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身代わり地蔵、神様への心境
- 戦争で亡くなった方々を神格化した神社で、身代わり地蔵的な役割を勝手に定められていることに疑問を感じる
- 守護霊や身代わり地蔵様が厄を引き受けていると言われたら申し訳ない
- どういった心で生きていくべきか悩んでいる
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質問者が選んだベストアンサー
あまりに信心深くするのも 頭痛の種なんですね 身代わり地蔵なんて 戦争で死んだ人達が 造った訳で無く 地蔵を祀った人達が勝手に神格化して・・・って言っただけなのに 「あなたは 命がある生き物を殺してはいけない」と言われたら 食べる物が何も無い・・そんな状態と同じです 神仏を信じるのなら 地蔵や仏の「人間に利用される事が喜び」と言うのを受け入れる事が大事だと思います 命の大切さを知る為に 人は命ある物を食べ それで生かされてる これと同じだと思うが・・
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- michael-m
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どこの護国神社か知りませんけど、中途半端なこじ付けでご利益信仰をするから、貴方のような優しい心を持ったヒトは逆に滅入ってしまうんでしょうね。 神道では人が死ねば神になります。その神は別に創造主でも何でもありません。いわば先祖霊です。 神道では神という言葉には宇宙の根源の神だけではなく自然霊や先祖霊も含まれます。 だから、あまり厳粛にしすぎず、ご先祖様が守ってくれるという意識で充分。 仏教と違い、家系とか血縁とか関係ありません。同じ日本人、同じ人間という考えにたっています。
お礼
ご回答有難うございます。
>ここに祀られている方々が、貴方の代わりに厄を引き受けてくださります。 ひな祭りにも同じような考え方<流し雛:平安時代に穢れや災いを紙で作った人形(ひとがた)に移し、川へ流した行事>がありますよね。 私見ですけれど、人がこの世で受ける災いは木や石や他の動物に移すことは出来ないという、等価交換みたいな考えが日本では古来からあったのでは。 子が犯した罪は親が背負い、親が犯した罪もまた子が背負い、親族もまた…というのが日本では根強いですよね。人形(ひとがた)とか、人柱という概念にも、それに通じるものを感じます。 人の命にはそれだけ重みがあるし、人のために捧げられた魂には霊力が宿るという考えが古来からあって、英霊という思想が生まれたのではないかと思います。 >戦争で亡くなって、そして神社に「英雄だから死後も自分たちを救ってくれるに違いない」だなんだと、私達が勝手に盛り上げて彼らを縛った挙句、身代わり地蔵的な役割を、生きている私達が勝手に定めて、便利な道具にしているのではと思ったからです。 >そうでなくても、守護霊や身代わり地蔵様、この方達は厄を引き受けてるとか言われたら、こんな私の為に申し訳ないと思います。 それで良いのではないですか。 悲劇を美談で済まさずに、「こんな私の為に申し訳ない」と心から思う。 「人の痛みを知ること、それにどう応えたら良いのだろうと思いを巡らせること、それが感謝のはじまり」ではないでしょうか。 ただ受け入れて流されることに対して疑問を持ったり、英霊として祀られている短い生を送った人たちの分まで生きることの意味を噛みしめること、記憶からすっかり消してしまわずに心の片隅に留めること、それが感謝の本当の意味だと思います。 「何となく生きているようだけれど、見えない力で生かされている、そのことに気が付くことを感謝という」のではないでしょうか。 厄払いに行ったこと、英霊に感謝するように神主さんに言われたこと、英霊と呼ばれる方たちに対して申し訳なく思ったこと、戦死者を英霊と祀り上げることに対して疑問に思ったこと…全てが縁であり見えない力であり、このことで思考するのも縁で見えない力で生かされているということになりませんかね…。 疑問に思うということは一歩成長したことであり、真剣に生きている証。 「こんな私の為に申し訳ない」とご質問者が感じたのなら、それもまた感謝の気持ちがあればこそではないですか。 ご質問者が疑問を感じたこと、すまなく思ったこと、それが小さな一歩だったとしても、その想いがあれば、戦争の犠牲で亡くなった方たちの魂も浮かばれることと思います。
お礼
死後の人の運命を決めることは魂に申し訳ない。だから、あの方達には、誓いを捧げてきました。それが神社の参拝のルールであることを、貴方の回答で、少しだけまた分かった気がします。 願いを叶えろと傲慢に讃えるのではなく、亡くなった方たちへの意識表明。自分は頑張りますから、どうか、見守ってくださいということは、世界に生きる理由を、祀られている方々に知らせる、という理由があるからなのでしょう。 ありがとうございました。
お礼
なるほど、というご指摘ありがとうございます。そうですね。生けとし生きるものを犠牲にしてじゃないと生きられない。