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スポーツ関連の変な日本語
- 「子どもたちがよくやってくれました」や「自分を信じて、頑張ります」という表現について
- 子供を指す日本語表現「子どもたちがよくやってくれました」は、高校野球の監督などが使う表現であり、選手に対しては不適切と考えられる。
- スポーツの世界で使われる「自分を信じて、頑張ります」という表現は、選手が自己信頼を持ち、全力で活動することを意味しているが、普通の会社員にはあまり使われない表現と言える。
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〈1〉「子どもたちがよくやってくれました」 高校生の選手に対して「子どもたちが…」は、無いでしょう… そうかなあ、わたしはそれほど不自然な表現だと思いません。 監督さんにとっては、選手たちは自分の子供のように愛しい存在、 それはきっと、そういう立場に立って初めて分かる感覚。 これほど愛に満ちた言い方はないように思えるのです。 なぜそう思えるのか、今のわたし、数人の研修生の指導にあたっています。 最初は何も満足にできなかった彼ら、厳しく叱りもしたし、正直な気持ち を押し殺しながらこと細かに教えても来ました。 そうした上下関係、部下たちはいつしか自分を慕い、 自分にとっても部下たちはかけがえのない存在、 それは、まさに自分が育て上げてきた可愛い子供たち。 でも、こうした発言を失礼だと考えるPTAたちが居るとしたら、 気持ちは分からないわけでもないけれど、ちょっと残念に思います。 (2)「自分を信じて…」 この言葉にも違和感は感じません。 本番を最終の目的として日夜精進してきた選手たち、 血のにじむような日々の連続、そしていよいよ本番は目前に…。 しかし選手もまた人の子、たとえ最善を尽くしてきた身でありながら、 いざとなれば不安が頭をよぎり、身体が固くなりがちになる、 そんな自分を平常心に戻すには、なにか強い確信が欲しくなる、 何かを信じるか、何に頼るか、神?、仏?、監督?… いえ、信じられるものはただひとつ、自分をおいてほかにない、 それが結論、 選手たちは、日頃の修練を通じて、それを知っているのです。 信じられるのは自分だけ、 これまでレベルを高め続けてきた自分以外になにも無い、 だからこそ「自分を信じて」という言葉が使われるのです。 たかが地域の試合に臨むアマチュア選手でさえこんな風に感じます、 世界の大舞台に立つ選手なら、なおのこと、こんな風に思うのでは ないでしょうか。 「自分を信じて…」という表現はスポーツの世界だけのような…、 そうでしょうね、 会社員や営業職、彼らは彼らなりに精一杯やってはいるでしょう、 ですが、大舞台に臨むスポーツ選手ほど、はたして極限まで 自分を追い込み研鑽や努力をしているでしょうか…。 (3)「楽しんで来い…」 国の援助があろうが、多額の費用を注ぎこんだ結果であろうが、 だからなんだと言いたいのです。 日頃能力を高めてきた選手にとっては、 あとは高めた実力を遺憾なくフルに発揮できるかどうか…。 能力を最大限に発揮できる状態…とは、 リラックスした状態がベスト、 そして、「乗れている」状態は実力以上の結果に結びつく…。 となれば、最大の応援コールは「楽しんで来いよ」、このひと言、 まさに、ほかにはこれ以上の言葉はみつからない。 国の援助を受け、国民の大きな期待を一身に受けた、 そんな責任感に押しつぶされそうな重苦しい立場、 こんな彼らにかけてあげられる言葉、「楽しんで来い…」 なんて素敵なのでしょう。
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- docomof08
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(1)同感です。 子ども達、と言われると、えっ?と思います。 監督さんが先生じゃない場合は『生徒たち』とも言いにくいのでしょうか。 (2) これは変と感じません。 練習してきた事に自信を持って…、ということだと思います。 営業職で使ったらおかしいです。
お礼
ご回答有難うございます。 子どもたち、という表現は、愛情をこめた言い方でもある反面、「お前らはまだ子どもなのに、よくやった。よしよし」という風にも、とられますね。 自分を信じて、は、他人に吹聴するものではなく、あくまでも、自分が努力してきたことに自信を持って、という意味合いですね。それと、スポーツの世界ならば、許されますが、営業職が使ったら、おかしいですよね。ご賛同いただけて嬉しいです。 いろいろな方の、いろいろなご意見があって、大変参考になりました。 ご回答有難うございました。
- mota_miho
- ベストアンサー率16% (396/2453)
》 (1)「子どもたちがよくやってくれました」 → × 選手の人格を認めていないように聞こえます。 》 (2)「自分を信じて、頑張ります(頑張りました)」 → 〇 「自分はできる」と信じることは(自己暗示を与えることは)、本番のときに能力を発揮するうえで大切なことだと思います。
お礼
mota_mihoさん、ご回答有難うございます。以前にもご回答いただき、重ねて御礼申し上げます。 子どもたち、という表現が不自然に感じられないのは、私は、小学生まで、と考えていましたので、ご賛同いただけて感謝いたします。高校生になれば、ある程度、大人の思考体系も身に付くでしょうし、いくら指導者とは言え、子どもたち、と言われたら、中には、心中ムッとする選手も、いるでしょうね。 もちろん、違うご意見の方もおられますから、その方のお考えは、尊重しないといけませんが。 なるほど、自分を信じて、は自己暗示の言葉ですか。「俺はこんなに努力して、今のポジションを手に入れた。自分を信じた結果だ。どうだ凄いだろう」という意味合いでしたら、聞かされた側は反発しますが、自己暗示でしたら、目くじらたてる程でもないですね。 ご回答有難うございました。
- born1960
- ベストアンサー率27% (1223/4397)
1については高校生は子どもですよ(笑)少なくとも18歳未満は子どもです。そして親御さんもチームの監督が選手のことを子どもと表現することに異議を唱えるのは皆無だと思います。また「選手たち」と表現するよりも「子どもたち」と表現するほうがより親しみがわきます。 2についても全くおかしくないと思いますよ。「自分の実力の程度を信じて」頑張るんです。また「自分を信じて」などの言葉を発する立場にある選手(ようするにインタビューをされる立場の選手)はいわば日本一の選手なわけです。日本一になるためには並大抵の努力ではありません。
お礼
ご回答有難うございます。 確かに、自分が高校生だった頃のことを思い出すと、子どもだったな、と思いますし、数年前のことですが、高校の同窓会に出席した時、自分も含めて、みんな、おっさんになっていましたが(当たり前)、「ほんま、あの頃は、ガキやったのう」と、しみじみと喋り合ったものでした。 それと、自分を信じることができる位に、血のにじむような努力をしなければ、トップ選手の地位を掴めない訳ですし、努力してナンバーワンになる、と言っても、言うは易く行うは難し、ですね。 1万人の中の1人、の地位を手にした選手が語る言葉には、説得力がありますね。 ご回答有難うございました。
- ok-kaneto
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揚げ足をとるというか、なんでもネガティブに考える人がいるんだなと思いました。 うっかり考えたことも口にできない、世知辛い世の中です。 相手の揚げ足をとって、自分が優位にたったつもりなんですかね。
お礼
ok-kanetoさん、以前にもご回答いただきまして、有難うございます。 ご批判も、甘んじてお受けいたします。 私自身、公人でも何でもありませんし、Aさんの発言に対して、Bさんが反論する、ということも、このサイトでは、よく見かけます。 匿名で、誰でも自由に発言できる、誰にも干渉されず、検閲されることも無い。 これは本当に有難いことだと思います。 人それぞれ、考えが違うのですから、批判は批判として受け止め、私は一切、弁解はいたしません。 有難うございました。
こんにちは。 ズバリ『楽しめました』 真剣勝負をした後に、「楽しめました」は、あまりにも、相手チームに対し、失礼に当たるかと。(応援していた方々や、その他、関係者にも・・) これは、オリンピックでも同じ。 物凄い「お金」を掛けてもらって、出場させてもらっているのに、負けて「楽しめました」は、無いでしょ?と。(代表に選ばれたわけですし) スポーツなのですから、負けて流す「悔し涙」ほど、美しいものは無いです。 (勝って流す涙も美しい) 「楽しめました」「楽しんでこい」なんていうのは、娯楽(遊び)の世界だと思います。
お礼
ご回答有難うございます。 「楽しめました」ですか、そうですね。 試合前に、緊張を解くための自己暗示として、誰にも聞かれないように「楽しもう、楽しんで試合をしよう」とモゴモゴ独り言をつぶやくのは、ありかも知れませんね。 しかし、マスコミの前で喋ってしまったら、いくら自分の真意ではない、と弁解しても、その発言が独り歩きしますからね。 有難うございました。
お礼
Nannetteさん、ご回答有難うございます。 ご自身のお立場をベースとした、説得力のあるご意見、大変参考になりました。企業経営で一番大切な仕事は、人材育成ですものね。そして、人材育成ほど難しい仕事は、無いですものね。 高校野球でも、圧倒的多数の選手たちが、普通の社会人として、人生を歩むことになります。高校野球に限らず、学校の部活動の延長線上に、将来の仕事がある高校生など、それこそ何万人に1人でしょう。 大多数の生徒は、指導者の背中を見ながら、人生を学びます。生徒から「監督には本当に、礼儀作法から、社会人としての心得まで教えていただいて、感謝しています」と言われたら、指導者冥利に尽きるでしょう。 そう考えたら、子どもたちがよくやってくれました、の発言など、枝葉末節の問題ですね。 自分を信じて、という言葉遣いは、やはり、それほどおかしくないのだろうな、と思います。トップアスリートであれば、誰よりも、自分を極限まで追い込んでいるでしょう。普通の会社員ならば、常時危険作業に従事している人を除いて、怪我のリスクは、あまり考えなくても良いと思います。ところが、スポーツの世界は、ある意味、怪我との戦いです。 私が気になったのは、このような、怪我のリスク管理まで含めて、自分を信じて、という言葉で片付けて良いのか、ということです。こういう意見は、お嫌いかも知れませんが、トップアスリートであっても、神を信じるか信じないか、という議論があっても良いのではないか、と考えたからです。 私はサッカーが大好きで、スタジアムにも良く行きますし、TV観戦もします。その中で、特にブラジル人選手は、お国柄もあるのでしょうが、ゴールが決まった時も、途中出場する時も、他の選手と交代でピッチを後にする時でさえ、カトリック式に、指先で十字架を切って、口づけするポーズをする選手が多いのです。これは、ほんの数秒の動作ですが、「神に感謝します」という意味です。私は、このポーズが、とてもかっこ良く思えて、大好きです。 もちろん、トップアスリートが、自分を信じて努力する姿を見るのも、大好きです。 長文失礼いたしました。Nannetteさんのご回答を、ベストアンサーとさせていただきます。 最後に、大変申し上げにくいのですが、他の回答者様に対するご批判は、何とぞご遠慮下さい。これをやってしまうと、某巨大掲示板(犯罪の温床)と同じになってしまいますので。