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青江三奈は伊勢佐木町ブルースで人気が確立したのか

青江三奈は『恍惚のブルース』で1966年の紅白歌合戦に出ていますが、 その後、鳴かず飛ばずで、1968年の『伊勢佐木町ブルース』でやっと人気が確立したのでしょうか。 『伊勢佐木町ブルース』が無かったら消えてしまった歌手だったのでしょうか。 ウィキペディアの『青江三奈』の項目を見てもよく分からないので、事情を知っている方は教えて下さい。

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回答No.2

青江三奈が1966年の春に歌手デビューしたとき、私は大学の2年でしたし、邦楽でヒットしたシングルレコードをいろいろと集めていましたので、よく覚えています。 確か、作詞の川内康範氏が週刊誌に連載していた小説『恍惚』の主人公だった女性の名前が青江三奈で、それをそのまま芸名に採用して、歌手デビューしたものです。 当時同時期に『女のためいき』でデビューした森進一とともに、ビクターレコードでは「ためいき路線」として力を入れていました。 『恍惚のブルース』と『女のためいき』は両方とも、独特な歌声が印象的で、ヒットしたのです。大ヒットとまではいきませんでしたが、ベスト10に入るか入らないか程度には売れたのです。 ですから青江三奈の方は、紅白にも選ばれました。 翌67年にも何枚かのレコードを出しましたが、やはりデビュー曲のインパクトが強かったのか、それほどの話題にはなりませんでしたが、決して鳴かず飛ばずという訳ではありません。 まだ新人ですし、普通の売り上げでしょうね。よくあるパターンだと思います。 私は、この森進一と青江三奈のデビュー曲A・B両面をカップリングした4曲入りレコードを買っており、その他多くのレコード・コレクションとともに現在も所持しています。 オリコンチャートが発足したのは、1968年1月4日付からですので、どの程度売れたのかは正確なところは分かりません。 当時のレコード業界では、下駄をはかせた公称枚数しか発表していませんでした。会社によっても下駄の程度に差がありますし、どれを信用していいのか分からない時代です。 大ヒットすると、すぐに100万枚とか言っていましたが、怪しいものです。 で、『伊勢佐木町ブルース』は、オリコンチャートが出来てからの発売でしたので、販売実数が分かります。 100位以内のチャートに、58週ランクインし、56万枚の売り上げです。 ところが、私もウィキペディアの「青江三奈」のところをみたのですが、オリコンで56万枚となっているのに、『伊勢佐木町ブルース』の販売枚数を100万枚と、従来の下駄をはかせた数字になっているではありませんか。 また、76万枚の『長崎ブルース』が120万枚に、104万枚の『池袋の夜』が150万枚となっているのです。 そのほか、ディスコグラフィーのところで、各レコードの発売日を確かめてみると、これにも間違った日付が多数見つかりました。 私は元々ウィキに書かれてある情報を信用していないのですが、特にこの「青江三奈」の項は、まだ正式なものではなく、「書きかけの項目です」となっていましたので、ご注意下さい。 そこで本論に戻りますが、『伊勢佐木町ブルース』のヒットが、安定的なヒット歌手に彼女を押し上げたことは事実ですが、その後のヒット曲も多いことを考え合わせると、これがなければ消えてしまったとまでは言えないでしょう。 世に言う「一発屋」ではなかったのです。

  • tpg0
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回答No.1

こんにちは。 1966年(昭和41年)に青江三奈さんがNHKの紅白歌合戦に恍惚のブルースで出場したことは、高校1年生だった当時の私でも記憶に残ってないほど青江三奈さんの印象は薄いです。 この年は、確かビートルズが初来日して日本武道館で公演があった年と記憶してますが、ビートルズの影響を受けた若者はグループサウンズと言われる4人から5人組のグループを結成して雨後のタケノコみたいにグループサウンズが出て来た頃ですから、青江三奈さんが唄った恍惚のブルースは若者だった私には全く印象的でなかっただけかも知れないですが、1968年の伊勢佐木町ブルースは艶かしい溜め息が印象的なヒット曲で青江三奈さんの名前も印象に残りましたし、テレビやラジオの歌謡番組でも伊勢佐木町ブルースを唄う青江三奈さんを視聴する機会が多くなりました。 その後、長崎ブルースや池袋の夜といったヒット曲にも恵まれた青江三奈さんでしたが、青江三奈さんを全国的に有名にしたヒット曲は紛れもなく伊勢佐木町ブルースだったと思います。

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