個人的な見解で言えば、パクりという判断については、各人の価値観次第であって、正直、「おまえがそう思うならお前の中ではそうなんだろうよ」としか思いません
パクり云々について、各人の道徳・モラル的な批判が目立ちますが、法的に問題がないなら、問題ないと思います
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正直言えば、批判する側のほうが、よっぽど怪しいとは思いますね
たとえば、盗用・引用にしろ、それを審査する側が単なるフィーリングで判断しているわけで、そんなものを根拠にして批判することに正当性を感じません
オイラは法律上の判定をもってして判断するべき、というのは、それが著作権という概念によって厳格かつ踏襲性をもって意味を成す判断に帰結するからこそ、有意だと思います
そもそも、批判側に一定の悪意・恣意性があることは想定されますが、そういう批判する側が、佐野氏以上の問題行為を平然と行っている現実があると思います
例えば、ネット批判では、批判する側が著作権に対する配慮のある行動が出来ないのが多いわけです。違法性がある行動をしている批判者が、違法ではない行為を糾弾し、私刑まで画策している状況は、奇異としか思えません
要は、「おまえが批判できる立場なのかよ」に見えますね
学術論文などを作製する人ならば、常に留意を迫られる話ですが、どこまでが許容される引用文章表現なのかな?というのは論文の本質性ではない部分で頭を悩ませます。
判定する側に概して判定基準の適否に疑問を持ちます
(批判者は判定する側として責任意識はない、と思います。そういう責任とは向かい合うつもりもないでしょうし)
批判者の多くは、その業界についての知見が不足しているわけですが、いわゆる一般人の目線での批判を否定する必然性はないのですが、その批判の妥当性について疑問を抱いていないように思うので、怖いです
要は、独善的な価値観・価値判断に過ぎないものを確信的事実として共有化し、圧力行動に移行してしまう批判者の行動には、幼稚性を感じています
ただ、幼稚性ある独善的な判断に至るだけの前提条件はあったとは思います。
それは、いわゆる業界の重鎮がそろって「問題ない、とする見解を持ち、専門家しか分からないから一般国民が騒いでもどうしようもない」という審査意見があったことに批判者は排除観を感じてしまったように思います
これが、”法律家による著作権上の判断として問題なし”と審査されれば、批判は隆盛しなかったように思います
というか、今回の騒動で誰も利益を得ているようには思えないですし、批判した側の自己満足に過ぎないとしか思えません
正直、世界はこんな些末なことで騒いでる日本を奇異に思っているでしょう(少なくとも外国人記者は奇異に思ってます)
自分は五輪開催に否定的な立場でしたが、今回の騒動で日本国民自身による日本の恥の拡張になっているように思います。ちょっとみっともないなぁ、と
まぁ、騒動によって失われたものはもう戻ってこないわけですが、上手にソフトランディングしてほしいと思います
五輪は、公的な行事ですが、本質的には、選手のためにあるものです。その彼らの不利益を拡大して、幼稚な自己満足を拡充しようとする批判者に品位は感じられませんね
そもそも、パクり、という語彙からして品位とは無縁ですから、そして、批判する側の方がよほど日常的に著作権への配慮のない行動をしている事実を突きつけられてどう理論的な整合性をつけるだろう?という興味はあります
あと、エンブレムなんて必要なのかな?という見解については、一定の主催者側の見解はほしいですね
そんなもの必然性は、五輪憲章にないですしw
お礼
佐野氏が会見の際、パクるという言葉を使われました。 その際、この方は品位のない方という印象を受けました。 そもそも、芸術家と名乗るなら、オリンピックという聖なる祭典を汚して欲しくない ですね。 もはや、今は模倣でしか作品がつくれないのではないでしょうか。