過激派が許せないのは当然ですが、言論の自由まで奪うことは、日本国憲法のもとに反する行為を自ら行うことになります。
京都大学は、笑える大学ではないのです。興味深い研究や言動をとる人が多いからこそ、多様な人物を許容し、尊重できる学術機関として存続させてもらえている最高学府(教員・研究者を生み出す教育の最高段階機関)なだけです。
先の事件は、学生運動以来の系譜があるのはたしかです。しかし、あのときに警察が学長の許可なしに学内に入ることを許容しては、戦前の学徒動員された先輩方に見せる顔がないのです。(教員も学生も)
教養学部にあたる人間総合学部も、講義のはじまりに入り込んで学生と議論をしよう、と教員を追い返して、別に受講している生徒も、「はいはい、議論したいならとりあえずどうぞ」とヘルメットかぶってマスクしてる彼らの意見を聞くだけは聞くのです。そして、説得するわけではなく、現実的にはどうよ?という感じの会話として、でも話は本質に向かって進む、というものだったのです。
今は、折田先生の銅像は本物はどこかに所蔵され、デコレーション用の場所ができるのみになり、中核派と革マル派の闘いや、顔がパンパンになった同志の写真とともに警察に抗議しようというトイレの張り紙、身内での粛清(内ゲバ)とかの血痕があった校舎も建て替えられてきれいになったものです。
そういう歴史を踏まえた上で、彼らの意志も合法的な範囲では許容し、非合法なものは処罰させる、という「大学の自治」ができる学生ならば、今の生ぬるい京都大学なんて屁でもありません。
あの行為がどのように合法であったのか、どうして自治として守られるべきだったのか、あれ以外の方法で止めるとどういう場合に非合法になってしまうのか、というのがわからない人間は、京都大学には来ないほうがよいでしょう。その程度の考察力では、教員や同窓生の思考についていくことはできません。
そのうえで、大多数の学生は、いたって普通な大学生として一般生活を過ごしていますし、宗教や政治活動への勧誘をうまくかわして、自分が学びたいことを学ぶ純粋な目を持っています。
その共存が可能だとわかるまでは、京都大学に来なくても、どっか他の大学で単位だけとってきてくだされば結構です。ガリ勉で入っても、何の得にもならない大学ですから、東京大学か大阪大学に行って幸せになってください。
お礼
京都大学の歴史背景に微塵の興味もありません。 活動についてはさらに興味がありません。 僕が不安だったのは、ああした活動で自分のしたい学問に支障が出るのではないか、という事でした。 うまくやっている生徒が多くいるということが聞けたことは大きな収穫だと思います。 ありがとうございました。