趣旨説明です。 (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。 (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。 :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。 (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。 (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。 (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。 (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。 このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。 * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。 (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。
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