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新井宏昌氏(南海・近鉄)と山本浩二氏(広島)の現役

新井宏昌氏(南海・近鉄)と山本浩二氏(広島)の現役時代をどう思われました? どちらもシュアな打撃ができる選手でしたが----。 皆様感じる点は?

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  • jyunkyuu
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回答No.2

no.1続きです。山本浩二は法政時代、3番富田、4番田淵、5番山本で「法政3羽烏」とし大活躍しましたが、当時ははっきり言って山本、富田からは1歩下の選手という感じでした。足のある中距離バッターという感じですね。田淵が長嶋の8本を大きく破る22本という本塁打記録を作り、田淵の影に隠れることが多かったですね。でも、やはりこのクリーンナップは強力でしたねえ、6大学野球が大きく注目されていたのも、この3人の法政時代が最後という気がします。月曜日だというのに3CHで中継があり、スタンドは外野まで埋まっていました。ちなみにこのときの早稲田の3番は荒川、4番は谷沢、明治の投手は星野、とそうそうたるメンバーがいましたね。 新井の法政時代は・・・・う~ん、すみません個人的に印象ありません。 首位打者とった長崎とかは覚えていますが…

aokikouji
質問者

お礼

この時代は東京六大学野球はスター選手ぞろいだったのですね。

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回答No.3

山本浩二さんは自分(広島出身)が中学校1年生の時に新人だったのですが、広島市民球場で見た第一印象はとにかく強肩の外野手でした。 当時(特にカープ)の外野手で補殺プレーはまだ少なく、センターからダイレクトに返球して刺した姿に興奮したものです。 打つ方は、田淵が甲子園のレフトスタンドへ弾道の高いHRで華々しかっただけに目立ちませんでしたが、確か新人でHR12本だったと思うのでそこそこ結果は出したと思います。 30過ぎてから飛距離が出てきたから晩成型かもしれませんし、その後HR量産も旧広島市民球場のおかげだったのは事実ですが、体を開きながらおっつけて右中間スタンドに持っていくのが彼の技術でしょう。 とにかく勝負強くてここ一番で打ってくれた印象が強いです。 引退した年の西武との日本シリーズ初戦で9回に同点HR(しかもライトスタンドぎりぎり)を打ったのが浩二らしいと思います。 新井さんはあんまりコメントできる事がありません。 ごめんなさい。

aokikouji
質問者

お礼

新井は名選手だったとは思いますが、あの時代のパリーグ所属だったことも損しているかもしれませんね。

  • jyunkyuu
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回答No.1

山本浩二は入団当初は7番くらいがぴったり、2割5分、20本がせいぜいのどこにでもいる平凡な中距離ヒッターでした。入団7年目の赤ヘル初優勝の年に初めて3割を打つとともに首位打者となって頭角を表し、以後は押しも押されぬ長距離打者になりました。入団当初の小粒な印象が強く残っているため、山本浩二が長距離打者と認識するまで個人的にずいぶん時間かかりました。wikipediaで記録を見直して見ましたが、やっぱりミスター赤ヘルですね。そういう点では、途中からイメージを変えた稀有な打者ともいえると思います。  新井は野村が去って弱くなった南海、人気のないパリーグでしたので、関東人にはよほどの野球好きしか印象はなかったおもいます。昭和54年に突如3割5分以上打った時も加藤秀司が上にいたので、関東ではほとんど話題にも上らず、「3割5分を超えているのにかわいそう」と一人憤慨していました。そして近鉄へトレード、相手の山口哲司は南海でまったく使い物にならなかったので、当たり外れの大きなトレードの典型例としてしばしば登場しますね。近鉄に移籍して首位打者とったころからやっと打撃の職人として全国的な人気を得たと思います。大石大二郎とブライアントの間で飄々とヒットを打って大石をホームに返し、ブライアントにつなげる新井は近鉄打線の本当の核でした。 ということで、どちらも入団して10年近くたってから大きく開花した選手といえると思います。

aokikouji
質問者

お礼

有難うございます。ちなみに法大時代は両者どういう打者だったんですかね?

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