オリンピックでの勝敗へのこだわりの意義と参加することの意義
オリンピックの創始者クーベルタンは、「参加することに意義あり」というふうな表現を使っておられます。
そのもともとの精神的意味合いとかは よく知らない者ですので、そのへんも詳しいかたがおられましたら教えて欲しいのですが、
それが、もし、多くの民族のコミュニケーションの意義を勝ち負けよりも大事にしようという意味合いのものならば、 それはすでに時代遅れとなりつつあるのではないかと私は思います。
オリンピックというアスリート達の競技スポーツの世界でなくとも もっともっと多くの人が参加できるスポーツコミュニケーションの世界ならばすでにどんどん世界中に生まれていますし、これからこそさらに増えてゆくだろうからです。
それでしたら、 人生での勝ち負けは時に複雑であり、純粋に勝ちの価値を見出すのはなかなか困難なところ、もともと純粋な技術の世界での勝ち負けの競い合いはその原点を私達に さまざまな色合いで教えてくれると思います。
実人生では 精神論を越えて負けた人へのフォロー体制もさまざまに必要な場とか時とか状況とかもあります。
競技では 負けた人は甘えられません。 そのへんの人間としてのあり方も如実に現れます。 また立ち上がり勝つためにあらたな工夫をし闘いづづけるこの魂をアスリート達は求められます。
その上で、 いつかは勝敗をも越えた人間性をも示してくれる姿をアスリートには期待もします。
そこまでの人間の闘いへの参加という意味で、参加が勝敗よりも大事だというふうにクーベルタンが語っていたのだというふうには私はあまり思えません。
あるいは、そのへんの達観が言いたかったのだとすれば、言葉足らずの印象はいなめません。
そのへんが時代遅れの考えにて 甘い考えである人達がいるならば むしろそれは「勝ちにこだわる純粋さ」にわたしを応援します。
そのへんが不純だから 精神的に甘いから、商業趣味が簡単に入り込めてしまうのではとも思えています。
ミズノいっちゃく、ミズノいっちゃく、 とうとうレーザーを0.00001秒抜かしました。 ばんざーーーい〆!!!
こういうのを嘆かわしいというのでしょう。バカらしいをこえてます(笑)。
それでも 実人生では最後は勝ち負けを越え闘いとなります。 天命とかもそういう境地とともにある世界だと思います。
純粋な技術競技での闘いの世界にも 勝敗を越えた参加の意義もそのあたりからはあらたに考えることもできるかとおもいます。
この論議は 本来哲学でこそもっと明確に表現されるべき世界かもしれません。
でも人間自体が 哲学することのできる(厳密にも細かくも深くも思索することのできる)脳を持った生き物です。
いろいろな方の考えをうかがいたいところです。
特に じっさいのスポーツプレーヤーの方のご意見や実感のあたりを語っていただけるとうれしいところです。
今後のオリンピックのあり方とも関わることと思います。
「勝敗へのこだわりの意義」ということでも
「参加することのあたらしい意義」ということでも
それらを止揚した(二つの矛盾を克服した)考えでも なんでもけっこうです。
よろしくお願いいたします。
また、このへんが疑問だとか、このへんが頭にくるとかいう感想でもいいです。 オリンピックをよりよいものにする思索ならばなんでもOk。
できれば ここにも1つのOKのウェーブが生まれたらな(笑)とか思ってます。
お礼
ただみなさんの意見を聞きたかっただけで、特に深い意味はありません。 ありがとうございました。