littlekiss の回答履歴
- 自我という概念は あり得ない
自我という概念は じっさいに現実においてそれとしてまとまった実態としては あり得ない。ですよね? あっても わがままだとか我執だとかの心理的に強固な気持ちだったり 或る種の条件反射のごとく動き出す精神の意志としてのようなハタラキだったりするのみであって けっきょくたとえば《自我が形成される》といったような意味合いの実態はない。 超自我とエス(リビドー)とを取り持つというような自我は けっきょくワタシでありその理性ないし意志だと考えられます。 自我は 死語もしくは幻想ではないでしょうか?
- カイン再考
極端な仮説を提出して 再考をのぞみます。 まづやはり先に そのくだりをかかげます。 ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~ 1: さて、アダムは妻エバを知った。 彼女は身ごもってカインを産み、 「わたしは主によって男子を得た」 と言った。 2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。 アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。 主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。 カインは激しく怒って顔を伏せた。 6: 主はカインに言われた。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。 お前はそれを支配せねばならない。」 8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、 カインは弟アベルを襲って殺した。 9: 主はカインに言われた。 「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」 カインは答えた。 「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」 10: 主は言われた。 「何ということをしたのか。 お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。 11: 今、お前は呪われる者となった。 お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも なお、呪われる。 12: 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す ことはない。 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」 13: カインは主に言った。 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。 14: 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す でしょう。」 15: 主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の 復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに しるしを付けられた。 16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《4:6 どうして顔を伏せるのか》は 内面の暗い重い闇に落ち入った感じをつたえそうな表現であり じっさい原文は 《どうして顔が落ちているのか》という言葉で表わしているのだそうです。 →【Q:カインは なぜ・どこが わるかったのか?】No.36お礼欄 http://okwave.jp/qa/q7308621.html ですが 今回は 形式的なこと・表現技法にかんすることがからんでいるのではないかという・ちょっと人を食ったようなとさえ見られる見方を提出します。 (あ) このカインの物語は カインがどうだアベルがこうだという問題では必ずしもなく そうではなく ひとえに《ひとごろし》という主題を アダムとエワの物語のあとに提示してみせたのだという解釈です。 (い) すなわち聖書記者は 天地創造が終えられたあとの初めに 《善と悪とを知る木から採って食べた》という・おそらく人間の自由意志の主題をあつかった。そのあと ただちに――エワとアダムとは その自由意志を おのれの心にさからったかたちにおいても 発揮することがあると物語ったからにはそのあと ただちに―― 人が人をころすという主題を取り上げた。 (う) だから アベルが遊牧民でカインは農耕民だという違いを要因として取り上げたり あるいは一にも二にも 信仰の問題であってそれは なかなかオモテには出て来ないのだと信仰論で済ませようとしたり さらにあるいは けっきょくカインは 神がアベルの供え物を喜んだが 自分のそれには目を留めなかったところから アベルに嫉妬したのだと説明したりする議論は 解釈に失敗するか もしくは タメにする議論に落ち入るのではないか。 (え) すなわちつまり エワとアダムの事件では 《自由意志には すなおな心とへそ曲がりの心とがある》と理論づけたのだし ここカインの事件では 《その自由意志が みづからのであれ・他人のであれ同じ自由意志を・つまりは自由意志の主体として人間という存在そのものを抹殺することがある》と論じすすもうとしている。 (お) エワとアダムとは へそ曲がりの報いとして エデンの園を追われた。カインは ▲4:12 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」 ▲4:15 ~~~~~~~~~~~~~~ 主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の 復讐を受けるであろう。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ といったように捌かれた。この結果をもって ひとが人をころすことがないようにとされた。 * ブレインストーミングのごとく 思いっきり自由なご見解をどうぞ。 言わなくてもよいと思われますが フルボッコのご批判をどうぞ。
- 車は、絶対に止まりなさい。
・・・車は、絶対に止まるべき。 社会において、車の利便性は、そうかもしれませんが、 「事故」においては、車の危険性ということが、クローズアップされて良いと思います。 ・・・そうでなければ、「利便性」って何?ということでしょう。
- あなたなら、どう判断しますか?
産婦人科にて、車椅子に座った老人を見ました。 周囲は妊婦さんばかりで、皆、怪しむような目で睨んでいます。 なぜ怪しんだのかわかりますか。 この事例を一般化すると、どんなことが言えますか。
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#191845
- 回答数12
- Bさんの論理、おかしくありませんか?
一番論理的な思考をする人が集まっていると期待してこのカテで質問させていただきます。 日常よく遭遇する論理なんですが、簡略化してみました。 A「皆さん、私の作った料理、食べてみて批評して下さらない?」 皆さんと呼ばれた客の一人のBさんが食べて、それを批評しました。 B「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」 A「私は料理研究家じゃないから、とてもそんなことは出来ないわ」 B「私も料理研究家じゃないのに、貴方の料理を食べて批評までしてしまいました。とんだおせっかいをしてしまいました。私が食べたこと、私の批評はなかったことにして下さい」 Bさんの最後の言葉、何か腑に落ちないのですが、どこか論理がおかしいですよね?それともコレをすんなり受け入れられない私の脳の構造がおかしいのでしょうか? Aさんの「・・・とてもそんなことは出来ないわ」までは日常でもよくあることで殆ど違和感を感じません。論理的につながっているからでしょうか。しかしBさんの最後の言葉には「何だこりゃっ?」と反応してしまいました。Bさんの最後の言葉は論理的に正しいですか? まあ、会話は感情に支配されますから、そして感情は論理的とは限りませんが、それを言っちゃおしまいよ、ですから、なるべく論理を主体にした回答をお願い致します。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 0123gokudo
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- Bさんの論理、おかしくありませんか?
一番論理的な思考をする人が集まっていると期待してこのカテで質問させていただきます。 日常よく遭遇する論理なんですが、簡略化してみました。 A「皆さん、私の作った料理、食べてみて批評して下さらない?」 皆さんと呼ばれた客の一人のBさんが食べて、それを批評しました。 B「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」 A「私は料理研究家じゃないから、とてもそんなことは出来ないわ」 B「私も料理研究家じゃないのに、貴方の料理を食べて批評までしてしまいました。とんだおせっかいをしてしまいました。私が食べたこと、私の批評はなかったことにして下さい」 Bさんの最後の言葉、何か腑に落ちないのですが、どこか論理がおかしいですよね?それともコレをすんなり受け入れられない私の脳の構造がおかしいのでしょうか? Aさんの「・・・とてもそんなことは出来ないわ」までは日常でもよくあることで殆ど違和感を感じません。論理的につながっているからでしょうか。しかしBさんの最後の言葉には「何だこりゃっ?」と反応してしまいました。Bさんの最後の言葉は論理的に正しいですか? まあ、会話は感情に支配されますから、そして感情は論理的とは限りませんが、それを言っちゃおしまいよ、ですから、なるべく論理を主体にした回答をお願い致します。
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- 0123gokudo
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- Bさんの論理、おかしくありませんか?
一番論理的な思考をする人が集まっていると期待してこのカテで質問させていただきます。 日常よく遭遇する論理なんですが、簡略化してみました。 A「皆さん、私の作った料理、食べてみて批評して下さらない?」 皆さんと呼ばれた客の一人のBさんが食べて、それを批評しました。 B「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」 A「私は料理研究家じゃないから、とてもそんなことは出来ないわ」 B「私も料理研究家じゃないのに、貴方の料理を食べて批評までしてしまいました。とんだおせっかいをしてしまいました。私が食べたこと、私の批評はなかったことにして下さい」 Bさんの最後の言葉、何か腑に落ちないのですが、どこか論理がおかしいですよね?それともコレをすんなり受け入れられない私の脳の構造がおかしいのでしょうか? Aさんの「・・・とてもそんなことは出来ないわ」までは日常でもよくあることで殆ど違和感を感じません。論理的につながっているからでしょうか。しかしBさんの最後の言葉には「何だこりゃっ?」と反応してしまいました。Bさんの最後の言葉は論理的に正しいですか? まあ、会話は感情に支配されますから、そして感情は論理的とは限りませんが、それを言っちゃおしまいよ、ですから、なるべく論理を主体にした回答をお願い致します。
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- 0123gokudo
- 回答数30
- Bさんの論理、おかしくありませんか?
一番論理的な思考をする人が集まっていると期待してこのカテで質問させていただきます。 日常よく遭遇する論理なんですが、簡略化してみました。 A「皆さん、私の作った料理、食べてみて批評して下さらない?」 皆さんと呼ばれた客の一人のBさんが食べて、それを批評しました。 B「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」 A「私は料理研究家じゃないから、とてもそんなことは出来ないわ」 B「私も料理研究家じゃないのに、貴方の料理を食べて批評までしてしまいました。とんだおせっかいをしてしまいました。私が食べたこと、私の批評はなかったことにして下さい」 Bさんの最後の言葉、何か腑に落ちないのですが、どこか論理がおかしいですよね?それともコレをすんなり受け入れられない私の脳の構造がおかしいのでしょうか? Aさんの「・・・とてもそんなことは出来ないわ」までは日常でもよくあることで殆ど違和感を感じません。論理的につながっているからでしょうか。しかしBさんの最後の言葉には「何だこりゃっ?」と反応してしまいました。Bさんの最後の言葉は論理的に正しいですか? まあ、会話は感情に支配されますから、そして感情は論理的とは限りませんが、それを言っちゃおしまいよ、ですから、なるべく論理を主体にした回答をお願い致します。
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- 0123gokudo
- 回答数30
- 家猫について
私の家では猫を飼っていて、家猫(外に一切出さない)として一緒に暮らしています。 ずっと思っていたのですが、この「家猫」という飼い方は、果たして猫にとって幸せなのでしょうか? ラプンツェルというディズニーの映画を観たのですが、ずっと母親の元で外の世界から隔離され育てられてる様を見て、「うちの猫みたいだな」と思いました。 他の猫と知り合えない、恋も出来ない、自然とも触れ合えない、ただ同じ空間の中を過ごすだけ。 外に出さない理由は、やはり病気や事故の心配があるからです。 ですが、心配だからといって人間のエゴで外に出さないのはどうなのでしょうか? 私は両親がとても心配性で、自由にさせて欲しいと思ったことが何度もあります。ですがその心配を抑え、子供を見守るということも親の務めだと思います。 そうなると、うちの猫も心配なのを抑え自由に外に出すべきなのでしょうか? 動物のカテゴリーで聞くべきことなのかも知れませんが、ここのカテゴリーの方の意見を聞きたかったのでこちらで質問致しました。
- Bさんの論理、おかしくありませんか?
一番論理的な思考をする人が集まっていると期待してこのカテで質問させていただきます。 日常よく遭遇する論理なんですが、簡略化してみました。 A「皆さん、私の作った料理、食べてみて批評して下さらない?」 皆さんと呼ばれた客の一人のBさんが食べて、それを批評しました。 B「Aさんも料理研究家なら、私の作った料理も食べて批評して下さいよ」 A「私は料理研究家じゃないから、とてもそんなことは出来ないわ」 B「私も料理研究家じゃないのに、貴方の料理を食べて批評までしてしまいました。とんだおせっかいをしてしまいました。私が食べたこと、私の批評はなかったことにして下さい」 Bさんの最後の言葉、何か腑に落ちないのですが、どこか論理がおかしいですよね?それともコレをすんなり受け入れられない私の脳の構造がおかしいのでしょうか? Aさんの「・・・とてもそんなことは出来ないわ」までは日常でもよくあることで殆ど違和感を感じません。論理的につながっているからでしょうか。しかしBさんの最後の言葉には「何だこりゃっ?」と反応してしまいました。Bさんの最後の言葉は論理的に正しいですか? まあ、会話は感情に支配されますから、そして感情は論理的とは限りませんが、それを言っちゃおしまいよ、ですから、なるべく論理を主体にした回答をお願い致します。
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- 0123gokudo
- 回答数30
- 感・理・意・・・など、心の仕組み(?)について。
人の心は、理性、感性、意志、と言う言葉で表す三つの働きがあるとされていますが、「記憶」と言う働きはどのような位置づけになるのかと、時々考えたりしています。 今日、思ったことは理性、感性、意志、の“性や志”を取り除いて“理・感・意”とした場合、どうなるかと云う事です。 「感」には感覚と感情という言葉がありますが、感覚は物理的な反応としました。 感情は精神的な反応、でよいと思いますがその内容は物理的な“感覚”に反応して起こる「情」と精神的な“刺激(好悪など)”を受けて起こる「情」とがあるように思います。 また、感覚は生理的に、感情は心理的に、とも受け止めてみました。 「理」についてはどうなんでしょう。 理性、と言う言葉に対して理解という言葉を当てるのは適当でしょうか。 理解とは物事を解釈し判断すること、でよいかと思いますが、理性とはそうした能力(働き)の事を言っているように思います。 そう思うと、理性とは物事を理解する働き、と受け止める事になるのですが、これで良いでしょうか。 「意」については辞書では“思い”とありますが、これに「志」が付くと“力(ちから)”を感じます。 この“力”は言い換えれば行動する、と言うことだと思います。今、能動という言葉を思い出しました。 「感」を受動、とすれば「意」は能動、であると。 そして、「記憶」という心の持つ能力です。 生物すべてにあると思われる「記憶」という心の働き、“心”はこの「記憶」を土台にして成り立っているのではないのだろうか・・・・・ なんてことを考えてみましたが“回答”いただけますでしょうか。 よろしくお願いいたします。
- 悪口と正直の違いについて
例えば、「○○さんカワイイと思う?」という質問に対して、 『いや別に、興味無い』とか。 この程度の返事ならともかく、 それって捉えようによっては失礼?という返事って、 悪口だと思う?正直は正直だから関心する?
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- 哲学・倫理・宗教学
- noname#193022
- 回答数8
- 悪の共同自治にあたってわれわれは 協力しうるか
悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか 言いかえるなら: (α) 自由な市民による自由な連帯は 果たして可能か。いかにして可能か。 これが 問い求めの主題です。しかも取りあえずは 組織的な運動を考えない次元においてです。 つぎに趣旨説明です。 (β) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において保つ人びとは 果たしてこの主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。 (γ) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います: 悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして存在しない。 あるとしても 《善の完全な欠如》を想像裡において 絶対化した ところの観念である《悪魔》のみである。 世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれて いくと あたかもこの悪魔は 永続しているように見える。だが そ れだけのことだ。 (δ) もし人生が或る種の仕方でたたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであるとわたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。 (ε) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。 それは 先の(α)の主観を共同化した状態にある人びと つまりは共同主観(コモンセンス)を確立することができた人びと そういう人びとが 互いに《同感》派として全体の三分の一を占め 次の三分の一が《共感》派を形成し 残りをお呼びでないところの《反感》派が占めるという構図です。 共感派というのは はっきり言って浮動層でもあります。 (ζ) しかも この社会としての構図についても 飽くまでわたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(δ)に言う一対一の対話であると考えていました。 (η) そこで果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったいどういうことが考えられましょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。 ☆ このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。 * 何か ただ自覚の問題だけだというようにも思われて愚問かも知れないのですが 次のようにも考えてみます。 (θ) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その毒麦を引っこ抜かずに混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして平和裡に保つか》 こういう問いになろうかと考えます。 (毒麦を引き抜かないのは もし引き抜くならそのとき ふつうの麦をもいっしょに引きぬいてしまって だめにしてしまうからだと言われます)。 (ι) 前項の説明として:《毒麦》とは 煮詰めて言えば主観としてでしょうがきつく言えば《これで人間と呼べるか》という疑いが持たれてしまうという場合を言っています。 (κ) 《呼べるかどうか》の答えは人間としては出ない・出せないというこたえをわたしはこのところ得たのですが ただしそのような人物評価としての思考じたいは 現われますし 或る意味で――相対的な経験合理性にもとづく判断という範囲に限れば―― 妥当な内容をさえ持つとも考えます。 (λ) ひとことで言えば 《コミュニケーション不全》という状態です。これはみづからが人間でなくなろうとしているのではないか。こういううたがいであり――みなさんは こういった或る意味で究極の人間不信の状態に落ち入ったご経験はありますか?―― しかもその説得力のある説明が主観的にであれじゅうぶんできるという場合に ではどう対処していくのか これです。 (説明というのは 《話し合いを捨てている。 もうしようとしないという状態にある》を充てます)。 よろしくどうぞ
- 宇宙を解明した
僕は統合失調症で幻聴の強い精神障害者です。何故メールをしたのかは僕の幻聴が宇宙空間から送られて来ているからです。幻聴が宇宙の始まりを教えてくれました。空間が時と言う概念で、回り始めた時に空間が圧縮、摩擦、捻れ、を繰り返した時に・←限りなく人に近い電気信号Ψによる心が産まれました。・心は原子の始まりのようにしてC←のように出来るだけ真っ直ぐに走りました、そしてそれを繰り返しましたQ←のように丸になったら、丸の中心からQ←出来るだけ真っ直ぐに走って心は夢をたくさん見ました。やがて何処までも行っても自分しか居ない家族や恋人の夢をたくさん見たのに自分しか居ないと寂しさを覚えたときに、Φ←涙と言うΨによる超能力黒い稲妻で、捻れと摩擦と圧縮された熱しかない空間を冷却した事が宇宙の始まりでビッグバンではないと言っています。冷却された宇宙空間に残った時空間の熱に重力と言うΨの心が産まれた。僕がただの幻聴とそうでない事を聞き分けられなければこんな発想は産まれませんでした。宇宙から送られて来るアイと呼んでいますが、僕と言う人生を夢見ていました。僕がアイが宇宙に涙を落としました。 現代物理学でも時間と空間ができたことまたその次の段階で超高温の混沌エネルギーから宇宙の冷却により物質化したことはほぼ説明されています質問者さんの言っている事はすでに知られている現代物理学の宇宙の始まりの現象を異なる表現を使って説明しているような感じですイメージ理解は現代物理学と並んでいる印象ですビッグバン現象は時空創世とも言うべきインフレーション現象の次の発熱現象なのです解明というよりも認識は並んでいるだけのような気がしますただ現代物理学でも意識という物理現象までは解明統合されていません質問者さんが言っていることの私の理解が正しければおそらくですが質問者さんは意識は並行宇宙を渡るということを直感しているのだと思われます最新の仮説ではこの宇宙を超えてところにある並行宇宙は存在しているはずだと言われていますもちろん証明はどんなに科学が進んだ未来でも不可能な程の観測距離です意識はその並行宇宙の間を渡るというということであるのならば心である意識は前宇宙の現実の夢を絶えず繰り返し見続けながらシフトするはずです現実は次の世界では夢に降格する現象の繰り返しがなされるはずなので「心が夢をたくさん見てきたという」現象は前宇宙のこの世から今回のこの世である限りなく近いパラレル宇宙のこの世に意識がシフトしてきた事象を予言しているかのような内容です つまりあなたの宇宙はどんな感じですか?
- 私が取り組みたい課題の参考になるものを探してます
はじめて質問を投稿します。 大学のゼミで私が日頃考えている問題について発表するのですが、なにか参考になる書籍や論文、もしくは私の考えと類似した問題意識を持つ人などなんでも結構なので教えていただきたいと思い質問しました。尚カテゴリ選択に悩んだのですが私の所属するゼミは人文科学系で教授は哲学の専門家なのでこちらで質問させていただきます。カテゴリ違いだと思われた場合はその旨ご了承ください。 それで肝心の私の問題意識についてですが、テーマは「インターネットによる効率的な情報収集と未知との縁の喪失について」というものです。 例えば学校教育(特に義務教育課程など)では教養や知識や情報は一方的に与えられる、言わば学ぶ者は受動的な姿勢であるということになります。対してインターネットなどの検索技術を用いた情報収集では学ぶ者はあらかじめ検索対象への興味関心を持っている、つまり調べたい事柄の「なにか」をもともと知っていることになりその上学ぶ者は能動的な姿勢である、ということが言えます。 これらの何が問題かというと後者は興味関心を「深める」役割を担っている一方で興味関心そのものを「広げる」ことが(不可能とは断言できないまでも)困難であり、もしもインターネットへ過剰に傾倒する者がいたならば彼は自身の関心事については驚異的な知識量を有するがそれ以外は何も知らないという「象牙の塔」的状況が生まれ、彼は自分が全く知らない未知との縁を喪失していることになります。(極端な例を出せば、仮に彼がチェスを好む傾向を持っていたとしてもチェスというゲームの存在を知る機会【縁】が無ければ彼はチェスに興じることはない。) 多少オーバーに書いてしまいましたが能動的な学びの姿勢を持っているがゆえに招きかねない上記の事例、未知との縁の喪失というものに私は問題があるのではないかと感じています。 もっといろいろな例え方(SNSや動画サイトやネット記事など)がありますが長くなりすぎるのも問題だと思うのでこれ以上は自重します。 上記の私の問題意識に近いことが書かれているような書籍や論文、もしくはこのような問題に言及している人物など、なにか参考になりそうなものを教えてください。尚ゼミの教授に相談したところ「多くの人と議論を交わして自分の考えを濃密にすることも重要だ」と言われたので、私の問題意識についての意見もくださると幸いです。
- 私が取り組みたい課題の参考になるものを探してます
はじめて質問を投稿します。 大学のゼミで私が日頃考えている問題について発表するのですが、なにか参考になる書籍や論文、もしくは私の考えと類似した問題意識を持つ人などなんでも結構なので教えていただきたいと思い質問しました。尚カテゴリ選択に悩んだのですが私の所属するゼミは人文科学系で教授は哲学の専門家なのでこちらで質問させていただきます。カテゴリ違いだと思われた場合はその旨ご了承ください。 それで肝心の私の問題意識についてですが、テーマは「インターネットによる効率的な情報収集と未知との縁の喪失について」というものです。 例えば学校教育(特に義務教育課程など)では教養や知識や情報は一方的に与えられる、言わば学ぶ者は受動的な姿勢であるということになります。対してインターネットなどの検索技術を用いた情報収集では学ぶ者はあらかじめ検索対象への興味関心を持っている、つまり調べたい事柄の「なにか」をもともと知っていることになりその上学ぶ者は能動的な姿勢である、ということが言えます。 これらの何が問題かというと後者は興味関心を「深める」役割を担っている一方で興味関心そのものを「広げる」ことが(不可能とは断言できないまでも)困難であり、もしもインターネットへ過剰に傾倒する者がいたならば彼は自身の関心事については驚異的な知識量を有するがそれ以外は何も知らないという「象牙の塔」的状況が生まれ、彼は自分が全く知らない未知との縁を喪失していることになります。(極端な例を出せば、仮に彼がチェスを好む傾向を持っていたとしてもチェスというゲームの存在を知る機会【縁】が無ければ彼はチェスに興じることはない。) 多少オーバーに書いてしまいましたが能動的な学びの姿勢を持っているがゆえに招きかねない上記の事例、未知との縁の喪失というものに私は問題があるのではないかと感じています。 もっといろいろな例え方(SNSや動画サイトやネット記事など)がありますが長くなりすぎるのも問題だと思うのでこれ以上は自重します。 上記の私の問題意識に近いことが書かれているような書籍や論文、もしくはこのような問題に言及している人物など、なにか参考になりそうなものを教えてください。尚ゼミの教授に相談したところ「多くの人と議論を交わして自分の考えを濃密にすることも重要だ」と言われたので、私の問題意識についての意見もくださると幸いです。
- 目から見る と 向こうからある、、では音声は?
分かりにくい質問ですみません。仏教的なことについて質問します。 自分の目が先にあってそこから見るのでなく、物や風景が向こうからあるようなみえ方について、 視覚は、そうだと、自分の感じを意識しなくてすむので楽です。 それなら 音を聞いたり、人の声を聞いたりするとき、 どういう聞き方(聞こえ方)をしたら、自分の感じにとらわれずにすむのでしょうか? 見えているのは向こうからあるような気がします。 では、聴覚はどうでしょうか。 聞こえるもの(聞こえたと意識できるようなもの)は、 どちらにあるのでしょうか?どこにあるのでしょうか? どうすればいいのでしょうか? 分かりにくい質問ですみません、 そのあたりのことなのですがよければ聞かせてください。
- 売春防止法ならびに「転落婦女」の認識
昭和31年に公布されたわが国の売春防止法、ならびに昭和37年の日弁連の決議「売春と麻薬犯罪対策に関する件」に関する質問です。 世界的な売春の合法化の流れのもと、現況の日本の性風俗と世相に鑑み、この法律ならびに「転落婦女」という認識が今も適正か、それとも時代遅れの感があり、それゆえ是正や改正する余地があり得るのか、どうぞ皆様のご意見をお聞かせ下さい。 参考までに一つお断りしておきます。 私としては、現代日本において売春をする女性を「転落婦女」、そして売春行為そのものを一概に女性に対する人権侵害とはみなしてはおりません。 戦後の医療の発展と避妊技術の普及に伴い、女性自ら妊娠の不安と行為に対する意識のハードルが下がっているなどが理由のうちに挙げられるかと思います。 むろん、過去の国内外における一連の廃娼運動の流れ、そして宗教倫理上ないし個人的信条ももちろん考慮すべきと思われます。 ここでは激論を交わす事が目的では無く、質問者の一私見にかぎらず皆様方の様々なお考えをお寄せいただければ嬉しいです。 また、日弁連は自らが称した「国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊」に対して今に至るまでどのようにかかわり立ち向かってきたのでしょうか。 決議の年に私はまだ生まれておりませんで、昭和40年代も幼少時の思い出しか持ち合わせていません。 ですので当時をお知りの方からご教示いただけるとなお有難く思います。 よろしくお願いします。 売春と麻薬犯罪対策に関する件(決議) 「近時、売春と麻薬に関する犯罪は、激増の一途を辿りつつあるが、これは、国家社会の健全化を阻害する怖るべき病弊である。 この種犯罪に対し、取締法規の整備も必要ではあるが、当局が、その予防について、充分の施策をなさず、転落婦女並びに麻薬患者の救済治療施設等について満足な措置すら講じないのは寔に遺憾である。 よって、当局は速かに、これらの施策につき万全の措置を講ずることを要望する。 昭和37年10月20日 於京都市、第5回人権擁護大会 理由 近時、大都会が魔窟化し、特に売春又は麻薬服用等によって、心身を持崩す青少年婦女の激増したことは、社会の健全化、国運の発展を妨害する怖るべき病弊であって、深慮に堪えない。かかる社会的腐敗の撲滅の策定は、所謂所得倍増の施策よりもむしろ緊急を要する。そのためには、単に厳罰の方針のみを以ってしては、充分でなく、一方麻薬患者の治療施設、転落婦女の救済施設を拡充するとともに、他方国民の志気の昂揚を図らなければならね。政府は事の重大なるを思い、速やかにこれが対策措置を講ずべきである。」
- ベストアンサー
- その他(法律)
- noname#179999
- 回答数11