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ミャンマー

ミャンマーは今民主主義を訴えていますが、ミャンマーは共産主義?社会主義?一体何主義なんでしょうか?

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回答No.2

共和制を謳っていますが、軍の権限と発言力や議会での勢力から、国際的には軍事政権・軍国主義の国家とみられている。 しかし、経済発展と民主化要望の高まり、国際社会からの経済制裁や自由化要請・人権重視の働きかけもあり、アウンサンスーチーさんの自宅軟禁からの開放や政治活動の承認等の自由化&民主化に変化移行中。 関連記事からの抜粋「政治体制」 軍事政権時代 1958年10月27日、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣(英語版)(1958年-1960年)が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、4月4日に連立内閣を組閣した。1960年12月、ベトナム戦争(1960年-1975年)が勃発。1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデター(英語版)を起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して大統領(1962年3月2日–1981年11月9日)となり、ビルマ式社会主義を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ瀬戸際外交を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党(CPB)の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。1966年から始まった文化大革命の影響がビルマに及び、1968年9月24日にビルマ共産党(CPB)は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。 1973年8月、ロー・シンハンが、シャン州軍(英語版)(SSA)に協力した容疑でタイに拘束された。[8]この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任。1976年に毛沢東が死去すると、支援が減らされたビルマ共産党(CPB)は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。1980年、ロー・シンハンは恩赦で釈放された。1981年にネ・ウィンが大統領職を辞した後も1988年までは軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。 1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、同将軍は7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持をはかった。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党(CPB)内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年にワ州連合軍(英語版)が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。 1989年6月4日、中国で天安門事件が勃発。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1989年12月、マルタ会談。1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。1991年12月25日、ソ連崩壊。 1992年4月23日にタン・シュエが首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が大ココ島(英語版)を賃借し、中国はレーダー基地と軍港を建設した。この中国の海洋戦略は真珠の首飾り作戦と呼ばれている。1997年11月、国家法秩序回復評議会(英: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が国家平和発展評議会(英: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。2002年12月、ネ・ウィンが死去。 2003年8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後にen:Roadmap to democracyを発表し、保守派と対立。2004年10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。 後任の首相には、保守派のソー・ウィンが就任。同年、中国・ビルマ・パイプライン(英語版)の協議が中国との間で開始され、翌2005年に中国石油天然気(PetroChina)との間で契約が成立し、中国のミャンマー進出が加速した。この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下でホテル経営を行なっていたロー・シンハン(英語版)(羅星漢)率いるアジア・ワールド(英語版)社が独占的な契約を結んでいった。2005年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。2007年9月27日、APF通信社の長井健司が反政府デモの取材中に射殺された。 選挙と民主化 2007年10月12日にソー・ウィン首相が死去したことに伴い、軍出身のテイン・セインが2007年10月首相に就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始される。2008年新憲法案についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになる。2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し甚大な被害をもたらした。2010年10月国旗の新しいデザインを発表[9]。11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また同月政府はアウンサンスーチーは軟禁期限を迎えると発表し、その後軟禁が解除された。 2011年3月テイン・セインはミャンマー大統領に就任。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。11月アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録されている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC

その他の回答 (1)

  • atcoffee
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回答No.1

元社会主義ですがその後軍事政権が支配していました。 共産主義、社会主義、民主主義や平和主義では無いのは確かです。 あえて言うなら軍国主義です。

1865237
質問者

お礼

ありがとうございます