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以上でも以下でもない人間は軟弱者なのか?
- 私はいじめや喧嘩、暴力は嫌いですが、競争社会で生き残るためには、幼少期から支配欲を持ち、暴力や支配を行う人々のような精神が必要なのでしょうか?戸塚宏氏や田母神俊雄氏のように子育てをすれば、幼少期から体罰を使い鍛え、周りに喧嘩を売り支配欲を持つことが大事なのでしょうか?私はそうでないために軟弱者と言えるのでしょうか?
- 私は幼少期から支配欲の強い同級生に恐怖を感じ、彼らがクラスや学校を支配しようとする様子を嫌いました。しかし、競争社会では彼らのような精神が生き残るためには必要なのでしょうか?戸塚宏氏や田母神俊雄氏の考え方を尊重すれば、幼少期から体罰を受けることや喧嘩を売ることが正しいのでしょうか?私はそうした行為を嫌い、軟弱者と言われるのでしょうか?
- 私はいじめや暴力、喧嘩は嫌いであり、クラスや学校を支配するような行動も嫌いです。しかし、競争社会ではそれが生き残るためには必要なのでしょうか?戸塚宏氏や田母神俊雄氏のような子育てをすれば、幼少期から体罰を受けることや周りに喧嘩を売ることが求められるのでしょうか?私はそうした行為には反対であり、軟弱者と見なされるのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
>私はいじめや喧嘩 暴力は嫌いです 軟弱さは全く感じません。むしろ、強者です。 >以上でも以下でもない関係でやっていきたいと思っておりました 軟弱さを感じる文言です。 答えになっていますでしょうか。 >競争社会で生き残るのは彼等の様な精神なんですね? 彼らばかりでは、社会が崩壊します。 支配欲では何も生産されません。 異なる価値感を持ったマトモな人々がいるから成り立っているのです。 競争は比較です。 絶対な物は比較できません。 色々な絶対(価値)があるから、世の中が廻っているのだと思います。
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- chi-chi-chi6565
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軟弱ではないですが 質問文に名前あがっている方々は そんな子育てを目指しているんですか?
お礼
http://totsuka-yacht.com/ijime.htm 戸塚宏校長の「いじめ論」です いじめには目的がある いじめも同じです。 いじめは、人類の歴史とともに、地球上のあらゆる所で数十万年間存在してきました。それは、いじめが人類の生存に関わる重要な目的を持っているからです。その目的を考えれば、いじめ問題の答えはおのずと出てきます。 いじめは、弱い子の弱点を突き、その進歩を促す大切なトレーニングなのです。 いじめられると、怒り、悲しみ、不安、といった不快感が生じますが、その不快感が子どもを行動にかりたて、いじめられっ子を進歩させます。そして、ある程度進歩が認めれるようになると、もうそのことでは、いじめられなくなります。その結果、いじめられた側は、いじめた側よりもずっと大きな利益を得るわけです。いじめられるのは、「嫌なこと」ではあっても「ありがたいこと」なのです。 弱点を克服させるのがいじめの目的ですから、「いじめをなくせ」というのはとんでもない話です。「子どもの弱点なんて、後の人生で克服すればいいじゃないか」などと思ってはいけません。本能というものは、実にうまく、また冷酷にできていて、チャンスを逃すと一生取り返しがつかないからです。子供時代というのは、一人前の大人になるためのトレーニングをしている時期であり、この時期に人間性の基礎ができあがってしまうのです。 我々の経験からすると、男の子は3歳ぐらいから「男」になりはじめるようです。いつそれが終わるのかはよく分かりませんが、たぶん小学生いっぱいぐらいまででしょう。今、巷にあふれているナサケナイ男どもは、この大切な時期に男になりそこねた者たちであり、もう手遅れです。 いじめは進歩のきっかけ 私たちも子どもの頃、下の子をいじめたものです。それが子どもの本能だからです。(子どもが本能通りに行動する時、その子は「君子」であると「中庸」ではいっています)。それに対し、親や先生に弱い者をいじめるなといわれ、いい子をしているのは「郷原」(徳の賊)なのです。なぜなら、いじめっ子は、いじめられっ子が自分の弱点を克服して進歩したと認めた途端、急にいじめることができなくなるようにできているからです。いじめられっ子は、いじめっ子の態度から「学びて、時にこれを習う」を実践したことになるのです。 このように教育もしつけも、「今」を考えると戦術を誤ってしまいます。 子どもが泣こうが騒ごうが、それに左右されることのない確固たる戦略に基 づいて事を進めねばなりません。いじめを悪いものと否定するのは、とんでもない間違いです。
そもそも、いじめをするような卑怯なやつは根性がいやらしいから好きになれません。 もともと心底エロい人間なので人をいじめて自分の欲求不満をぶつけて楽しんでいる変質者だと思います。 いじめて自分の溜まっている性欲を処理しているんのだと思いました。 いじめる人間は我欲が普通の人よりも強いから自己満足を欲する為に自分自身を慰めて生きているだけです。 周りを、いじめている人間は嫌われ者なので誰からも愛情を受けられず見捨てられていて自暴自棄になっていて本当に心から愛してくれる人も、そのうち遠くに離れて行き、完全に一人ぼっちの天涯孤独になり、常に罪悪感を抱きながら反省させられ、自分のしてきた罪深さを認識するような結末になると思います。
お礼
ありがとうございます やはりいじめをする人間は愛情不足 見下す相手を作らないといけないと云うことなんですね ありがとうございます
- カルマ(@mimicry-budda)
- ベストアンサー率18% (280/1490)
お早う御座います。 >私はいじめや暴力 喧嘩は嫌いです だからその時点で越えられない軟弱者なんですね? ↑ 一貫して「いじめ」、「暴力」、「喧嘩」を嫌うダケでは、「軟弱モノ」とは言わないような気がします。 一種の『頑固者』かと・・・。 「嫌いだ」という態度が「見え見え」ならば、却って「いじめの標的」にされてしまう危険性も高くなります。 よく言われますよね?。 「危険」から身を守る方法は、『闘争』か『逃走』だと。 つまり、サッサと逃げるか、勇気を持って戦うか、です。 大半は、戦う腕力が無い場合が多いから「逃げるしか無い」と思います。 でも、私は、「和合」って方法を自然と知りましたよ。 小学生の頃、近所に「ジャイアン」みたいな「ガキ大将」がいて、よく「いじめ」を受けてたんです。 私が何もしないのに、面白半分で殴りかかって来る、トンでも無い「ガキ大将」でした。 自分は、体も小さかったし、腕力じゃ太刀打ち出来ないので「泣いて」勘弁して貰ってました。 要するに、向こうは、「弱い者いじめて泣かす」のが楽しんですね。 腹が立ちましたけど、その「ガキ大将」の子分の一人が私に、こっそり教えてくれました。 「【お前が嫌いだ】って眼で見るから、眼の敵にされるんだぞ。 ヘイコラ言って【子分】になった方がいいのに・・・。 あいつ、割りと【頼りがい】があるんだぜ」 ↑ この言葉に「ああ、なるほど」と思いました。 私は、少ない小遣いで買った「お菓子」を、その「ガキ大将」にプレゼントしたり、漫画本を貸したりして、それこそ「ヘイコラ」と「ゴマをする」ようになりました。 すると、アッと言う間に「ガキ大将」の態度は変わりましたね。 「お前をイジメる奴がいたら、俺に言って来い。 叩きのめしてやるから」 ↑ 自分をイジメていた「ガキ大将」が、頼もしい「用心棒」へと変貌した訳です。 まあ、「子供の世界」では有りますけど、大人でも似たようなモノじゃないですか?。 >私はいじめや喧嘩 暴力は嫌いです ↑ 別に、この考え自体は、何も悪くないと思います。 しかし、実際に「いじめ」や「喧嘩」や「暴力」に遭遇した場合、嫌っているダケでは何も解決しないと思いますよ。
お礼
貴氏のご回答 媚びるのではなく共存していくことも大変頷ける話です
- yaasan
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人間は動物と同じ本能を持ちます。それが弱肉強食です。 社会はそのシステムの中に構築されています。 しかしながら、人間には理性が備わっており弱者を救済しながら、(建前上)平等に生活しています。 強者の理論に乗り強者を目指すのも一つの生き方と思います。 また人間らしく助け合い、支え合うのも一つの生き方と思います。 子供にどちらを教えるのが正解かは育った子供の生き様でしか解りません。 ただ間違いないのはどちらにしても強者(この場合は自立して自分の満足する生き方ができる人)は目指さないといけません。 子供が自立した上で人を蹴落として生きていくように教えるのか、人を助けて生きていくように教えるのか、あなたにかかっています。 軟弱かどうかは自立したかどうかであると思いますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます 自立していくことがどんな方法であれ大切なんですね
お礼
成る程それぞれ違った考えがあり、それが比較されるのが競争なんですね ありがとうございます