腫瘍化した細胞は毎日誰にでも体の中に一定の割合で発生しています。それが育つのか、それとも増えすぎる前に破壊され消え去るのか、ほとんどが後者のタイプです。
免疫が一番重要なファクターだと思われているのですが、そもそも免疫という言葉の持つ意味があらゆる異常から体を保護する、正常に戻そうとする働きを表していますので、過剰に免疫が働いても自己免疫疾患、アレルギーや過剰に正常な部分も攻撃する問題ある状態になります。
普段正常に動作している発生した腫瘍細胞を破壊したり、隔離したり、除去したりできない、しかも、残ったものが制御が効かなくなり過剰に増え続ける、ある程度の大きさにまで増殖すると、その一部がガンになります。
厳密に書くと、上皮系の悪性腫瘍をガンと呼び、非上皮系の悪性腫瘍は肉腫という言葉を使うのですが、転移したり、大きく増殖すると、似た状態になる、見た目での区別がつきにくくなるので、両者を合わせてガンという言葉で表すこともあります。
悪性という状態は初期には良性に振る舞っていた状況から移行して変化したものもある、最初から短時間で全身に広がる悪性度の高いものまでありますので、顕微鏡的な診断と他覚的、自覚的に捉えられる症状からの診断が一致しないこともありますが、気づくのが遅いか早いか、自覚していないか、発見されていないかだけです。
生まれた瞬間から、あるいは、胎内にいるときから腫瘍細胞の前段階のものは確実に一定の割合で誰にでも発生している、それが異常に増殖し、ガンとして診断されるかは運かも知れない、気づかない人も多数ですので、これを運と呼ぶのは違和感を感じます。
最近の研究、正常と判断される動物やXXXXを全身細かく顕微鏡的に精査すると、ガン細胞が発見されてしまっている、そういう報告が増えるに従って、いかに見えない存在であるガン細胞を生きている間に摘出しないでも発見できるか、そういう診断の研究が盛んになってきました。
しかし、すい臓などが特にそうなのですが、発見しても、治療して生存率を上げることが非常に困難、あるいは、治療するほど生存率を下げてしまうものもあったりするので、検査して発見したとしても、その段階でどうするのが適切かを判断するのが難解なものが多いこともわかってきています。
具体的に報告を記載するのが医学では大事でしょうが、概要だけを理解しやすい程度、誤解を生じにくい程度まで書くのが限界ですし、数年後には多少傾向が変わるかも知れない、まだまだ未知の部分が多い、手探り状態の部分が多いのがガンに対する人類の知識です。
誰にでも発生している、それが運悪くとか行ないが悪いから発生したと言うのは無責任、非科学的な発言ですし、科学的には運という言葉を使えない、使わないものですので、気持ちの上では、老化の一部の表現形態と思います。
老化したから、免疫で抑えきれなかった、生まれる前でも、部分的にはすでに分裂回数が老化といえる段階まで進んでいる部分もある、免疫も十分に機能していない、そこでのガンは免疫の正常な活動ができなかったからと、老化とは言えないかも知れませんが、論理的に学問的に追求しないのならば、運悪くガン細胞を制御し切れない状態を運悪くと表現するのは文学的にありうるかも知れません。
長く書いてしまったのですが、感染症、循環器系障害、腫瘍はいまだに死因のメインですし、この割合が多少変化するでしょうが、脳溢血で死ぬのも、インフルエンザで死ぬのも運というならば、腫瘍も運と言われても否定できない、肯定もできないものです。運という基準で医学では判断しないから、否定も肯定もしないのです。
個人的には、運というよりも、運命と思います。人間ドッグに行かなかったら発見できなかった、それが原因で亡くなる前に別の原因で死亡すれば、ガンと気づかないでしょうし、その人は寿命までガンは影響しなかった、だから寿命を全うできたということもあるものです。検査のために麻酔を使い、あるいは、診断のために生検をしてそれが原因で死亡したとすると、これは医療ミスとされるかも知れないし、それこそ運が悪いと周囲に思われることもある、極論でしょうが、知らぬが仏のこともあるものです。
外科的に摘出をする、特にガンに対しては、日本と欧米で実施率の差が大きいのも報道されているのですが、これも、現場の担当している人や研究者の感覚と違うこともある、放射線療法などが外科的治療法よりも安全で治療効果が高いとか、痛みを生じないということもある意味的外れなことだと感じます。ただ、外科的なテクニックに依存しない、機械がある程度自動で制御してどこでも誰が操作しても同じ程度の効果が予測される、そういう意味では、外科的な処置よりも安定している結果が現状ではあるのかも知れません。
病は気から、そういう言葉もありますが、落ち込むと結果も悪くなりがち、頑張れと励ますのも無責任ですし、生き方そのもの、選択の自由だと考えます。運と思うのもその人によっては有効な決断、信仰が心を救うかも知れないし、医学の限界の場合には、ホスピスが最後の砦のこともあります。家族にとってもショックでしょうし、交通事故と似ている、それが運かどうか、私には判断できません。しかし、医学的な見地とか最近の研究動向などは理解しているつもりですので、上記のことを書きました。ご了承下さい。
お礼
ありがとうございました。