Jagar39です。
なるほど、そういう話なのですか。描写がとても真に迫っているという評判の漫画のようですので、機会があったら読んでみたいと思います。17巻もあるようなので気軽に全巻買って・・というわけにもすきませんが。
こういう話は滅多にする機会がないので私も嬉しいです。
「気力」の話を。
登山家の名前も山も記憶が定かではないのですが、確か竹内洋岳がアンナプルナに登ったときの話だったような気がするのですが(記事が掲載されていた山岳雑誌が倉庫の奥に積まれているので、ちょっと見つからないのです・・)、頂上近くで氷壁を200~300mほどトラバース(横断)した時の話がありました。
その氷壁はアイゼンの爪も数mmしか入らないほどカチカチに堅い氷で、3,000mほどすっぱりと切れ落ちているという写真で見ただけで胃が捻れるくらいの壁なのですが、そこを彼らは3人パーティーなのですが、ザイルも使わずにトラバースするわけです。
ピッケルを2本手に持ち、蹴り込んだアイゼンの前爪と両手に持ったピッケルのピックを打ち込んで、それらを支点に登る技術(ダブルアックスと言います)があるのですが、それでそんなカチカチの氷壁をザイルも着けずに200m、トラバースしていくわけですが・・・失敗したら3,000mの墜落が待っているわけです。
これ、写真を見て「ここをノーザイルでトラバース?」と思っただけで胃が口から出てくるような気分になるところなのですが、実は純粋に技術的には決して難しくはないんです。
地上1mのところで2mほどのトラバースであれば、道具(ピッケル2本とアイゼン&登山靴)さえ与えれば、おそらく質問者さんにもできてしまいます。そのくらい技術そのものは簡単なんです。
まあ、氷に引っかけたアイゼンの前爪だけで身体を支えなければならないので筋力は必要ですが、それでも2mくらいならなんとかなってしまうでしょう。200mであっても地上1mであれば、できてしまう人はけっこうたくさんいると思います。
でも、それを地上3,000mでやるのは「無理無理っ!」ですよね。標高8,000m近くで酸素も薄いということを除外しても。
まして、山頂に無事登頂しても、同じところを帰らなきゃならないんですよ・・・
ちなみに彼らがそこをノーザイルで通過した理由は、氷が硬すぎてきちんとした支点を作れない(通常はアイスハーケンを氷に入れて支点を作ります)というのと、3人がザイルで確保して通過すれば時間がかかり、日没までに安全圏に帰ってくることができない、という理由だったように記憶しています。
要するに地上50cmに設置された平均台なら誰でも簡単に渡れるけれど、地上100mに同じ平均台を設置すれば誰にも渡れない、というのとまったく同じです。
似たようなことは私もたくさん経験しています。
沢登りだと草付きの壁でやはり支点を作れず、40mノープロテクションで登る羽目になったり(40m登った地点で落ちれば40m墜落してしまう)したことはちょっと数え切れないほどありますし、200mは「無理っ!」ですけど10mくらいの「支点が取れないので各自『無事を祈る』モードでのトラバース」も、冬山のバリエーションルートでは何回か経験してます。
そういう時は、動作そのものはたいして難しくないのですが、単純に「恐怖感」との闘いになるわけです。
恐怖を感じてしまうと身体が堅くなってバランスを保てなくなる&無意識に斜面に身体を寄せてしまってバランスが悪い姿勢になってしまう→墜落、ということになるわけです。
周囲の状況を無視して目の前の斜面だけを見れば別にたいしたことないのに、恐怖を感じた瞬間、もう自分をコントロールすることができなくなるわけです。
その恐怖感をねじ伏せるのが「気力」なわけで。
正確に言うと恐怖感が完全に消えるわけはないので、文字通り「ねじ伏せる」のですが。歯を食いしばり過ぎて歯を折ってしまったやつもいましたね。
傾斜は強くないのですがヌルヌルの一枚岩の滝を登攀したことがあるのですが、私がトップで登り始めて20m、プロテクションを取れませんでした。一枚岩なのでハーケンを打てるリス(岩の割れ目)もなかったので・・・
起点が既に滝の上部だったので、20m登ったところからノープロテクションで落ちると40m落ちてしまうわけで、それだけの墜落をするとザイルを使っていてもパートナーが止めてくれる保証もありません(というよりかなり望み薄)。
それこそ「もう死ぬ、すぐ死ぬ、今死ぬ」とか思いながら登って、20m登ったところでようやく浅いリスを見つけてハーケンを打ちました。ちゃんと効いてるか効いてないかよく判らないようなハーケンだったのですが、1本打っただけで気分的にはすごく楽になるんです。
ところが、気が楽になった途端、さらに10mは登らないと滝の上に抜けることができないのですが、その10mを登るのが急に怖くなりました。
いや、それまでだって十分に怖かったのですが、ハーケン1本打って少し安全度が高くなった途端、恐怖感をねじ伏せることに失敗してしまったわけなんですね。
怖くなった途端に足ががくがく震えだしました。ヌルヌルの壁に微妙なバランスだけで貼り付いていたわけですから、足が震えて身体を保持できるわけもなく、そのまま敢えなく墜落してしまいました。幸いに打ったハーケンが効いていたので1mほど落ちただけで済みましたが。
ヒマラヤの200mの氷壁のトラバースは、多分こんな世界の延長線上にあるんだと思います。いや、遙か雲の上のレベルなので想像もできませんが。(だからぜんぜん極めてなんかないですよ・・)
別に壁や氷などの登攀的な山でなくても、吹雪になったり暴風雨に晒されたりといったことでも、「恐怖」に囚われてしまいます。そりゃ本格的に荒れた時の荒れ様は「圧倒的」ですから。
その時も、恐怖感に支配されてしまうと冷静な判断ができなくなります。それに恐怖感に囚われている状態そのものが体力を消耗します。
ですから、そういう悪条件に見舞われたときに恐怖感をねじ伏せることができなければ、生還できる可能性を低くしてしまうことになります。
1,000m程度の低山でも、道に迷って雨が降って夜になった、というだけで「疲労凍死」してしまう人はいます。本来、人間ってその程度で死ぬわけがないのですが。
それは、「動かずに体力を温存しよう」とか「確実に判るところまで引き返そう」といった冷静で正しい判断ができなくなり、ムダに動き回って余計な体力を消耗したりすることと、焦ってパニックになった状態そのものが体力を奪うことの相乗効果、というやつなのでしょうね。
山に登る「報酬」は確かに、自分を見つめ直したり自然との一体感が得られたり、ということはあります。私もそういう感覚は好きですね。
ただ、そういう時(恐怖感をねじ伏せなければ死ぬかも、というような時)は、自分を見つめる余裕なんてもちろん吹っ飛んでしまってますし、ましてや「山との一体感」なんて微塵もありません。
一体感を味わっているときというのは、多少吹雪いていようが寒かろうが難しい岩場を登攀していようが、基本的に「何の問題もないとき」です。そういう時は自然は計れないほど大きく、自分は取るに足らないちっぽけな存在に感じます。
でも、恐怖感をねじ伏せているときは、自分が生きるか死ぬかの闘いを心の中でしているわけですから、自分の存在が全てです。
とにかく自分の存在を全面的に肯定しないことには恐怖感をねじ伏せる気力は生まれないのですが、まあ話の前後は逆なのかもしれません。そういう経験を通して自分の存在を肯定することを受け入れられるようになったのかもしれませんね。
まあ別に、その「恐怖感との闘い」を自ら求めて山に登る必要もないので、山には自分との対話や自然との一体感を求めて登ってもぜんぜん良いとは思いますが、「孤高の人」の主人公のような登山者は、それとはちょっと違う要素がないと入れない世界にいる、ということです。
まったくの余談ですが、私も今では自然との一体感だけで十分なのですが、学生時代にはねじ伏せなければならないほどの恐怖感もなく、まったくの平常心でそれこそぼんやりと自分との対話をしたり自然との一体感を楽しみながら通過していたような場所で、今じゃ「怖えぇ~」とか言いながら登っていたりすることがありますね・・自分の衰えが身に染みる瞬間です。
お礼
35年歴のベテランさんの回答をいただき嬉しく光栄なかぎりです。 単に引き返せない状態で、上に登るほうが早かった。なるほどそういうこともあるんですね。 また、当時の時代背景もありがとうございました。加藤文太郎は一流企業の会社員だったのではないでしょうか?どこから資金を集めたのでしょう?マンガの巻末に登山家のミニ情報が出てるのですが、詳しくではなかったです。 マンガでも奥さんの名前はハナちゃんです。 やっぱり、動機としては、景色、達成感ですね。昔の一部は征服やビジネスですね。ありがとうございました。 キリマンジャロの情報もありがとうございました。楽しんで行って参ります!