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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「待つ」といえば、)

「待つ」といえば、人生において必ずありますね。

このQ&Aのポイント
  • 人生において、待つことって必ずありますね。楽しいこと、寂しいこと、辛いことなど色々あると思います。
  • 僕が人を一番長く待ったのは、人生最初の恋人との何回目かのデートの時で、大阪梅田の阪神デパートのサテスタ前で、3時間待ちました。
  • 結局別れてしまいましたが、あの不安定で、揺れ動く恋心は、今でも貴重な体験です。

質問者が選んだベストアンサー

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  • alterd
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回答No.4

どうもです (^ ^) この頃、つくづく思いますが、人生、良いことが起こるには長い時間が掛かります。 ヘタすると何十年も掛かる場合もあります。 私は若い頃、ジャズ喫茶のバイトにのめり込み大学を留年しました。 大阪北区太融寺にあったジャズ喫茶です。 その影響で楽器も手にしました。 そして、40年以上経った今、近所にジャズバーが出来ました。 そこで、時々、演奏させて貰ってます。 そこには、私が長い間待ち望んだ人生があります。

5mm2
質問者

お礼

こんにちは。 羨ましいですね。 ジャズは、大学を留年するくらいですから、相当なのめり込みですね。 御堂筋はデートで、北から南までよく歩きましたが、太融寺の近くに、ジャズ喫茶が有りましたかね。 60歳までは、普通の仕事をしていて、リタイヤ後に、念願のジャズの仕事に有りつけたということですか。 羨ましいけど、そこまでの技量も根性もないので、実現は難しいですね。 待つのも大切ですが、待つだけでは駄目ですね。 ただ、流石と言うのみですね。 でも羨ましい。 ありがとうございました。

その他の回答 (25)

  • kuro804
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回答No.6

おはようございます 待つ...といえば私にもありましたよ。 入社2年目を迎えたころ、山好きの先輩数人に誘われて富士山と奥穂高へ登りました。 奥穂高からの帰途、先輩から”1番目と3番目の山に登ったから次は2番目の北岳だな”との話しがでました。 でも3年目の春には会社は連鎖倒産の憂き目に合い、皆再就職でバラバラ、この話しは途絶えました。 そして今、残りの年月を考える年となり むらむらと今年単独ではありますが登頂目指して体力、装備に燃え上がっております。 すでに40年以上の歳月が過ぎ、あと夏が来るのを待つのみです。

5mm2
質問者

お礼

お早うございます。 日本一の富士山と、3番の奥穂高に登ったんですね。 これだけでも凄いですね。 北岳は、かなり険しいんでしょう。 もうだいぶお年ですから、気を付けて登って下さい。 倒産でバラバラになった先輩は、どうしてるでしょうね。 このカテを見て、連絡が入れば良いですね。 応援しています。

noname#231257
noname#231257
回答No.5

高値掴みしてしまった株が再び含み益を出す日までひたすら「待つ」のみです…(笑)

5mm2
質問者

お礼

え、20代の娘さんですか。 僕と同じオッサンかと思いました。 株は難しいですよね。 僕も損したことも、得したことも有りますが、小遣いで少しずつ買い続けるのも良いかもしれませんね。 ストレスにならず、楽しく待てればいいですね。 ありがとうございました。

回答No.3

今から約20年前に勤めていた職場の専務 今年49歳だったかな? 心の中で「早く離婚しろー」と心の中で叫んでいます

5mm2
質問者

お礼

こんにちは。 <「早く離婚しろー」> これは、後釜を狙ってたということですか。 20年前だったら、専務は30歳くらいですね。 そして私は、見目麗しき23歳。 20年間。 今でも待ってます。 美しい話。 合ってますか?

回答No.2

「待てば海路の日和あり」 「白雲自ずからきたれり」 地獄の底から這いあがって4年 待ちましたよ この日を・・・4月13日 金曜日 大安 この日私たちは吉報を受け取りました。 長かったですよ。でも耐えて耐えて 友達も去り 親友も亡くなり 人々の辛いさげすみの目に耐えて やっと日の目を見ることになった我が家。 これからもどんな嵐や波が来るかは解りませんが 待ったかいがあったものです。 少しは元気になった私です。   これからもよろしくお願いいたします。!(^^)! 待ち合わせで待った最高時間は4時間半 とうとう彼は来ず、やっとの思いで 連絡をしてみたら 友達が急死したとのこと 連絡も取れずこまっていたそうです。 ダイヤル9ツウもポケベルもない時代 ありましたよね。 そんな若い日の事でしたっけ。   車でしたので路上での待ち合わせでした。    

5mm2
質問者

お礼

こんにちは。 何事も「待てば海路の日和あり」ですね。 「白雲自ずからきたれり」は聞いたことが無のですが。 この日「4月13日 金曜日 大安」は先週の事でしょうか。 大願成就ですか、よかったですね。 おめでとうございます。 ところどころ伺ってると、本当に大変だったみたいですね。 purimuro-zuさんの辛抱強い、日々努力してる姿が感じられていました。 辛抱と努力が苦手な僕には、尊敬の一言ですね。 いつか、成功を収めたものの一端を、紹介して頂けるのでしょうか。 その日を楽しみにしています。 彼を待つ時間、4時間半は新記録ですね。 待ち合わせ場所を間違えたのではないかと、あっちで待ったり、またこっちで待ったりと、してたのではないでしょうか。 そんな経験も、一生に一度は有ったほうが良いかもしれませんね。 若き日の勲章として。 今ならもう待ちません(笑)。

回答No.1

 その日は、学部の講義が早めに終わって、ふと設計課題でアパートに籠っていたから久しぶりに彼女の顔が見たくなりました。4月の仙台は生暖かい風が吹いていて遅い桜が満開でした。短大を卒業したばかりの僕の彼女は不況のあおりで就職先がみつからず、自動車のディーラーに就職したばかりでした。 彼女の4畳半のアパートは1年半の僕らの思い出が詰まった場所でした。 おそらく、何気なく僕が言った言葉が彼女の心を動かしたのでしょう。 「浮気したかったらしてもいいんだぞ。」 その言葉に、男が本気で自分を愛していないことを悟ったのか、奔放な従姉のセイコちゃんに感化されたか、その日は会社の上司に誘われるままに花見のあとにモーテルに行き、私はそれを3時間半待ち続けました。 古い市街地の真ん中あたりにあるアパートの前に車が停まり、ドアを閉める音。古びた玄関のガラス扉を開ける音に続いて彼女の足音が近づいてきました。時計は12時を過ぎていました。 待つという行為は、得意でないです。ネガティブな想像だけが一人で膨れあがり僕を包み込む。あとから思えば、「想像するからその通りになる」だけの話で、人生のシナリオは自分が描いてそれを自分が体験しているのだと実感として思います。 私は、はじめて彼女の頬を平手で打ち、彼女は唇を切って、血が着ていたコットンのワンピースに滴りました。その服は、4月生まれの彼女の誕生日に僕が贈ったものでした。 床に座り込んで、泣きながら彼女は幾度も血のついた服を拭っていました。 カミさんを含め、恋人を寝取られるというのは、僕の得意技らしくて同じ経験は3回くらいしています。嘘をつかれて待ちぼうけ。その間相手は他の男とよろしくやっていたりします。 三人目は、もう正真正銘人妻でおまけに女優のオーディションまで受けたくらいの美形。ここまでくるともう、売れっ鼓の花魁みたいなもので順番待ちもつきあう条件のうち。会って寝てくれるだけでありがたいとすら思えてきます。 当然こちらも二股、三股の構えでないと心が持ちません。 当時同時並行だった一人が今のカミさん。彼女は辛抱強く待ってましたね。腹をたてたりしなかったのは何故なのか不思議です。 天の配剤というか、寝取られたおかげで、僕はあまり修羅場を経ずに、「自分が傷つくことで」スムーズに女と別れてこれたのだと思います。 そのカミさんに思い切り待たされたのは、一昨年の5月。クモ膜下出血で意識を失い手術後もせん妄と、精神科医の馬鹿医者のクレージーな処方によって認知症になりかけた2か月間。黄泉の国の入り口まで行った妻の帰りを僕は待ち続けました。 あれは長かったです。時間というのは意識がその長さをきめるものだとつくづく思いました。 あまり大事にしていないからと取り上げられそうになったのかもしれません。

5mm2
質問者

お礼

こんにちは。 仙台の遅い桜は、今くらいですか。 雪を頂いた山を背景に咲く桜は、綺麗ですね。 若気の至りなんでしょうが、ふとついた言葉も、手を上げたのも良くなかったですね。 まるで、ドラマか映画の中の一シーンのようです。 彼女にしたら、「あんなことを言っておいて、叩くとは。」という気持でしょうね。 僕だったらどうしたでしょう。 3時間半は、待つしかないでしょうが、自分も悪いというのは分かってるから、彼女の言葉を待つでしょうね。 彼女も後ろめたさは有るでしょうから、こちらの様子を見てるかもしれませんね。 長い沈黙の後は、寝取られた経験のない僕には想像できません。 「寝取られた」という表現は良くないかもしれませんね。 映画「ドクトルジバゴ」の中で、ロッド・スタイガーが、愛人の17歳の娘ジュリー・クリスティーに言った言葉が凄いです。 「(私に)強姦されたと思うんじゃない。(思えば)自分を侮辱したことになる。」 「待つ女」のほうが、妻には良いのかもしれませんね。 僕の妻も、一度別れを告げたことが有るのですが、どういうわけか最後までついてきていました。 都合よく言えば、僕の良いとこも悪いとこも認めていたという事かも知れません。 今の奥さんも、クモ膜下出血で助かったというのは、奇跡ですね。 牛さんの強い願いが叶ったんですね。 うちの妻も、頭の毛もすべて生え変わって、以前と変わらぬ生活を送れるようになりました。 「もう死ぬ、死ぬ」と言ってたのが嘘のようです。 僕が「大丈夫、大丈夫」と口癖のように言ってたのも、嘘のようです。

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