信じているとは 心が閉じられていないことである。
《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと理解していますが これは どういうことか?
できるだけ経験的なことがらによって表現された説明を持ちたい。
次のように考えますが どうでしょうかという問いです。
非思考である・すなわちじつは――じつに――思いや考えなど意志によるハカラヒはないのですが しかもあたかも《志向性》にたとえられるかも知れません。
どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが こころの志向性のようなものだ。
心の伸び? 心の明け?
けれども伸びと言っても 心がじっさいに伸びるものではない。明けと言っても 心に何か窓のようなものがあってその窓を開くというわけでもない。なぜなら 窓の内と外といった捉え方そのものが たぶん――ヒラメキ問題については――そぐわない。内外に関係なく直感および直観がおとづれるのであるゆえ。
そうだとすると たぶん 非思考の庭が成るという信仰〔とその動態〕というのは ひとことで言って 《心が閉じられていないこと》だ。こういうことではないか?
たぶんこの《信じる》にあっては その対象は ひとつであるはずだ。
全体としてのひとつであるはずだ。
どんな名前を持って来ようと それは《かみ》である。《無い神》を持って来ようと 同じくである。
人間にとって《信じている》とは 神が 無い神をも含めて 無差別である。対象は よって 非対象である。無神論なる信仰をもふくめて 人はその神の名を自由にえらべばよい。
これが 信教・良心の自由の中身である。
お礼
なるほど。