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マスターベーションの習慣をやめるには?

以下の方法について、皆さんからのご意見を求めています。 【マスターベーションの習慣をやめるには?】 ここでは、聖書・キリスト教的な観点から、マスターベーションという習慣をどうしたらやめることができるのかについて考察します。 要点は、「心、頭、体」です。 ※神を信じていない人でも「体:その要求を制御する」は役立つでしょう。 <心:満たされていなければならない> そもそも、なぜそのような習慣に陥ってしまうのでしょうか? その原因は? 要するに、心に穴が開いているからです。その穴を埋めようとして何らかの満足感をもたらすものにしがみついてしまうのではないでしょうか? では、その心の穴、満たされていない空虚感をどのように埋め合わせることができますか? 結局それを満たすことができるのは神だけです。神の愛、愛情を実感していますか? 心で実感するのはただ頭で知識として知っているのとは違います。「神は愛である」ことは当然知っているでしょう。しかし、神の愛、愛情を心でじーんと実感していますか?  もし、まだでしたら、改善の余地があります。導きを求め、「あなたの愛が実感できるようにしてください」と祈り求めましょう。神は確かにそうできるように援助してくださるでしょう。そして、神の愛で心が満ちるようになるなら、もはや、マスターベーションや他の肉の満足をもたらすものにしがみつく必要はなくなるでしょう。 その点を詳しくは、「苦しい時、神に祈りが聞かれていないと思うなら・・・」 http://okwave.jp/qa/q7801900.html をご参照ください。 <頭:正確な知識によって認識を改める> ところで、あなたは、創造者である神が人間を造った際になぜ「性」をお与えになったのか、その意図を正確に理解していますか? この世は、性があたかも単なる快楽のための、肉の満足をもたらすためもの、というメッセージを発信しています。しかし、そうではありません。 「性」とは、それによって子供をもうけるための仕組みです。私たち自身もかつてその仕組みによって誕生しましたし、今後、生まれてくる子供たちもまたそうです。ゆえに、性は、自分とその先祖のルーツであり、自分の子孫という新しい生命を生み出すための大切なものです。ですから、性=快楽ではなく、性=先祖・自分・子孫をつなぐ神聖なもの、と見なすべきでしょう。 また、性は、結婚、性行為、妊娠、出産、育児・・・と密接に関連しています。昔は、兄弟も多く、親戚・近所付き合いがあったので、子供の頃から子守りをさせられたりして、そのような子育ての現場を体験してきたものです。しかし、昨今、親戚・近所付き合いが減り、祖父母とは別居の核家族化、少子化が進み、子供たちが子守りの一端を体験するどころか、見ることさえなくなってきました。ですから、改めて、最近の若者がそのような認識を培うために、結婚、性行為、妊娠、出産、育児などについて本などの資料で調べることが必要です。 具体的には、医学書、解説書、体験談などがありますよね。漫画などで書かれているものもあります。あるいは、人間だけに限らず、動物の生殖からも学べます。例えば、子牛の出産を見て感動した、とか。そのような「発見」、「感動」、「驚き」は心の中の認識を変化させます。 もちろん、神に「なぜあなたは人間に性を設けたのですか」と尋ね、導きを求めなくてはなりません。そうすれば、神があなたに答えてくださり、正しい認識に達するように導いてくださるでしょう。性の目的・意義について正確な理解を得ましょう。そうすれば、なぜ、マスターベーションをやめなければならないか、その理由がはっきり分かり、理性面で強化され、それは自分を自制するための強い原動力となるでしょう。 <体:その要求を制御する> 上で考えたように、心が満たされ、頭も認識を改めたとしても、それでも、依然として、それには関係なく、体は要求します。例えば、私たちの意志、願い、認識とは関係なく、時間が経てば、トイレに行きたくなります。これは体の物理的要求です。しかし、とはいえ、その要求をすぐに受け入れるわけにはいかない場合がほとんどです。ゆえに、しばらくトイレを我慢します。子供のころであれば、おもらししたり、おねしょをしたかもしれませんが、普通の大人であれば、そういうことはもはやありません。 当たり前のことのようですが、これは何を意味していますか? つまり、人間は体の要求を自らの意志によって制御することができるということです。そういう能力を持っているのです。ただし、かつて子供の頃、おもらししていたのと同じく、最初からできるのではなく、ある一定の訓練が必要ですが。ですから、「性的衝動」という体の物理的要求も訓練することで制御することができるようになることが分かります。 そもそも、性的衝動はどのように起きるのでしょうか。女子の場合、周期的に体の変化が生じますが、男子の場合にも周期性があります。精液がある程度の量に達するとそれを排出させようとしてそのような衝動、体の要求が生じます。もし、それでも、排出させないで我慢した場合、その精液はどうなるのでしょうか? どうやら、その精液はリンパ管を通って排出され、たんぱく質として体に還元されるようです。 しかし、いつもマスターベーションによって尿道から排出することを習慣にしている人の場合、最初、リンパ管への排出がスムーズに生じないかもしれません。体がそういうものだと覚え込んでいるからです。それで、我慢できずに、いつもの習慣に陥るのです。これが、我慢しようとしても習慣を繰り返す物理的なメカニズムです。精神的、つまり「むなしくて・・・」するのとはまた別ですが。 ではどうすればよいのか? 精液がたまるのは膀胱の下あたりにある精嚢という場所。図鑑などで詳細を調べてみてください。そこに意識を集中してください。性器に意識を集中してはなりません。むしろ、意識を少し上にずらして、膀胱の下あたりに意識を集中します。うまくいけば、精嚢からリンパ管へ排出するルートが開け、こうして精液はなくなり、衝動も収まるでしょう。最初のうちはそのように意識してしなければできませんが、そのうちに排出ルートが確保されると特に意識せずとも時期がきたら勝手にリンパ管に排出するようになるでしょう。 習慣をやめた当初は、のどの奥から突き上がるような感じがあるかもしれません。それはリンパ管を通って精液が上まで上がってきているからです。このリンパ管は肩にある鎖骨のところで静脈(戻りの血管)とつながっており、そこから血管に戻される仕組みになっています。そのために、精液が上がってきたわけです。しかし、私の経験からすると、このリンパ管と静脈のつながっている所は下半身にもあるような気がします。太ももの付け根の内側あたり、つまり上半身の鎖骨に対応する部分です。これは医学書にはなかったのですが、いつも、その場所から精液が消失しているように感じます。要するに、最初のうちは、ルート(下半身のリンパ管と血管の接点)の確保ができておらず、上まで上がってくるかもしれませんが、直に、下半身においてもルートが確保されるようになるのかと。これは正式な医学的見解ではなく、飽くまで私見です。 いずれにしても、人体についても正確な知識が必要だということです。調査してください。どのような仕組みになっており、どのような役割を持っていて機能しているのか? 驚くようなことばかりです。それらを詳しく知らずして、どうして自らの体の要求を制することができるでしょうか。 <まとめ> つまり、「心、頭、体」の面から対処するということでした。これは、マスターベーションの習慣だけでなく、聖書に反する他の習慣に対しても有効な対策です。結局のところ、これらは、完全な人間の思考、「新しい人格」に変革していく(書き換えていく)過程です。(エフェソス4:24)。このように、私たちは聖書に反する習慣を一つ一つ克服していくことによって、やがては全く罪のない「キリストと同じ丈の高さ」に達し、こうして「神の子供の栄光ある自由」を得ることになるのです。(エフェソス4:13、ローマ8:21)。神の援助があるのですから、克服は可能です。

みんなの回答

noname#215306
noname#215306
回答No.2

んー?、、せめて、一応イエス様と繋がる、半実体の 写し身のようなイエス様と接触し、、イエス様の直教が なんであるのかという事を知り?、、 いやそれでもやはり?、、体脱・テレポ、物質・非物質化などが 十分に行えるレベルでもなければ、確信・断定的に、 人にあれこれ教示・講釈出来る段階とは 到底いえないだろうと思うのですけど?・・・ 質問内容自体が既に踏み絵踏みに、私には見えますけど、 因みに?、、私が伺っている以外での、愛と赦しの本質と、 その具体的な仕組みについてご存知ですか?

  • cucumber-y
  • ベストアンサー率17% (1846/10420)
回答No.1

ハバネロ握りしめて、手を洗わなかったら止められます。

noname#259625
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。