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死にたい気持ち

死にたいという気持ちが普通に選択肢に上がるというか、常に大体の行動の選択肢のなかにあります。 例えば、高い橋の上だと落ちるか落ちないかすごい悩みます。それは、強く死にたいと思う気持ちと死ぬのがこわい気持ちの葛藤じゃなくて、おなかそんなに空いてないけどアイス買っちゃおうかなみたいな感覚です。アイスそんな食べたい訳でもないんだけど、まあ一口は食べたいかな。あー、でも全然おなかすいてないや、どうしよ。みたいな。 先日、夜に恋人と湖へ行ったとき、手すりのない橋の上で恋人が私を突き落とすふりをする、みたいにじゃれあってたんですけど、そのまま落っこちちゃおうかな、みたいな。ヒール履いてて、足下も不安定だから自分から落ちたようには思われないかなと思って。すごい悩んで、次に押されたらそのまま落ちちゃおっと思ったらそれが通じたのか強く手を握られて落ちれませんでした。 別にそんなに死にたい訳ではないんですけど、横断歩道とか、踏切とか、死ねるポイントでめちゃ悩むのがストレスなんですけど、どうにかなりませんかね。死にたいか、生きたいか、どっちでもいいから意思がほしいです。

みんなの回答

  • e-toshi54
  • ベストアンサー率22% (728/3265)
回答No.9

他の生物と違って、人間にだけ「自殺」とい意志決定が許されています。他の生き物には与えられていない権利です。従って、何気ない時にその意思表示の可能性の確認の為に「死んでみようかな」とか「死んだらどうなるのだろう」と自殺に関して擬似的に考えるのです。 一方自殺ができるということは、自殺しなければならないほど辛いことが「人間にだけある」ということです。お幾つかわかりませんが、今後本当に死にたくなることもあるかもしれません。「死にたいごっこ」もいい加減にしておいてくだされ。

回答No.8

どうしてそのように感じるのか、考えてみたことはありますか? 私は質問者様ではないのであなたのお気持ちを実際に感じることが出来ません。 発想の転換、してみませんか。 生きても死んでも構わないと仰るのなら、生きてみるべきだと思います。 だって、人はいつか死ぬのですから。 だったら、生きている今にたっくさんの知らないことをしり、感じ、経験を深めた方がお得な気がしませんか? そして、質問者様が何かしらの原因で死ぬことになったとして、その後のことを考えてみて下さい。 信号や踏切など、事故で死んだのなら、それを片付ける人達はどれほど苦労なさるでしょうか。 湖に身を投げて死んだとして、そのあなたの身体を誰が拾い上げてくれるのか。 本来、老衰で亡くなったときに動かなくて済むはずのたくさんの人の手、お金、時間が関わってくるんです。 それだけじゃない。 質問者様の周りの方のお気持ちはどうでしょう。 もしかしたらあなたは「きっと誰もどうも思わない」とお思いかも知れない。 けれど、そんなことはないんです。 きれい事を言うつもりはないけれど、あなたが命を失うことによって何かしら「負の感情」が起こるんです。 哀しい、さみしい、面倒くさい、迷惑だ、会いたい、どうして、自分の所為なのか。 どんな感情がどの人にかなんて分かりませんが、これは人として当たり前の感情だと思います。 そう考えると、今死ぬことを考えるのは、あまり賢明には思いませんよ。 長々と失礼しました。 質問者様が幸せになれますように。

  • sm1104
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.7

死ぬこと考えずに生きてください

回答No.6

きっと、貴女が前世で 普通でない死に方をしてしまったからでしょう。 普通の死に方(病気で布団の中で亡くなるとか老衰死とか)でなく、 高いところからの飛び降り自殺とか、殺されるとかして、命を縮めたた残像が この世に生まれ変わった貴女に残っているのでしょう。

回答No.5

人間が死に憧れを持つのは当然なことです。死は絶対的に安定しているものですからね。 生きることは不安定なことです。安定とか安泰とか安心安全という言葉は生きることの不安定さを誤魔化す言葉です。不安定であるから人間はあらゆることに挑み続けなければなりません。このことから解放されたいと願う人間が現れても不思議ではありません。 また、同時に、貴方はこの世界に一度限りの代わりのきかない貴方の生命というものを手のひらに転がしていて、それが落ちて壊れたときの周囲の反応に興味があるのでは?とも感じました。この場合、貴方自身の生命に対する「価値」について貴方の心の中には疑いがあって、その疑いを晴らす為の証明として死を求めている。のかもしれません。 大切な物は失わなければ分からないものですものね。 一歩先を越えたら、絶対に停止し続ける。それが死です。 生きることは温かく柔らかく柔軟に変わり続けること。と同時に壁を作って他者と自分を別つことです。死とはガチガチに冷たく固まること。永遠に止まり続けることです。自分を維持する活動の停止は、他者と自分を分け隔てていた壁を取り払います。肉体はグズグズに腐ってあらゆるものと溶け合って行くのです。 生きることは振り子のように揺れて常に変わり続けることですから、今、答えを出さないことも時には必要です。あの時魔が差さないで良かったと思える瞬間が貴方に訪れるかもしれませんからね。 もし魔が差して貴方が高所から落下したとして、死なずに生き残って、更に後遺障害を持って寝たきりになったとしたら、あの時魔が差したことを後悔するかもしれません。貴方は健康な肉体を労わり感謝しなければならないのではないでしょうか?

回答No.4

昔、わたしもすごく死にたいときがありました。病気だったんだろうな。人間には、二つこころがあるんだって。なるほどなって思いました。普段のわたしと深層心理のわたし。今は、わたしは、和解したから死にたいって思いません。こころに何か不安があるんだよ。

noname#191231
noname#191231
回答No.3

★バカバカしい暇人?こんな事で暇なんですね?

  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2313/7949)
回答No.2

高所恐怖症の人は、高い所から落ちるのが怖いのではなく、高いところに行くと自分で飛び降りちゃうイメージからの不安症です。 みんな普通に死を意識して生きてる。そうしないと不意に事故死しちゃうから。 死ぬしかない。という選択の余地がなくなった時が、精神の病気です。 死にたいか、生きたいか、が曖昧なときは、死ぬのが面倒くさいと損得勘定の判断ができている時。

  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2193/11072)
回答No.1

意思は自分で考え決める物です。 悩まないために、1つの目標を作ればよいです。 結婚するまで、生きているとか、 人生を楽しむために、50才まで生きているとか、 目標を過ぎて、又死にたいとか、生きたいとか考えればよいです。

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