littlekiss の回答履歴
- 売春防止法ならびに「転落婦女」の認識
昭和31年に公布されたわが国の売春防止法、ならびに昭和37年の日弁連の決議「売春と麻薬犯罪対策に関する件」に関する質問です。 世界的な売春の合法化の流れのもと、現況の日本の性風俗と世相に鑑み、この法律ならびに「転落婦女」という認識が今も適正か、それとも時代遅れの感があり、それゆえ是正や改正する余地があり得るのか、どうぞ皆様のご意見をお聞かせ下さい。 参考までに一つお断りしておきます。 私としては、現代日本において売春をする女性を「転落婦女」、そして売春行為そのものを一概に女性に対する人権侵害とはみなしてはおりません。 戦後の医療の発展と避妊技術の普及に伴い、女性自ら妊娠の不安と行為に対する意識のハードルが下がっているなどが理由のうちに挙げられるかと思います。 むろん、過去の国内外における一連の廃娼運動の流れ、そして宗教倫理上ないし個人的信条ももちろん考慮すべきと思われます。 ここでは激論を交わす事が目的では無く、質問者の一私見にかぎらず皆様方の様々なお考えをお寄せいただければ嬉しいです。 また、日弁連は自らが称した「国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊」に対して今に至るまでどのようにかかわり立ち向かってきたのでしょうか。 決議の年に私はまだ生まれておりませんで、昭和40年代も幼少時の思い出しか持ち合わせていません。 ですので当時をお知りの方からご教示いただけるとなお有難く思います。 よろしくお願いします。 売春と麻薬犯罪対策に関する件(決議) 「近時、売春と麻薬に関する犯罪は、激増の一途を辿りつつあるが、これは、国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊である。 この種犯罪に対し、取締法規の整備も必要ではあるが、当局が、その予防について、充分の施策をなさず、転落婦女並びに麻薬患者の救済治療施設等について満足な措置すら講じないのは寔に遺憾である。 よって、当局は速かに、これらの施策につき万全の措置を講ずることを要望する。 昭和37年10月20日 於京都市、第5回人権擁護大会 理由 近時、大都会が魔窟化し、特に売春又は麻薬服用等によって、心身を持崩す青少年婦女の激増したことは、社会の健全化、国運の発展を妨害する怖るべき病弊であって、深慮に堪えない。かかる社会的腐敗の撲滅の策定は、所謂所得倍増の施策よりもむしろ緊急を要する。そのためには、単に厳罰の方針のみを以ってしては、充分でなく、一方麻薬患者の治療施設、転落婦女の救済施設を拡充するとともに、他方国民の志気の昂揚を図らなければならね。政府は事の重大なるを思い、速やかにこれが対策措置を講ずべきである。」
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- noname#179999
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- 売春防止法ならびに「転落婦女」の認識
昭和31年に公布されたわが国の売春防止法、ならびに昭和37年の日弁連の決議「売春と麻薬犯罪対策に関する件」に関する質問です。 世界的な売春の合法化の流れのもと、現況の日本の性風俗と世相に鑑み、この法律ならびに「転落婦女」という認識が今も適正か、それとも時代遅れの感があり、それゆえ是正や改正する余地があり得るのか、どうぞ皆様のご意見をお聞かせ下さい。 参考までに一つお断りしておきます。 私としては、現代日本において売春をする女性を「転落婦女」、そして売春行為そのものを一概に女性に対する人権侵害とはみなしてはおりません。 戦後の医療の発展と避妊技術の普及に伴い、女性自ら妊娠の不安と行為に対する意識のハードルが下がっているなどが理由のうちに挙げられるかと思います。 むろん、過去の国内外における一連の廃娼運動の流れ、そして宗教倫理上ないし個人的信条ももちろん考慮すべきと思われます。 ここでは激論を交わす事が目的では無く、質問者の一私見にかぎらず皆様方の様々なお考えをお寄せいただければ嬉しいです。 また、日弁連は自らが称した「国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊」に対して今に至るまでどのようにかかわり立ち向かってきたのでしょうか。 決議の年に私はまだ生まれておりませんで、昭和40年代も幼少時の思い出しか持ち合わせていません。 ですので当時をお知りの方からご教示いただけるとなお有難く思います。 よろしくお願いします。 売春と麻薬犯罪対策に関する件(決議) 「近時、売春と麻薬に関する犯罪は、激増の一途を辿りつつあるが、これは、国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊である。 この種犯罪に対し、取締法規の整備も必要ではあるが、当局が、その予防について、充分の施策をなさず、転落婦女並びに麻薬患者の救済治療施設等について満足な措置すら講じないのは寔に遺憾である。 よって、当局は速かに、これらの施策につき万全の措置を講ずることを要望する。 昭和37年10月20日 於京都市、第5回人権擁護大会 理由 近時、大都会が魔窟化し、特に売春又は麻薬服用等によって、心身を持崩す青少年婦女の激増したことは、社会の健全化、国運の発展を妨害する怖るべき病弊であって、深慮に堪えない。かかる社会的腐敗の撲滅の策定は、所謂所得倍増の施策よりもむしろ緊急を要する。そのためには、単に厳罰の方針のみを以ってしては、充分でなく、一方麻薬患者の治療施設、転落婦女の救済施設を拡充するとともに、他方国民の志気の昂揚を図らなければならね。政府は事の重大なるを思い、速やかにこれが対策措置を講ずべきである。」
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- noname#179999
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昭和31年に公布されたわが国の売春防止法、ならびに昭和37年の日弁連の決議「売春と麻薬犯罪対策に関する件」に関する質問です。 世界的な売春の合法化の流れのもと、現況の日本の性風俗と世相に鑑み、この法律ならびに「転落婦女」という認識が今も適正か、それとも時代遅れの感があり、それゆえ是正や改正する余地があり得るのか、どうぞ皆様のご意見をお聞かせ下さい。 参考までに一つお断りしておきます。 私としては、現代日本において売春をする女性を「転落婦女」、そして売春行為そのものを一概に女性に対する人権侵害とはみなしてはおりません。 戦後の医療の発展と避妊技術の普及に伴い、女性自ら妊娠の不安と行為に対する意識のハードルが下がっているなどが理由のうちに挙げられるかと思います。 むろん、過去の国内外における一連の廃娼運動の流れ、そして宗教倫理上ないし個人的信条ももちろん考慮すべきと思われます。 ここでは激論を交わす事が目的では無く、質問者の一私見にかぎらず皆様方の様々なお考えをお寄せいただければ嬉しいです。 また、日弁連は自らが称した「国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊」に対して今に至るまでどのようにかかわり立ち向かってきたのでしょうか。 決議の年に私はまだ生まれておりませんで、昭和40年代も幼少時の思い出しか持ち合わせていません。 ですので当時をお知りの方からご教示いただけるとなお有難く思います。 よろしくお願いします。 売春と麻薬犯罪対策に関する件(決議) 「近時、売春と麻薬に関する犯罪は、激増の一途を辿りつつあるが、これは、国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊である。 この種犯罪に対し、取締法規の整備も必要ではあるが、当局が、その予防について、充分の施策をなさず、転落婦女並びに麻薬患者の救済治療施設等について満足な措置すら講じないのは寔に遺憾である。 よって、当局は速かに、これらの施策につき万全の措置を講ずることを要望する。 昭和37年10月20日 於京都市、第5回人権擁護大会 理由 近時、大都会が魔窟化し、特に売春又は麻薬服用等によって、心身を持崩す青少年婦女の激増したことは、社会の健全化、国運の発展を妨害する怖るべき病弊であって、深慮に堪えない。かかる社会的腐敗の撲滅の策定は、所謂所得倍増の施策よりもむしろ緊急を要する。そのためには、単に厳罰の方針のみを以ってしては、充分でなく、一方麻薬患者の治療施設、転落婦女の救済施設を拡充するとともに、他方国民の志気の昂揚を図らなければならね。政府は事の重大なるを思い、速やかにこれが対策措置を講ずべきである。」
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昭和31年に公布されたわが国の売春防止法、ならびに昭和37年の日弁連の決議「売春と麻薬犯罪対策に関する件」に関する質問です。 世界的な売春の合法化の流れのもと、現況の日本の性風俗と世相に鑑み、この法律ならびに「転落婦女」という認識が今も適正か、それとも時代遅れの感があり、それゆえ是正や改正する余地があり得るのか、どうぞ皆様のご意見をお聞かせ下さい。 参考までに一つお断りしておきます。 私としては、現代日本において売春をする女性を「転落婦女」、そして売春行為そのものを一概に女性に対する人権侵害とはみなしてはおりません。 戦後の医療の発展と避妊技術の普及に伴い、女性自ら妊娠の不安と行為に対する意識のハードルが下がっているなどが理由のうちに挙げられるかと思います。 むろん、過去の国内外における一連の廃娼運動の流れ、そして宗教倫理上ないし個人的信条ももちろん考慮すべきと思われます。 ここでは激論を交わす事が目的では無く、質問者の一私見にかぎらず皆様方の様々なお考えをお寄せいただければ嬉しいです。 また、日弁連は自らが称した「国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊」に対して今に至るまでどのようにかかわり立ち向かってきたのでしょうか。 決議の年に私はまだ生まれておりませんで、昭和40年代も幼少時の思い出しか持ち合わせていません。 ですので当時をお知りの方からご教示いただけるとなお有難く思います。 よろしくお願いします。 売春と麻薬犯罪対策に関する件(決議) 「近時、売春と麻薬に関する犯罪は、激増の一途を辿りつつあるが、これは、国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊である。 この種犯罪に対し、取締法規の整備も必要ではあるが、当局が、その予防について、充分の施策をなさず、転落婦女並びに麻薬患者の救済治療施設等について満足な措置すら講じないのは寔に遺憾である。 よって、当局は速かに、これらの施策につき万全の措置を講ずることを要望する。 昭和37年10月20日 於京都市、第5回人権擁護大会 理由 近時、大都会が魔窟化し、特に売春又は麻薬服用等によって、心身を持崩す青少年婦女の激増したことは、社会の健全化、国運の発展を妨害する怖るべき病弊であって、深慮に堪えない。かかる社会的腐敗の撲滅の策定は、所謂所得倍増の施策よりもむしろ緊急を要する。そのためには、単に厳罰の方針のみを以ってしては、充分でなく、一方麻薬患者の治療施設、転落婦女の救済施設を拡充するとともに、他方国民の志気の昂揚を図らなければならね。政府は事の重大なるを思い、速やかにこれが対策措置を講ずべきである。」
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昭和31年に公布されたわが国の売春防止法、ならびに昭和37年の日弁連の決議「売春と麻薬犯罪対策に関する件」に関する質問です。 世界的な売春の合法化の流れのもと、現況の日本の性風俗と世相に鑑み、この法律ならびに「転落婦女」という認識が今も適正か、それとも時代遅れの感があり、それゆえ是正や改正する余地があり得るのか、どうぞ皆様のご意見をお聞かせ下さい。 参考までに一つお断りしておきます。 私としては、現代日本において売春をする女性を「転落婦女」、そして売春行為そのものを一概に女性に対する人権侵害とはみなしてはおりません。 戦後の医療の発展と避妊技術の普及に伴い、女性自ら妊娠の不安と行為に対する意識のハードルが下がっているなどが理由のうちに挙げられるかと思います。 むろん、過去の国内外における一連の廃娼運動の流れ、そして宗教倫理上ないし個人的信条ももちろん考慮すべきと思われます。 ここでは激論を交わす事が目的では無く、質問者の一私見にかぎらず皆様方の様々なお考えをお寄せいただければ嬉しいです。 また、日弁連は自らが称した「国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊」に対して今に至るまでどのようにかかわり立ち向かってきたのでしょうか。 決議の年に私はまだ生まれておりませんで、昭和40年代も幼少時の思い出しか持ち合わせていません。 ですので当時をお知りの方からご教示いただけるとなお有難く思います。 よろしくお願いします。 売春と麻薬犯罪対策に関する件(決議) 「近時、売春と麻薬に関する犯罪は、激増の一途を辿りつつあるが、これは、国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊である。 この種犯罪に対し、取締法規の整備も必要ではあるが、当局が、その予防について、充分の施策をなさず、転落婦女並びに麻薬患者の救済治療施設等について満足な措置すら講じないのは寔に遺憾である。 よって、当局は速かに、これらの施策につき万全の措置を講ずることを要望する。 昭和37年10月20日 於京都市、第5回人権擁護大会 理由 近時、大都会が魔窟化し、特に売春又は麻薬服用等によって、心身を持崩す青少年婦女の激増したことは、社会の健全化、国運の発展を妨害する怖るべき病弊であって、深慮に堪えない。かかる社会的腐敗の撲滅の策定は、所謂所得倍増の施策よりもむしろ緊急を要する。そのためには、単に厳罰の方針のみを以ってしては、充分でなく、一方麻薬患者の治療施設、転落婦女の救済施設を拡充するとともに、他方国民の志気の昂揚を図らなければならね。政府は事の重大なるを思い、速やかにこれが対策措置を講ずべきである。」
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- noname#179999
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- 見たことのない図形をなぜ受け入れられるか
我々は完璧な三角形を見たことがない。 真にまっすぐなモノは存在しない。 なのに、なぜ、我々は、そんな一度も見たことのない図形を受け入れられるのか。 ずっと謎に思って来ましたが、最近一つの答えに。 たしかに、真にまっすぐなモノはない。 しかし、それは拡大して見るとギザギザだったり、凹凸があるという話であり、我々が見ている世界は、肉眼でとらえた世界に過ぎない。 そして、その結果、脳が生み出している世界だ。 つまり、逆に言えば、我々は、顕微鏡などのテクノロジーなしには、そのような真なるデコボコの世界を見ることができないと言える。 つまり、たしかに、我々は真にまっすぐなモノや完璧な三角形を見たことはないが、一方で、それらがギザギザに見えているわけでもない。 それらがギザギザだと分かるのは、拡大して見たときだけだ。 すなわち、我々が肉眼で世界を見ているとき、たとえば、コンパスで円を書いたとき、我々はそこに真なる円を見ているのではないか。 たしかに、コンパスで書かれた円には幅があるから、その時点で、それ自体が完璧な円でないということは明らか。 しかし、その対象の中に、我々は真なる円を見ているのではないかと思うのです。 同じ見たことのないものでも、受け入れられるものとそうでないものがある。 たとえば、四次元以上の空間は見たことがない。 だから、そんな世界があると言われても、にわかには受け入れられない。 しかし、小学校で子どもたちは、見たことのない図形を簡単に受け入れる。 それは、脳が映し出す世界の中で、見ているからなのではないか。 いや、見い出していると表現した方が適切だろう。 皆さんの考えはいかがでしょう。 ちなみに、数学カテに質問しなかった理由は、こういう質問を数学カテにしても、まともな回答がほとんど来ないということを経験で知っているためです。
- 橋下発言で考えた性倫理と女性の幸せ
70年以上過去の軍隊の性処理について、その仲間の愚行についていまなおおおっぴらに言い争われている韓日人民には性についての羞恥心がいささか西欧よりも不足していることは間違いないと思います。 まあ、これは置いて 例の沖縄米軍に助言したとされる大阪市長ですが、もちろんアメリカの性風俗観と日本とのそれの相違を見据えた上でのものだったことは疑えません。 米国ではネヴァダ州以外は売買春は法律で禁止されているそうです。日本も管理売春は基本的に禁止ですが現状はそうではありません。多くの日本人が日本方式を悪いとは思っていず、むしろ犯罪が減っているのでいい方式だと申しております。その中に日本の叡智のひとりも加わったわけです。 ここで質問です。 鼠を捕る猫は白くても黒くても良い猫だといった中国の政治家の思想とこれは同じ範疇に入るとは思えません。犯罪が減るのならどんなことをしてでも(一部の女性を犠牲にしてでも)OK というのはどこか古代の人身御供ににている発想のようにも見えます。 個人の自由だという意見は大勢いですが、それもあとさき考えない美女に一見良好なポストを用意するという男性優位の悪しきビジネス慣習が消えないからだという論理もあります。 私はこれを比較するにアメリカのネヴァダ州以外に棲む女性の幸福観(感)に問わねばならないかもしれないと思っていますがどうでしょうか。日米の宗教観の差で単純に割り切るのはこの際無用に願います。宗教も多分倫理哲学に還元できるとも考えますし。 売買春を未来の男女関係を見据えてどう考えるかという哲学観、そして男女の人権はどう守るか、強姦犯は果たして特殊な精神病者なのか、他犯罪のように根絶できるのか不可能なのかということも関係するかもしれません。 表現の自由については、性の関係ではむしろ日本はアメリカよりも遅れています。そして性倫理も遅れているのかもしれないとも考えます。 日本に強姦罪が極端に少ないのは(当然)橋下思考ばかりでもないかもしれない、と思いますが、良く分かりません。このような観点からも質問させていただきます。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#194996
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- 机の前に張る標語で最適なものは何か?
何でも良いのですが、例えば、その時自分が感銘を受けた言葉だとする「一番大切なのは勇気」と紙に書いて貼っておいたとします しかし、数日経つと「なんで、これが大切だとおもったんだろ?」と、その時のテンションが失われていて、その標語に魅力を感じなくなっている時がある、と言うのは殆ど誰もが経験したコトがあるコトだと思います それはきっとそこに「真理」が書かれていなかったからだと私は考えます この世に本当に真理があるのかはさておき、です 宗教などだと「愛」なんかになると思いますが。これはかなり嘘臭いですよね そこで私はリアリティーを追及したいと思い考えたのが 「金が八分で、愛が二分」 どうでしょうか? ・・・・・・・・・ と、冗談はさておき、常に目に入る状態の場所に掲げる一番効果のある標語とは一体何になるのでしょうか? 哲学カテの皆様お知恵を拝借させてください
- 「好き」にも限度というものがある?
好き、っていう感情って、度が過ぎると気持ち悪くなってきませんか? ためしに好きって書きつらねてみましょう。 好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き オェーorz
- 「犀の角のように、独一人、歩め」
こんばんは。 仏教についても造詣が深いご回答者の皆様に、またご教示頂きたく。 「犀の角のように、独一人、歩め」と言いながら、 「とらわれるのは、愚である」と説く。 そのこころは?
- 個人主義の要件となる寛容
最近、Wikipediaで集団主義の項目を読んだところ、個人主義を養うためには、寛容さが必要だという学説が紹介してありました。あまりに締め付けると、人間が萎縮してしまって、自由に行動ができず、集団主義にしかならないというのです。これは社会が立ち後れている証拠だとも書いてありました。Wikipediaの記事なので、あまり正しくはないかもしれません。そこで敢えて引用しませんが、理屈としては、なるほどなあ、とは思いました。 こうした寛容には二つのレベルがあると思います。国家の制度と、個人の気持ちの持ちようです。制度というのは社会のセイフティネットのことです。失業しても手当があるのなら、会社を逸脱しても自らのペースを保つ自由な行動ができるでしょう。また老後の保障があるのなら、若い時に、様々なことにチャレンジもしやすいでしょう。しかし私がここで聞きたいのは、後者の個人的な人間関係における寛容です。そこで二つ質問させてください。 (1)寛容になった経験は? ここのカテには年配の方が多く、管理職を経験された方もいると思います。本当は批判してフルボッコにできるのに、他者の個人主義を尊重するために、寛容になった経験があったら教えてください。 (2)日本の近況について 最近、日本はミスにうるさく、不寛容になって来ているような気がします。その結果?、若者が「草食系」などと言われるように萎縮していると思うのです。この傾向は、TwitterやFacebookの履歴を追いかけることで、個人の動向を監視できるようになってからというもの、さらに加速しているように思います。 例えばさっき知った話だと、Twitter上で、Fuck youのジェスチャーをした写真を公開した大学生が、品位ある大学の名誉を汚したとして処分を受けたそうです。プライベートなのだから、それはそれで個人の品位の問題であって、大学は関係ないのじゃないかと思いますが…関係あるとすれば、集団主義の考えがあるからでしょう。また就活でも人事部はFacebookをチェックするのだそうです。 ミスを指摘するという行為は適度ならば「批判」でしょうが、過剰ならば「抑圧」であり、集団主義に行き着くように思います。集団主義こそ好ましいからわざと抑圧しているのだ、と言われればそれまでですが、そうなのでしょうか。案外、何も考えていないのじゃないかなあと思っていますが、こうした現状について考えるところを教えてください。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#180711
- 回答数8
- 事実を見極め、本当の情報を手に入れる方法
日本語を勉強中の中国人です。私たちは毎日、たくさんのニュースを新聞やテレビで見たり聞いたりしています。そのなかに大げさのニュース、嘘のニュース、書く人の価値観が介入されたものも存在していると思います。どのように膨大のニュースから、事実を見極め、本当の情報を手に入れるのでしょうか。 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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- 哲学・倫理・宗教学
- awayuki_cn
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- 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。
和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。 まづ和文の特徴を述べます。 ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。 あるいは ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。 そうして仮りに英文が ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。 ( b-1-E ): Elephant's nose is long. ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。 ( b-2-E ): An elephant has a long nose. のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。 ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。 このとき 端的に言うかたちで問うのですが: 【Q‐1】 この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか? 【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか? 【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか? 《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。 * 作業仮説です。 (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。 (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか? ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか? これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか? (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。 (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。 (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて (ω) 論理的な意味連絡 をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。 (か) まとめて次のようです。 ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。 について見れば: ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。 つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。 ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。 ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として: ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。 ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。 ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型) (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。 (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。 ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。 (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。 (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか? * 参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。 1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。 A‐ハ B‐ガ C‐ナリ。 / C‐スル。 2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。 3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。 4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。 5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。 6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。 7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか? ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。 ( b-1-E ): Elephant's nose is long. ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。 ( b-2-E ): An elephant has a long nose. 8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。 9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。 こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。 10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。 11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。 12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?
- 生命倫理は哲学のテーマなのか
いま巷では物騒な事が現実化しよーとしている。 生きた人間の新鮮な臓器をえぐり取り、これを別の人間の腐った臓器と入れ替える臓器移植である。 もちろん人間の脳ミソでさえ、移植できるのであれば移植されることになるはずである。 現在は研究段階であるが、一部では隠れて実験が行われており、近いうちに現実のものとなりそーな雰囲気である。 しかしこのよーな行為は生命倫理に反すると見做すのが従来からの社会一般の通念である。 ところがこのよーな現実の問題に対して哲学は何ら明確な答えを示すことが出来ない。 宗教に至っては何らの答えを持っていないどころか、この問題に関わろーとさえせずただただ逃げ回っている始末である。 仏教もキリスト教ももはや人を導く精神的パワーを失ったのである。 哲学が生命倫理に答えを持たないのは何故なのか。 生命倫理は哲学のテーマではないからなのか。 それとも哲学はあらゆる意味において役目を終え、既に存在しないからなのか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi26
- 回答数7
- なぜ生きるか?は人のいのちと存在に失礼ではないか
なぜ死なないか? とさえ言っているようである。 なんで死ななきゃなんないんだよおと答えて終わりである。 また そうしなくちゃならない問いである。 何が寂静だ寂滅だ有余涅槃だ無余涅槃だ。 ニルワーナだのニローダだのって そのどこがさとりなんだ。 勝手にほろびればいいだけではないか。 なんで家出しなきゃならないんだ。 出家ったってイエデのことだろう。 家族を見捨て いのちを無にして成道に到るものかよ。 ゴータマ・マジックは まぼろしではないか? つまり 《無我・無私》などという或る種の仕方による理想は それを主張する我れのおもちゃではないのか? なぜ生きるのか? なる問いは ゴータマ氏の呪いに毒されているだけではないだろうか。 これらは すでに生まれて来て生きていること自体が そのままふつうの人間にとっての理論なのであって いちいち議論になることこそがおかしいのではないか? ゴータマ・ブッダの思想は 末法人にとってもガンではないか? ご見解をどうぞ。
- 大学哲学科の論理学と倫理学について
哲学科で論理学と倫理学どちらを学んだほうがより論理能力をつけることができるでしょうか? ここで注意してもらいたいのが 確かに論理学と倫理学どちらも論理能力は身につきはするでしょうがここで問題にしているのは、「どちらがより論理能力をつけることができるか?」です。 大学ではどちらも大差ない、優劣なんて決められないなどは回答になりません そこを了解してもらえるようお願いいたします。 ・ここでは論理学側と倫理学側の主張から、その中での疑問についてお答えしてもらうようお願いいたします 1、論理学で「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」、ということを研究したほうが複雑な論理方法や論理のルールを身につけられて結果倫理学をやるよりもより論理的に考え、整理し、相手に伝える力が身につく 2、論理学はやらないが倫理学で実践的に論理を使い、実践的に論理能力を養っていくほうが論理的に考え、整理し、相手に伝える力が身につく 1、についての疑問は ・「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」を研究し、複雑な論理方法や論理のルールを身につけたからと言って論理的に思考する能力がつくとはいえるのだろうか? 論理学の成果を利用して、多様な主題について検討し研究し、議論していったほうが論理能力は身につくのではないだろうか? 2、についての疑問は ・「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」を研究し、複雑な論理方法や論理のルールを身につけていったほうが論理について詳しくなる=論理に強くなるのではないだろうか? 論理学の成果を利用しているだけでは論理能力はつかないのではないだろうか? 回答のほうよろしくお願いします
- ひとは 分かりあえないか?
1. ひとは 分かりあえないか? 2. なぜか? 3. たとえばひとは孤独である。生涯 《ひとり》である。ただしこの孤独は 社会にあって 《孤独関係》である。 4. 分かり合えないなら 分かり合えないと互いに分かり合う。のではないか? 5. 《関係の絶対性》が あなたの目の前に見えているのではないだろうか? コミュニケーションについてです。 どんなご見解でも自由にお寄せください。問い求めてまいります。
- それでもあなたは ニーチェ党か。
▲ (弱き者の自己欺瞞) ~~~~~~ ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。――小羊が大きな猛禽に憤慨するのは 不思議なことではない。しかし小羊たちが猛禽にたいして 小さな羊をさらうことに文句をつける理由はないのだ。 そして小羊たちが《この猛禽は悪い。そして猛禽とかけ離れた者 猛禽の反対である者 すなわち小羊が――善い存在なのではあるまいか》と仲間うちで語っていたとしても このような理想のたてかたに非難すべきところはない。 ただし猛禽たちはこれをあざ笑うように眺めて おそらく《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》と言っていることだろう。 ――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。 弱さにたいして それが強さとして現われることを求めるのと同じような矛盾なのだ。 ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。 たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。 しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである。 (『道徳の系譜学』 《第一論文 〈善と悪〉と〈良いと悪い〉》 十三 中山元訳 2009 pp.72-74 ) ~~~~~~~~~ ☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか? ○ 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。 ○ 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。 ☆ ご見解をどうぞ! 何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・
- それでもあなたは ニーチェ党か。
▲ (弱き者の自己欺瞞) ~~~~~~ ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。――小羊が大きな猛禽に憤慨するのは 不思議なことではない。しかし小羊たちが猛禽にたいして 小さな羊をさらうことに文句をつける理由はないのだ。 そして小羊たちが《この猛禽は悪い。そして猛禽とかけ離れた者 猛禽の反対である者 すなわち小羊が――善い存在なのではあるまいか》と仲間うちで語っていたとしても このような理想のたてかたに非難すべきところはない。 ただし猛禽たちはこれをあざ笑うように眺めて おそらく《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》と言っていることだろう。 ――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。 弱さにたいして それが強さとして現われることを求めるのと同じような矛盾なのだ。 ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。 たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。 しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである。 (『道徳の系譜学』 《第一論文 〈善と悪〉と〈良いと悪い〉》 十三 中山元訳 2009 pp.72-74 ) ~~~~~~~~~ ☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか? ○ 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。 ○ 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。 ☆ ご見解をどうぞ! 何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・
- 図書館で本を借りるのに抵抗があるんですが
本も高いので図書館で借りたいのですが、 実際窓口に行くとホームレスに近いようなおじさんも多く、 この人たちがトイレでクソしながら・・・とか 鼻クソほじくりながら・・・ とか考えると、借りることにどうしても ためらいがあります。 どげんすりゃいいんでしょうか?
- ベストアンサー
- その他(本・雑誌・マンガ)
- omoshirojinsei
- 回答数12