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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:阪神大震災から23年)

阪神大震災から23年前、私の体験

このQ&Aのポイント
  • 私は阪神大震災の直前、成人式を欠席し、神戸の下宿先で被災しました。
  • 震度7の地震で部屋が大きく揺れ、ベッドの隙間に足が挟まって起き上がることができませんでした。
  • 避難して無事に実家に戻ったものの、被災された方や被災を免れた方の状況を心配しています。

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  • IXTYS
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回答No.30

こんにちは #25の再入場です。 ご丁寧なお礼のことば恐縮しています。  東灘区に住んでいる従妹を尋ねるのが主眼でした。 父も前年に失い、家族にも不幸が重なり、この大震災です。 近くに住む母からも行って〇〇ちゃんを励まして欲しいと。 母も実家に続く不幸がとても気掛かりだったのでした。 尋ねて行くと彼女びっくり!。 後で彼女の手紙で真相が判明。 親戚って不思議なものです。 私が前年亡くなられたお父様にそっくり。 それがヘルメットを被り、作業服を着て災害援助隊ですよ。 《お父ちゃんが天国から激励に来てくれた。》 彼女にはそう思えたのでした。 震災後、一週間傷の手当てに学校に一度出かけたきり、どこも見ていないと言うので一緒に被災地を自転車で見て回りました。 大鳥井のところから国道二号線に出て、灘区との境まで。  ボランティアって何の力もありません。 でも不思議なことに被災者の心のスィッチを押す『神の手』をさせて貰えるのです。 彼女のやる気に火がついたのでしょう。 彼女はその後、都市計画委員会の住民代表に立候補。 広く都市計画立案に参加しました。  何と今は芦屋に引っ越して『芦屋夫人』になっているのです。 『私は本当に焼け太りだったわ』と笑って言いました。  全ての被災者にはやる気と言うスィッチがありますが、他の人の助けがないと『オフ』になったままなのです。 誰が一緒になってスィッチを『オン』にしてくれないと立ち上がれない。 被災者ってみんなそうなのです。 だからボランティアが必要なのです。  その後、親戚に火災や事故がるとすぐに駆け付けます。 ずっと習慣にして来ました。 『鞍馬天狗』は実在しているのですよ。 この日本にもたくさん。  

michiyo19750208
質問者

お礼

IXTYS御大回答ありがとうございます 私にはとてもじゃないですが真似出来ません 態々神戸まで駆けつけて下さる、恩に感謝です どなたかの御礼に書いたんですが、私は中心部の三宮で被災しました 下級生のKちゃんと同郷で、「高速船が再開したから帰ろ!!」となって、徒歩でメリケン波止場に向かいましたが、最終便が出たあとでした そこで通り道にあった学校へ行くと私の担任がおりましてね、「あんたら大丈夫やったんか!!」って 電気は使えましたが、水が出ない そこにまた某山口組が物資をわんさか持ってきてくれましてね、「ここは食べ物もあるし、暖も取れるからエエよ」って言ったんですけど、「エエから取っときなよ」って 山口組には足向けて寝られないんです(笑) 溢れる男気に感心したのを覚えています 平成の鞍馬天狗ってとこかな?(←合ってるよね?)

その他の回答 (29)

noname#231734
noname#231734
回答No.9

こんにちは。 朝布団の中で小さい揺れを感じて でもそのままいつも起きる時間まで 寝ていました。 その日は仕事に行ったと思います。 (あまりよく覚えていません) それから2・3日経ってから テレビで被災地の様子を 甥っこたちとテレビで観ていて 私が思わず涙したのを、 まだほんの小さな子供だった甥っこが 「なんで泣いてるの?」と不思議そうに聞いたのを 覚えてます。

michiyo19750208
質問者

お礼

豆さん回答ありがとうございます >「なんで泣いてるの?」と不思議そうに聞いた まだ甥っ子ちゃんには早かったのかなぁ 今ならあの悲惨な状況は把握出来るでしょうね

noname#230414
noname#230414
回答No.8

東灘に出張中の会社の寮で被災しました。 寮が潰れて命からがら助かりましたが、自分の怪我もかえりみず潰れた寮の 人たちの救助に当たりましたが多くの方が亡くなりました。 会社と連絡も取れずに2週間病院(肋骨骨折)で過ごしました。

michiyo19750208
質問者

お礼

回答ありがとうございます >自分の怪我もかえりみず潰れた寮の人たちの救助に当たりましたが多くの方が亡くなりました。 そうでしたか、私の周りは幸いにも死者は出ませんでした 不幸中の幸いです さぞやお辛かっただろうとお察し致します

noname#233747
noname#233747
回答No.7

気付かずに寝ていました あの時は、金沢でも震度3か4くらいは有ったと思いますが 気付かず寝ていて朝起きて来て、母親が開口一番 「お前大丈夫だった?」・・・と 何の事か判らず、テレビを付けたらその時初めて西日本で大変な事が起きている事を知りました 私は被災していないのですが、加古川に嫁いだ私の姉が被災し 住んでいたマンションの壁がひび割れた為、一時機、義兄の実家に 避難していたと思います あの時思ったのが、日本の縦割り行政の融通の利かなさですね 地震が有った際、自衛隊員はすぐさま出動の準備にとりかかり 何時でも出られる体制に有ったにも関わらず、上からの命令が無い為に 何時まで経っても出動出来ずにいたと後に聞きました 正直、有事の際には、独自に動ける権限が有っても良い気がしますが そうすると別の事で不味い事が起きる可能性も否めませんので 難しい所ですね

michiyo19750208
質問者

お礼

回答ありがとうございます >加古川に嫁いだ私の姉が被災し そうでしたか、明石までは酷かったんですが、加古川でも被災されたんですね 避難出来る場所があって良かったです >あの時思ったのが、日本の縦割り行政の融通の利かなさですね それもありましたね 震災からしばらくして食糧庁のカンパンの配給が始まりました 山口組より遅かったです

noname#244657
noname#244657
回答No.6

michiyoさん、こんにちは 5時46分のことでしたか、夜泣きのひどかった娘をようやく寝付かせて30分後のことでした。一番ぐっすりと眠っていたときです。 「MJ!地震だ!起きろ!地震だ!」主人のその声に目覚めると洋服箪笥が今にも倒れそうに揺れていました。 揺れが収まってからテレビのある4畳半にゆき、テレビをつけましたら神戸の惨状が映し出されています。まるでハルマゲドンのよう。。 そこへ母から電話が入りました。「大丈夫か?!」「こっちは全員無事!」短いやり取りをして母は兄と姉の無事を確認してすぐ、電話は繋がらなくなったと話しています。 主人は会社の様子をみてくると出掛け、余震の続くなか私はとても不安でしたけれど、しっかりしなくっちゃ、しっかりしなくっちゃと自分を励ましながらも震えていました。

michiyo19750208
質問者

お礼

MJさん回答ありがとうございます 娘ちゃんは今23歳ぐらい? 当然覚えてないですよね そんな小さい赤ちゃんを抱えての中、余震もたくさんありました さぞや怖かっただろうとお察し致します しかし「母は強し」ですね

noname#232424
noname#232424
回答No.5

いまさらとは思いますが,被災された方々にお見舞い申し上げます。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。 当時は東京在住で朝のニュースで知りましたが,大変なことになったと思いました。六甲断層系という日本(陸上)でいちばんやばい変動域の一つなので,いつかやるだろうとは考えていましたが,自分の存命中に動くとは。 いくらか情報が集まる正午のNHKニュースから,ビデオテープ(1本6時間)を取り替えながら連続録画しました。最初は死者・行方不明者がたしか500人くらいと報道していましたが,マグニチュード,震度(都市直下型),ニュース映像の被災状況から判断して,1桁上がるだろうと思えました。改めて,とんでもないことになったと思いました。 このニュース映像は,のちに2時間に編集して,いまはDVDに焼いてあります。その保存版からさらに教材用が再編集されています。いまの大学生は震災後生まれなので,もはや「歴史上の事件」でしょう。こんなふうに「風化」はしてませんよ。

michiyo19750208
質問者

お礼

回答ありがとうございます お久しぶりですね >いまの大学生は震災後生まれなので,もはや「歴史上の事件」でしょう。 この質問もどれだけの大学生や高校生が閲覧しているか分かりませんが、風化させるのが1番悪いことだと思っています

  • KoalaGold
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回答No.4

東京で子供の通う保育園で父母会長してました。早速被災地にオムツや着替えが必要だろうと子供用の服をと集めて送りました。郵便局が被災地支援は無料で送ってくれました。 神戸に乳児のいる友人がいたのでこちらも宅配でオムツを送ってみたら届いたというので驚きました。流通はがんばっているんだな、と。 マンションの5階で居間のピアノがこちらの端から反対側にすべってぶつかったと言ってました。

michiyo19750208
質問者

お礼

回答ありがとうございます >流通はがんばっているんだな、と。 あの時は通行手形が必要でした 某山口組の構成員が嘘の標章を作って、物資をたくさん届けてくれました >居間のピアノがこちらの端から反対側にすべってぶつかった 私はTVの下敷きになった時計を1番に探しました 無傷で今も活躍中です

回答No.3

遠く離れた北海道のJCで、冬休みの終わり頃でした。 家事をしながらニュースを見て、深い地割れにおびただしい瓦礫の山と、どんどん増えていく死者数にショックを受けました。 北海道南西沖地震も記憶に新しい時期でしたが、それ以上の災害と感じ、吐き気まで出てしまいました。 南西沖地震は東日本大震災と同じく津波被害が酷かったのですけど・・・

michiyo19750208
質問者

お礼

回答ありがとうございます 北海道南西沖地震もありましたね 超巨大な防波堤を作ったのに、皆が出ていって居なくなったと聞いておりますが本当ですか!?

回答No.2

父の大泣きが今でも忘れられません。 私は福岡ですが父が兵庫出身で、当時テレビの前でよく遊びに行っていたと言っていた三ノ宮駅前の変わり果てた姿を見て泣き、親兄弟に連絡取ろうと固定電話は繋がりにくく、公衆電話からならかろうじて繋がるって事を聞いて、近所の公衆電話に何回も行ったりしていました。 その3、4ヵ月後に父と実家に行き、親類全員の無事を確認し合ってました。 当初私も十代半ばで父を支えるのに必至でした。

michiyo19750208
質問者

お礼

回答ありがとうございます >公衆電話からならかろうじて繋がるって事を聞いて、近所の公衆電話に何回も行ったりしていました。 そうなんですよね 固定電話が全く使えず、私が漸くして実家に連絡がついた時の親の第一声は「なんで電話もかけられんの?」でした 不通だっちゅーに!! お父様が兵庫出身となると、あの変わり果てた姿はたまらんかったでしょうね

  • rikimatu
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回答No.1

北摂に住んでいますが、確か中学生のころで当時飼っていた犬と一緒に寝ていてすごい揺れたなっと感じていました。 親父と高校生だった兄が電車が止まって休みで、中学から電話があって出てこいと言われたのを覚えています。(電話が混線しててつながらりにくい状況でした。) うちら辺はガスが止まって風呂にも入れない、ジャーが使えなくて近所の人に電気ジャーをかりていました。

michiyo19750208
質問者

お礼

回答ありがとうございます >中学から電話があって出てこいと言われたのを覚えています。 ひぃぃぃぃーーーーー あの中を学校へ来いとは、どういう神経の持ち主なんでしょうか? 余震も続いたのに…