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3.11  生きていることに罪悪感を感じます

女子大3年生。 3.11。 毎年追悼番組があります。 うまく表現できないのですが、TVの被災地の特集を見ていたら、 ・私なんか生きている価値あるのかな ・津波でお亡くなりになられた方のほうが私より生きていたほうがよかったのかも とか思います。 こんな風に思う方、いらっしゃいませんか? 私が悪いのか、もしかしてテレビが悪いのかも、と思いたいけどそうだったら放送されないですよね。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34517)
回答No.6

それはまあ、そう思うことはあるのではないかなと思います。私はうつ病を患っていたときがありますが、ある日、拳銃を持った立て籠もり事件が起きたのです。犯人が威嚇のために適当に射撃したら、流れ弾が特殊部隊の隊員に当たり、防弾チョッキも着ていたのによりにもよってそのすき間に命中して、その隊員は殉職してしまいました。なんとその隊員には身重の奥さんがいたというのです。 その報に接したとき、私は死んでは行けない人間が死んで、生きてても意味のない人間が生きていると強烈に思いました。その思いは、うつ病が寛解した今でもまだ心の中のどこかに常にあります。たぶん私は死ぬまであまり生きていて価値がない人間がここまで生きてしまったと思いながら生きると思います。死なないのは、純粋に死ぬのが怖いからです・笑。 私がなにかの事故で亡くなったら、自殺する人がいたら「俺も死にたくて死んだわけじゃないのに、なに勝手に自分で死んでるんだ」って腹が立ちますよ。 確かに自分より価値のある人たちが志半ばで亡くなってゆくことはありますが、だからといって価値がない人間が死ななきゃいけないというわけでもないですし、価値がない人間が死んだからといって死んだ人が生き返るわけでもなければ、それで価値のある人が死なずに済むってことにもならないですからね。

seiko20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 最後の部分、そう思いたいです

その他の回答 (6)

  • zabusakura
  • ベストアンサー率14% (2381/15945)
回答No.7

生きていることに罪悪感を感じます そう思うのなら、そう思わなくても済む生き方をしてください。 社会の為になる生き方を。

seiko20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。むつかしいですが頑張ります。

  • dottimiti
  • ベストアンサー率12% (286/2363)
回答No.5

そういう感覚、昔は自分にもありました。 真面目なコンテンツの泣かせるポイント、共感させて涙を流させるポイントに共感できず、自分が説教されたような気持ちになっていました。 ・日頃から自分を否定している ・気が付かないくらい小さい頃から自分を否定している ・なんとなく自分の気分が満たされない と、大災害や身近な人を失った人をみても、そういうところに共感もなく、虚しい感覚になるのだろうと思います。 今思うと、空気読んで忖度する世の中で、親や育ててくれた人さえも世界と切り離されたセカイ、または、大きな力への忖度が前提のセカイに生きていたからでした。 テレビでそういった番組が放送される背景ってなんでしょうか? テレビは、作ってる人がいるし、放送される追悼行事も作ってる人がいます。 日本および国際社会という枠組みの運営をするうえで、忘れてはいけないことを仕組みとして覚えておく仕掛けが追悼式です。 内容は、お涙頂戴でしょうか。違います。本当に涙を流した人がいます。それを個人的なお葬式などを更に超えて、社会としてやる追悼式。 一人や家族の力を超えた大災害に、社会全体として向き合ったことを表現する追悼式。 被害や復興も濃淡があって、テレビ映えする事例がテレビ番組には映っているのかもしれません。 テレビはじめマスメディアには、国際社会においての日本国民を作る作用があるし、国内においての日本国民を作る作用がある。体験や文化を共有して、それで同じような価値観の集団をつなぎとめておくこと。あえてそれを目的とした放送もたまにはあると思います。学校なんかと同じ種類のものです。 無さすぎると社会がなくなるし、いつでもそれが合わない人もいるし、これがやり過ぎては空気感が固定されて、新しいものごとが生まれない。 で、2020年のいま、空気感が固定されて、新しいものごとが生まれない感じになっているのではないかと。この傾向はたぶん起点は70年代前半、東大の入試がなくなった年くらいにさかのぼると思います。そして90年代のおわりにかけてどんどん広がって続いていき、オウム真理教という集団がこの虚しさを埋めた時もあれば、今はアイドルとそのファンたちの世界観や、安倍さんたちが作るフェイクニュースでできた世界観など、いろんな小さい集団にわかれていると個人的には思います。 そういうとき、何が最適か考える。 放送は、日本国憲法上は表現の自由とか、そこから生まれた知る権利になるっていう理解のされ方が一般的。学校でもまだその話はしてもらえるのではないでしょうか(されなくなっていたらすいません)。憲法に放送のことは書いてないけど、それは憲法ができたときにラジオはあったけどテレビなかったもんね…っていう背景もある。 日本国憲法は、国のやりすぎを抑え込む力があるので、知る権利を使って国のやりすぎを抑え込んでる人がいる。 放送は、そういうたたかいの場だと思ってみると、面白くなるし、自分はどちらを応援した方がいいのだろう?と考えると、更に見え方が違ってくるのです。 で、国のやりすぎを抑え込むのにたたかってる人がyoutube動画で授業をやっているのを昨日みつけましたので、紹介します。

参考URL:
https://lcpss.ourjiyu.com/speakers/nakano/
seiko20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 同じように考えてる人もいるって知れて安心しました。

回答No.4

生きている価値のない人間なんていませんよ。 震災で亡くなられた方々のためにも、楽しみを見つけて一生懸命何かしてみましょう。お互い頑張りましょうね。

seiko20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。頑張ります。

  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3668)
回答No.3

亡くなられた方達に失礼ですよ。 自分の夢や希望、家族も友達も一瞬で失ってしまった。 そうした方達の無念を思えばこそ、尚更、命の尊さを思い、生きていることに感謝しなければならないでしょう。 亡くなられた方達の分まで強く生きてくださいよ。

seiko20
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • maiko04
  • ベストアンサー率17% (345/1956)
回答No.2

亡くなった方の人生「>」あなたの人生 と考えるのですね。 では 「>」でなく「=」や「<」になるような生き方をすることですね。 別になんくなった方への追悼になる仕事でなくても構いません。 金銭的に儲かるものでもありません。 あなたが、あなたとして「よい」と思われるような生き方です。 ガッチリ稼いで全額遊びに使っても良いし、 こじんまりしていてもそれなりの生活ができればそれでもいいし。 良し悪しの指標は人それぞれですから 人に何を言われようと曲げなくていいです。

  • roadhead
  • ベストアンサー率22% (852/3790)
回答No.1

その考え方は犠牲者を冒涜する最も良くない考え方です。