- ベストアンサー
裸婦像
「芸術」としての女性ヌードで正面からの姿を描いたもので乳首が隠されているポーズというものをほとんど見たことが無いですが、特に芸能人などが出す「ヌード写真集」と称するものではこういうものが珍しくありません。乳房、乳首は女性の象徴で女性のヌードというのは乳首があって初めて完成するものであり、隠していたり、撮影角度で写っていないものは水着写真や下着写真と変わりが無いと思うのですがどうでしょうか。お礼は書きませんが反対、異論も構いません。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
ルネッサンスの絵画はギリシャ・ローマの美術を見直してキリスト教に否定された人間の身体やエロティシズムを美しいものとして見直すものだったわけですけれど。 「ビーナスの誕生」はけっこう隠してます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sandro_Botticelli_-_La_nascita_di_Venere_-_Google_Art_Project_-_edited.jpg マネの草上の昼食もその本歌のジョルジョーネの「田園の合奏」も乳首は描いていません。というか描かなくて済むポーズになっている。「正面から描いているものは」まずいのであれば自然とそういうぼやかしはあるでしょう。 「田園の合奏」は手前の女は実在ではなくて妖精だから男達は見えないかのように振る舞っているといういいわけがちゃんとあったわけですが、マネの絵がとんでもないとされたのはそういう神話みたいないいわけが取っ払われて、女の裸が神秘性を奪われてむき出しにあるがままみたいな扱いをされているからでしょう。何か物のように扱われている感じも受けます。 マティスのダンスIIなどは乳首はひとつの画面の中で描かれてたり描かれてなかったり。 一方ピカソの「アルジェの女達」は本歌のドラクロワの「アルジェの女達」には全く描かれてない乳首や尻をわざわざ描いています。 乳首好きと言えばルノアールだと思いますがルノアールの絵の印象としてはどちらかと言うと「水着写真」「雑誌グラビア」の系列のように私は感じます。 水着・下着写真の理由は取り締まりの存在と切り離すことはできないでしょう。 同じエロでもむき出しの写真や映像が芸術で雑誌のものがそうでないというような区別はできないように思います。 私は現代の美術においては乳首や性器をリアルに描くことが芸術と実用エロを区別する条件になっているとは思わないのですが、そのように考えているのはなぜなのかよろしければお聞かせください。これは批判・非難ではないです。
その他の回答 (2)
- SPROCKETER
- ベストアンサー率26% (2131/8006)
欧米とアジアで裸婦像に対する考え方がずいぶん違うようですね。 中世ヨーロッパ時代は裸婦画を描く時には猥褻な部分を誤魔化して描かなければならない決まりがあって、それを破って描くと画家やモデルが暗殺団に殺される事があったそうです。猥褻な部分を全て描いたのはスペインの画家だったゴヤぐらいで、裸のマハとして有名なその絵も後世に改竄されて修正されていて、原画の復元は不可能なのだそうです。20世紀に入って写真が普及するようになり、絵画が衰退するに連れて、クールベなどの画家が無修正裸婦画を描くようになりましたが、それでもモデルの暗殺事件が絶えなかったそうです。 アジアでも裸婦画は修正された絵を描くのが常識化していますが、エローラ芸術を起源とすると、猥褻な部分も全て描いているわけで、今のような情報社会では、欧米でもアジアでも猥褻絵画や猥褻写真が野放し状態のようですね。 ヌード写真集と言いますが、型に填まったポーズしか載せていないもので、本当は凄いポーズがたくさんあるのに、そういう写真集は出せないようです。法律の壁があるのでしょうね。むしろ、インターネットの方が凄いヌード写真が野放し状態で、公開と削除が繰り返されている状況のようです。