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戦前の大学生はみなエリートだったのでしょうか。

第2次世界大戦が終わる前には、大学生はどこの大学でもみなエリートだったのでしょうか。 偏差値がそれほど高くない大学でも、大学生というだけでエリートだったのでしょうか。

みんなの回答

noname#232424
noname#232424
回答No.11

さらにNo.9の追記。 >偏差値がそれほど高くない大学でも、大学生というだけでエリートだったのでしょうか という主文に,ぼくはあまり正面から答えてませんね。 職業の世襲制がつよく,財閥に代表される同族会社もおおかった社会では,「将来は会社経営者や議員,開業医を継ぐと決まっている子」もいるわけです。帝大に行ければ御の字ですが,神様はそんなに恩恵をばらまきはしない 笑。そこで,「大卒の箔をつけるためだけの大学進学」やその水準(裏口入学歓迎)の大学もあったでしょうね(現在でも?)。これは遺産相続的エリートというべきか。 なお,地方の名家などでは,長男は家督を継いで家から離れられませんので,次男以下ですごくできがよければ帝大という事例もありました。ガクシャになるには理想的な境遇ですね。おおむかし,ぼくらの師匠格だった帝大卒にも,そんな人はいました。

noname#232424
noname#232424
回答No.10

No.9の書き落とし。 >ほかには・・・ 師範学校(いまの大学教育学部)をでて学校の先生になる道もありました。とくに女子にとっては,性差別がある社会,あるいは「義務教育をおえたら花嫁修業してお嫁さんになりたい」がふつうである社会では,先生は数少ない「自立できる優良職」だったのです。ジェンダーの観点も必要ですね。

noname#232424
noname#232424
回答No.9

すでにいいお答えがいくつもありますから,ちょいと付け足していどに。 学制もいま(小,中,高,大)とはちがいますが,産業構造や産業別就労者割合つまり日本社会がちがったのですね。簡単にいえば,魚屋の子供は魚屋を継ぐと決まっているので,読み書きそろばんができりゃいい。それ以外の勉強する時間があれば,店を手伝え。 大学進学,そのまえに旧制高校に進学する階層は,親がそれなりに裕福で家庭環境もいい。幼児期には積み木(いまならLego)を,字が読めるようになれば文学全集なども買ってもらえて,じゅうぶんに知育・勉強の機会や時間がある。文房具だって裕福な家庭ではドイツ製(日本製は粗悪だった)。英語の辞書を持っている,というだけでもすごいのですよ 笑。 ほかには,軍人になるという道もありました。かなりの数の男の子が,「将来の夢は陸軍大将」などと軍学校に進学。医学専門学校(いまの大学医学部)や工業専門学校(いまの大学工学部)に進学して,大学よりもっと特化した専門教育を受けて医療・技術系で生きる道もありました。 こういう状況下で,企業や官庁・役場では「幹部候補生」として大卒を採用する傾向が強かったので,その意味ではエリートでしょうね。いまでは当たり前の「サラリーマン(月給取り)」という職業じたいが少ないのです。ただし,官立(帝大)卒と私立(早稲田など)卒では給与じたいに差がありました。

  • f272
  • ベストアンサー率46% (8469/18132)
回答No.8

第2次世界大戦が終わる前に大学であって今もあるのは、今の名前で言えば 東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学 慶應義塾大学、早稲田大学、一橋大学 日本大学、法政大学、明治大学、中央大学、國學院大學、同志社大学 京都府立医科大学、東京慈恵会医科大学、新潟大学、岡山大学、熊本大学 専修大学、立教大学、大谷大学、龍谷大学、拓殖大学、立命館大学、関西大学 千葉大学、金沢大学、長崎大学、立正大学、駒澤大学、東京農業大学、日本医科大学 大正大学、高野山大学、大阪市立大学、東洋大学、上智大学 東京工業大学、神戸大学、筑波大学、広島大学、関西学院大学 皇學館大学、千葉工業大学、近畿大学 です。 すべてがエリートかといえばそうともいえないような気がする。今で言えば偏差値67くらいに相当するのかなあ。

  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11963)
回答No.7

こんにちは。 戦前の大卒者はエリートだったようです。 私の父親(明治44年生まれ)は旧制中学卒で中小企業のような機械メーカーに就職してますが、叔父になる父親の弟(大正3年生まれ)は早稲田大学の政経学部を卒業して鐘ヶ淵紡績(カネボウの前身)に就職して僅か数年間で経理課長に昇進してます。 今の時代では、新卒の大卒者が幾ら優秀であっても大企業に就職してから僅か数年間で経理課長に昇進することは出来ないと思いますけど、戦前の大卒者は叔父のようにエリート扱いされたようです。 結局、早稲田大学政経学部を卒業した叔父は戦後になって公認会計士の資格を取得して公認会計士事務所を開業するため鐘ヶ淵紡績を辞めてますが、辞めてなければ取締役には昇進してたと思います。 なお、戦前の旧制師範学校が戦後に大学になってる学校が多いですが、私の母親(大正9年生まれ)の姉になる伯母(大正3年生まれ)は旧制師範学校卒業ですけど、女性ということで戦前であってもエリート扱いされなかったようです。

  • kia1and2
  • ベストアンサー率20% (482/2321)
回答No.6

私の御しゅうと様、人口8000人弱の村長さんの息子でしたが、高専出。息子6人で大学を出た学士様は一人だけ。県会議員を長年やっていたエリートです。1万人くらいの村で大学出るのは一人か二人なので、エリートなど通り越して、将来を確実に約束された人。 高校卒にしたって、今の大学卒など足元に及ばないエリートです。

回答No.5

えっと、今の高校に相当する学校の卒生は、エリートだったんですよ。 大学はエリート以前にお大尽の子息が行くとこでした。よほど才能があってパトロンが付いた人しか庶民は行けませんでした。そういうのもエリートと言うのなら、エリートなのでしょう。

  • Tare_Toro
  • ベストアンサー率52% (27/51)
回答No.4

日本の、旧制度を前提に。 戦前は、大学への進学率が3~4%でした。 大学には、帝国大学と一般大学の2種類がありました。 (それぞれ入学ルートが異なり、中学⇒高校⇒帝国大学、もしくは中学⇒大学予科⇒大学本科でした。) 当時、偏差値という概念はありませんでしたが、もしあったとしても、偏差値の高くない大学は存在しなかったと思います。 もちろん、筆記試験の成績が優秀であることは当然としても、筆記試験だけでは測れない分野の能力も試されます( そのため1次・2次・3次…と何度も試験を課されたり )し、当時のことですから、帝大などでは親や親類の身元調査も大切な項目でした。 なので大学を卒業すると、世間では学士様と呼ばれ、帝大であればキャリア官僚か学者、一般大学であれば大財閥の中枢に、といった特権的分野に進むことが出来ました。 なお、因みに「大学は出たけれど」という流行語は、昭和2年の世界恐慌時に生まれました。当時の東京帝国大学の卒業生の就職内定率が20%だったとのこと。東京帝国大学は今の東大に入るより数倍も難しく、かつ優秀であったそうですが、それでも5人に1人しか就職できなかったほど、深刻な不景気だったそうです。

noname#211894
noname#211894
回答No.3

帝国大学(東京大学) 京都帝国大学(京都大学) 東北帝国大学(東北大学) 九州帝国大学(九州大学) 北海道帝国大学(北海道大学) 大阪帝国大学(大阪大学) 名古屋帝国大学(名古屋大学) これらの大学が大戦の頃の大学です。 Fランなんて無いですし、大学に行けるのはほんの一握りです。 これらの大学って偏差値が低いんですか??

回答No.2

Q、大学生というだけでエリートだったのでしょうか? A、No!  戦前の大学進学率は1%弱。旧制高校や専門学校を加えても10%台前半。ですから、「大学生=エリート」という見方は世間一般のそれだったと思いますよ。でも、それと皆が皆エリートだったかどうかは別です。やっぱし、落ちこぼれもいたし挫折者もいたと考えるのが妥当です。

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