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電力株主総会に関する6/28付読売社説について
電力株主総会に関する6/28付読売社説について皆さんのご意見を伺いたいです。 全国紙では、(1)「脱原発」提案が否決されたのは当然、という見方(産経・読売)か、または(2)「脱原発」提案が出た背景はもっともだとしながらも、その否決に対する評価は特にしていない(朝日・毎日)かに分かれています。 ここで、読売社説に対して疑問に思ったことを以下にまとめてみます。 (まとまってないですが…) 「着実な原発再稼働に向けて最も重要なのは、安全確保と信頼回復だ」とあるので、 読売は現在安全確保と信頼回復はできていない、と認識しているようです。 にもかかわらず、「『脱原発』提案の否決は当然だ」「大阪市の提案は無責任だ」 という切捨て型の批評をするのは矛盾していないでしょうか。 「脱原発提案を否決したことに賛成だ」(=原発維持)という読売の結論自体が 問題なのではありません。 「脱原発提案否決が当然」は、裏返すと「脱原発提案への賛同・可決(または提案そのもの)はおかしい」ということですが、そういう論調が矛盾していると思ったのです。 つまり、「安全確保と信頼回復ができていないので、脱原発の提案が出るのはおかしいことではない」とした上で、 理由を挙げて、「だが、脱原発提案を否決したのは正しい選択だった」と、そう述べるべきだったのではないでしょうか。 「電力の大消費地である大阪市が率先して『脱原発』を主張するのは」、確かに「無責任」かもしれませんし、矛盾しています。 しかし同様に、「安全確保と信頼回復」ができていないのに、「『脱原発』提案の否決は当然だ」というのも、矛盾、(または少なくとも)論理の飛躍があるのではないでしょうか。 原発存続問題に関しては、相矛盾する、しかもどれも大切な要求どうしがぶつかりあっています。 バランスを取って考えなくてはならない問題に対して、上記のような「切捨て・断罪型」の批評は、 実は論理的根拠に乏しいことを覆い隠し、読み手を思考停止に陥らせることを目的としているのではないかと感じます。 …と長くなってしまいましたが、 本日付の電力株主総会に関する社説について、 特に読売に限らず全国紙でも地方紙でもごらんになった方のご意見やご感想をうかがいたいです。 ※(念の為)特に読売だから批判したいわけではありません。 むしろ、「教育ルネサンス」など読売の特集が全国紙の中で一番好きです。
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- bougainvillea
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日本の原子力発電導入時に読売新聞が果たした役割を見たら こんな社説なんてチャンチャラおかしくて読んでられないでしょう。
- key00001
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それこそ「安全確保と信頼回復ができていないので、脱原発の提案が出るのはおかしいことではない」とした上で、「だが、脱原発提案を否決したのは正しい選択だった」と言う社説内容かと思いますが? 言い換えますと、株主・電力会社のいずれの立場も肯定した文章(社説)です。 質問者さんの矛盾は、「脱原発提案否決が当然」を、( )書き部分の「脱原発提案そのものがおかしい」とイコールの関係と仮定・意訳した場合に成立します。 しかし「電力会社の立場で、脱原発提案を否決するのは当然」と「株主の立場で、脱原発提案するのがおかしい」は、イコールとか裏返しの関係じゃないですよ。 あくまで「電力会社の立場では、株主提案がおかしい」でしか無く、( )内は、質問者さんの仮定・意訳に過ぎません。 やはり社説は、「株主の立場で、脱原発の提案は判る」「しかし電力会社の立場で、否認するのも当然」と言う文章です。 いずれの立場も基本は「肯定」です。 但し、株主の立場に対しては、「安全確保と信頼回復」の観点では肯定だが、エネルギ政策面では「無責任」なので、最終的には「電力会社の否認を正とする」と言う文章構成です。 そもそもエネルギ政策に関しては、政策ですから、国家の将来ビジョン・方針が必要です。 国家が脱原発などの方針を打ち出していない以上、国策企業である電力会社の一存で、政策転換など出来るワケもないです。 地方行政や株主が、主張や提案するのは自由ですが・・それが聞き届けられるハズもありません。 現状はむしろ国が「原発を動かせ!」と言う中、もしそんなコトが行われたら、私企業や地方による国に対する造反であり、ちょっとした「クーデター」ですよ。 違う言い方をしますと、この問題は、震災後、国が新たなエネルギ政策のビジョンを立てていないことが、全ての元凶です。 そんな中で、私企業と地方行政や、経営と株主が対立しても、どうしようも無いし、殆ど意味はありません。 そう言う目で社説を読めば、「何当たり前のコト書いてるの?」って感じで、無難で当たり障りの無い内容です。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
安全と信頼の基準が曖昧だか。立場によって変わるし。反原発側からみれは不足。たぶんどんな事をしても不足と言うだろうけど。 冷静に考えれば、震災以外での大きな事故は起きていない。それも長期間にわたって運転してきた。それにより安全神話のようなものが形成されていった。問題点が今回見つかったので対策も直ぐには難しいが行われていく。この点をみれば安全であり信頼出来ると判断したのかもしれません。 実際問題、中小企業の工場などは計画停電とか実際に起きた場合の損害も馬鹿になりません。部品の一つが作れない為に、他の製品に影響がでるかもしれません。読売は主に経済てきな考えで判断しているかな。 地方新聞では反原発の立場が多いなぁと。 読売新聞は概ね現実的な考えですね。他は感情的な部分が多いかな。 止めても動かしても正義はないけどね。
- mekuriya
- ベストアンサー率27% (1118/4052)
何も矛盾しているとは思いません。そもそも原発再稼動問題と脱原発は全く別な問題だからです。再稼動の是非は個別に判断すればよい問題です。それがどうして脱原発になるのか。論理が飛躍してはいないでしょうか。早稲田大学でスーパーフリー事件が起こった。では早稲田大生は全員鬼畜強姦魔なのか。早稲田大学OBは全員会社を首になってしまったのか。早稲田大学は即時廃止されたのか。現実はどれもNoです。世間は冷静に判断したのです。ところがどうして原発に限っては冷静に判断できないのか。私には理解できません。論理の飛躍は脱原発論の方じゃないですか。それこそが思考停止じゃないですか。
お礼
さっそくの回答ありがとうございます!
補足
大阪市が、ということではなく、一般に「脱原発」論者はご指摘どおり冷静に判断できていない部分があると思います。 事故のインパクトがそうさせたにしろ、政策や企業運営の方針の論議で冷静さを欠く愚について、mekuriyaさんの仰るとおりだと思います。 >再稼動の是非は個別に判断すればよい問題です。 問題を混同してはいけないのはごもっともですが、 再稼働反対の中には、「原発維持は賛成だが、この原発は今は再稼働ダメ」という意見の他、「原発そのものを減らしていくべきだから再稼働ダメ」という意見もありうると思います。 そうすると、再稼働の是非を問う場面で脱原発提案が出てくることもありうるという考えです。 (ただし、恥ずかしながら私自身はまだ再稼働の是非について意見を決めかねています。したがって、大阪市の発言そのものを支持するわけではありません。) ちなみに早稲田のスーパーフリー事件との比較についてですが、 「個別の事件・論点が、おおもとの問題とどの程度本質的に結びついているか」によって結論は変わってくると思います。 早稲田大学とスーパーフリーが「たまたま犯人の所属が早稲田のサークルだっただけで本質的には無関係」なのか、 「早稲田大学の大学運営が必然的にあのような事件を起こしてしまう風土を作っていた」のかによって処分される・あるいは責められる人の範囲は変わってくるでしょう。 実際のスーパーフリー事件では、(完全にではなくとも)犯人たちと早稲田大学の関係が前者だったからあの帰結なんだと思います。 原発のあり方に当てはめると、個別の人的ミスの重なりや単なる技術不足で起こったことだから、別の人たちが別の仕組みで今後気をつければ解決する問題、ということならそこで脱原発を持ち出すのはお門違いでしょう。 ただ、人によって、「何をどう変えても、あのような事故はまた起こる(あるいは事故防止に必要な変革など無理だ)」「あの事故は原発そのものが内包する問題だ」と考えているならば、あの個別的な事故を全体に敷衍して、原発全廃という意見になることも飛躍ではないと思います。 (そこを十分に論じていないなら飛躍ですが。) わかりにくくてすみませんが、スーパーフリー事件と対照させるとこんなことになるのではないかと思いました。