• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『△』は重要だと思うのですが、如何ですか?)

『△』の重要性-教育と社会における問題

このQ&Aのポイント
  • 『△』は重要だと思うのですが、如何ですか?今、学校のテストから『△』が消えようとしています。小学校や中学校のテストでは、記述式の問題が減少し、単純な答えになる問題が主流になっています。さらに、勉強しない学生が増えており、丸写しや掲示板の回答を頼りにする傾向が見受けられます。結果として、問題解決能力や考える力が欠如している人々が増える可能性があります。
  • 『△』の重要性は、教育の現場だけでなく社会全体においても問題とされています。自信が無い問題に対しては諦め、自分の興味のあることしか取り組まない、間違うことを恐れて体裁だけを取り繕うなど、考える気のない人々が増える可能性があります。また、打算的な人間が増えることで、社会全体の信頼性や持続可能な発展にも影響を与えるかもしれません。
  • このような状況下で『△』の重要性を再評価する必要があります。問題解決能力や考える力は、将来の個人の成功や社会の発展に不可欠な要素です。教育現場では、知識の定着だけでなく、思考力の育成にも力を入れる必要があります。また、社会全体でも、個人の自己成長や公共の利益のために、問題解決や考える力を重視する文化を醸成することが重要です。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cucumber-y
  • ベストアンサー率17% (1846/10420)
回答No.3

私は△は必要だと思います。 学校のテストが〇かXになって嬉しいのは先生だけでしょう。 採点するときにアレコレ考える必要なく、マニュアルと突き合わせて採点すればいいだけですから極論を言えば単純な構造の機械でもできる作業となりますから。 「この生徒はどのように考えてこの答えに辿りついたか」 こんなことを一々考える必要がなくなり、そこから軌道修正させて正解に導くこともなくなるわけです。 問題の答えが〇かXしかないなんてことは学生時代だけのことで、社会に出ればどれだけ〇に近い△を見つけ出せるかが必要となることまでは考えていないのだと思います。 社会に出れば「40km/h制限の道路は必ず40km/h以下で走るべき?」といった問題はいくらでも出会いますが、そこで〇かXでしか考えられない方が大渋滞の先頭を走っているのでしょうね。 ある記事で読んだのですが神戸の震災を経験した自衛隊員の方が、初期活動時に慎重になり過ぎ救助が遅れたことを悔いていたため先の東北の震災時には「救助活動で満点を取ろうとするな30点でいい」というスタンスで指揮を執り迅速な救助を行ない成果を上げたということがあったそうです。 この自衛隊員の発想はまさに△だと言えるでしょう。 〇かXでハッキリさせたいというのは思考することを放棄してでも楽をしたいという姿勢だと私は思います。

silversmith
質問者

お礼

回答有難うございます。 震災の記事、素敵ですね。 こういう判断は人間にしか出来ない まさに『△』な発想ですね。 昨今、あらゆるものがデジタル化され、 「0」と「1」の数列で全てが表現できる環境になっています。 「○」か「×」でしか表現しない今の社会性も それに近いものを感じています。 『△』の重要性。 cucumber-y様の回答は分かりやすく すごく身に染みました。 有難うございました。

その他の回答 (7)

  • qzec
  • ベストアンサー率41% (176/425)
回答No.8

ああなるほど △が無くなる事で何で過程を考えなくなる事になるのかとずっと思っていたが No.7さんの回答でようやく合点がいった。 △を付ける余地のない記述式の問題が減少しているのはよくない という意味の質問なら、確かによくないですよ。 記述式の問題の方がより勉強する必要があり、理解が深まる まあ私は今24歳のしがないサラリーマンなんで 20年前と今の教育がどう変わってるかなんて知らないんですけど 本当に単純な答えになる問題を中心に出す傾向が見受けられ記述式の問題が減少しているんですか? 少し前にネット上で、 「8人にペンをあげます。1人に6本ずつあげるには、ぜんぶで何本いるでしょうか」 という問題の小学2年生のテストがあり、 式:8×6=48 答:48本 と答えると×になるという記事を見ました 式:6×8=48 答:48本 計算の順番も重要で、こう答えないと○にならないそうです まあ、これは極端な例なんでしょうが、 いまどきの小学生はこんな難しい事やっているのかと思ったものです 以上、余談でした

silversmith
質問者

お礼

お礼が遅くなりました。 また、複数の回答有難うございます。 No.6の回答と一緒にココでお礼させてもらいます。 私の質問の仕方が不十分だった為に、 申し訳ございませんでした。 小学2年生のテストの話、面白いですね。 私も全ての教育の現場に精通しているわけではないので、 質問は少し極端に申しましたが、 こうした問題を出している学校もある事は承知していました。 過程を考える問題の減少と共に、 今は情報がネット上で錯乱しています。 また、こうした場で回答を得ることが簡単に出来てしまいます。 調べる努力は大切です。 しかし、その前段階で、 考察する事を放棄している人も増えていると思います。 私の考えは飛躍していますが、 『△』という考えが減少している事で、 様々な問題に対する答えが、 「○」か「×」かでしか考える事しか出来ない社会性を 生み出しているのではと思い、ここに質問しました。 しかし、 No,7様がおっしゃるように、 社会性がこういう教育を生み出しているという視点も 面白く思いました。 qzec様の3回の回答が、 こうした深い意見交換の場に導いてくれたと私は思っています。 有難うございました。

回答No.7

教育は時代ないし為政者の嗜好を反映しているものと考えられる。 高度成長期には、組織に従属しつつ問題を解決する能力を必要とされた。国家という大組織を中心として日本経済を発展させることが主目的だったからである。そのため、組織に従順でありかつ思考過程を重視する教育がなされていたものと思われる。 現在の低成長期には、組織に従順ないし大組織に服従する思想を必要とされる。個人や中小企業を切り捨ててでも国家や大企業を維持することが主目的になるからである。そのため、「考える気がない人間」の生産をよしとする教育がなされているものと思われる。小さなことや他国に対して反発したり差別したりするのも、国家や大企業の維持に資するものであり、為政者の嗜好に見合うものである。 △の復権は大切なことと思われる。しかしながら、それだけでは不十分であるとも思う。経済重視、大組織重視の思想を根底から変えない限り、残念ながらこの傾向は強まることはあっても弱まることはないように思われる。教育はそのためにこそ存在しているはずであるが、これも残念ながら期待できない。 なお、学校のテストでは「単純な答えになる問題を中心に出す傾向が見受けられ、記述式の問題が減少し」その結果△が減る傾向にある、と質問文に明記されている。これは「正解が一つしかない」問題は△をつけることができないものであり、これが増える結果△が減る、と質問者が考えていることを意味する。この点を誤解したままの回答者が見られる。

silversmith
質問者

お礼

回答有難うございます。 質問の本質を私以上に考察頂き、有難うございます。 ここで取り上げられている「社会性と教育」の問題は、 切っても切れない関係。 『△』の存在は、gorihafzosrcno様の言われる問題の 足掛かりでしかないと私も思います。 考える力を必要としない時代の流れ。 本当に怖いと思います。 様々な観点からの回答を頂け、 ここでこの問題を提起できてよかったと思います。 有難うございました。

  • qzec
  • ベストアンサー率41% (176/425)
回答No.6

どうも△否定派は私だけのようですが、食い違ってるので 他の方の回答もふまえもう一度投稿します 質問文は「学校のテストの問題で△を与えるべきか?」と読み取れましたので 「私は△を与えるべきではない」と答えました。理由はNo2の回答の通りです が、どうも質問者さんが取り上げたい論点は 学校のテストではなく、社会全体の話のようです 私の「△を与えるべきではない」という回答は学校のテストに関するものですので、 食い違いが生じていますのでもう一度回答します そもそも問題には2通りの性質があります (1)正解が一つしかないもの(例:1+1=2) (2)明確な正確があるわけではないもの。必ずしも答えが一つではないもの。後にならないと正しいか分からないもの (例:テストで△を与えるべきか) 私が△を否定するのは(1)だけです 教育の現場というか学校のテストの大部分は(1)の問題で成り立っている このような問題は、答えは○か×かの二択で、途中を間違っていては意味が無い 惜しいけど間違っていたなら×を与えた上で 惜しかったがここが間違っていたと教えるべきだろ 中途半端に△を与えたらそれで満足しかねない 完全に理解させるべきだろう 質問者さんと他の回答者さんは機械化を否定しているようですが、 機械化できるところは機械化すべきだと思いますよ。私は 曖昧さが人間味といえば聞こえはいいですが、 トラブル、食い違い、不正はそういった曖昧なところから起こるんですよ 採点は○か×かの2択で機械化してしまっていい。 でも、惜しいけど間違っていたのなら×を与えた上で どこが間違っているのか、どうすればよかったのかをちゃんと教えればいい ここはもちろん機械化してはいけない。 上でトラブル、食い違い、不正は曖昧なところから起こると書いたが、 全て機械的に判断すればいい訳でもない 効率が悪くなったり、融通が利かなくなったりしてしまう 機械化すべきところは機械化する。 柔軟に対応すべきところは柔軟に対応する ケースバイケースです そして、(2)において△を与えることを私は否定していない 社会に出たら(2)の問題の方が大部分を占めるだろうが、 これは事象によってケースバイケースとしかいいようがない はっきり白黒つけるべきもの。 妥協点を見つけるべきもの。 臨機応変に対応すべきもの 結論を出す必要は無く人それぞれでよいものなど 社会に出たらさまざまな判断が求められる。 明確な答えがない以上、△というのも必要になる場合もあるだろう このような場合に△を与えることはもちろん否定しない 確実にいえることは、 明確な答えがある問題に△を与えたところで、 社会に出てから明確な答えがない問題に活かせるわけではないということ この二つは全く別のものだ

silversmith
質問者

お礼

回答有難うございます。 お礼が遅くなり申し訳ございませんでした。 No.8に一緒にお礼させて頂きました。

回答No.5

私は△はあって欲しいです。 例えば試験で難しい問題が出て、必死に考えて合ってるかどうか分からない答えを書いた時。 ×だったら「やっぱりダメだったじゃん…私じゃ考えても無駄だったんじゃない?」 と正解を考えるのを諦めます △だったら「惜しいところまで行ったんだ!もうちょっと工夫すればうまくいったかも」 ともう一度正解にたどり着くまでやってみます。 個人的な感想ですが、負けず嫌いなので「惜しいけどダメ」と言われたら奮起します。 でも面倒くさがりでもあるので「全然ダメ」と言われたら投げ出します。 こういう人もいるから△は賛成です。

silversmith
質問者

お礼

回答有難うございます。 narnia_aslan様の個人的な感想。 私も同意見です。 『△』の必要性に賛同頂き、 こうした人間味あふれる回答を頂けた事に 嬉しく思っています。 機械相手なら、100%「○」か「×」で判断するでしょう。 「△」では不良品ですからね。 しかし、それを扱うのは人間。 間違いもあれば、失敗もする。 でも、日々成長する努力ができる人間なのだから、 一定の努力評価は必要だと私は感じています。 有難うございました。

noname#157574
noname#157574
回答No.4

△は必要でしょう。実際中学校や高等学校の入試では途中の過程も記述する問題も多いので。 もっとも私が採点官でしたら一定の採点基準の下で採点いたしますが。

silversmith
質問者

お礼

回答有難うございます。 入試における途中過程の記述は カンニング防止も兼ねているのだと思いますが、 『△』の採点はこれからも残していって欲しいものです。 有難うございました。

  • qzec
  • ベストアンサー率41% (176/425)
回答No.2

まず、私の意見を先に述べておくと 過程で惜しいミスをしていても△は与えない 答えだけ合っていても○を与えない 過程と結論(答え)の両方があっていることで初めて○を与えられる これが一番だと私は思う とりあえず質問者さんの意見には賛同できない。理論の飛躍がある △がなくなっても過程を考えなくなるわけではないし、 △を与えることで中途半端になってしまう事もあるだろう ○がもらえないということは 答えに至る過程のどこかで間違いを犯しているということ 完全に理解してなくても、それらしく答えれば点がもらえるとなれば 中途半端な理解でも点が取れてしまう △が無くなることで、完全に正解しなければ点がもらえなくなるとなれば より理解に勤めるようになるとも考えられる △の最大の欠点は、明確な採点基準があるわけではなく、 採点する側のさじかげんひとつででどうにでもなるということ ある子の惜しい回答は△が貰えたのに、別の子は貰えなかったり 勉強の出来ない子の救済処置として加点したり 明確な答えがない問題や課題の採点基準が曖昧なのは仕方がないが(美術での絵の試験など) 答えが一つな問題は採点基準をはっきりさせたほうが良いだろう 教育にしても、社会にしても △を与えるというのは中途半端になりかねない 過程と結論の両方を見た上で、 ○か×かではっきりさせたほうがいいだろうと私は思う

silversmith
質問者

お礼

回答有難うございます。 『△』の欠点。 曖昧な判断で傷つける事もある。 そういう視点もあるのですね。 >過程と結論(答え)の両方があっていることで >初めて○を与えられる。これが一番だと私は思う 理想はこうですね。 しかし、それでは機械と一緒なのではないでしょうか。 答えるのも人間であれば、それを判断するのも人間。 多少の曖昧さが、人間味だと私は思ったのです。 勉強に関して、テストに関してだけでなく、 人間の判断や思考、そういう広い意味でも 『△』という判断基準もあっていいのではと思い ここに投稿しました。 理論の飛躍は私も書きながら思っていましたが、 それはそれで、qzec様のような意見もお聞きしたく、 あえてそのままに書いてしまいました。 有難うございました。

  • localtombi
  • ベストアンサー率24% (2911/11790)
回答No.1

示唆に富む質問だと思います。 ○をあげるには及ばないけど、かといって×にするには忍びない・・・という採点する側の 「お目こぼし」的な意味があって、もらう側も“何で△だったんだ?”と疑問に思ったものです。 △がなくなったというのは、ファジーな判断や判定・評価は主観的や恣意的な部分の入り込む余地が大きいので、それを排除してより明確・明快な評価のみを採りましょうということかと思います。 昔、大学の刑法の試験で、いまだに覚えている問題があって、“いわゆる危惧犯説について述べよ”という1問だけの記述質問がありました。 全く想定外の内容だったので何も思い浮かびませんでしたが、それでも試験に備えて覚えてきた内容をとにかく書き連ねてA4用紙をびっしり埋めました。 結果はC判定(可)で、かろうじて単位を落とすことは免れましたが、教授にしてみたら△だったのかも知れません。 回答にはなっていないけど、まぁ一応勉強した内容が書いてあるのでいいか、というようなことかと思います。 そういう慈悲深い△がなくなるのは、ちょっと寂しい気もします。

silversmith
質問者

お礼

回答有難うございます。 近年、政治家や著名人に対する 言葉の揚げ足取りを、 報道やネットで盛り上がっているのを見て、 首を傾げたくなる事が多々ありました。 (全てではありませんが) そして、突き詰めた結果このような質問になりました。 そんな中、localtombi様に 分かりやすい解説と共に、体験談も添えて回答して頂き、 嬉しく思っています。 ありがとうございました。

関連するQ&A