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映画(及びテレビ)の画面内のお約束とは?
- 映画やテレビでは画面内に映るものは本物として扱われ、本物が使えない場合は見せかけのものが使用されます。
- 舞台演劇では観客が想像力を働かせて補完することができるのに対し、映画やテレビでは映像を通して完全な表現をする必要があります。
- 映画やテレビのお約束は特定の人物や文書によって定義されているわけではなく、自然に覚えられてきたものです。
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面白い質問ですね。 これは表現媒体そのものの性質・性格の違いが大きいです。 舞台演劇や落語は、空間と身体のみで作品世界を描く表現媒体です。 映画やTVドラマなどの“映像”は、そもそも活動写真(動く写真)です。 写真とはもちろん、その場にあるものをフィルムに焼き付けた物です。 つまり、そこにある風景・物・人物などを“撮影”して始まる表現媒体。 ついでに言えば、 手+鉛筆・絵筆で描けば、“絵”になりますし、 文字だけで表現すれば、“小説”になりますし、 デフォルメした絵+文字で表現すれば、“漫画”になり、 描いた絵を動かせば、“アニメーション”になります。 それぞれに、それぞれの様々な表現技法があります。 空間+身体のみで表現できる舞台演劇や落語では、 雪が降っていることを「言葉」だけでも表現処理できますが、 対象物を撮影(+編集)する映画・TVドラマでは、 実際にそれがリアリティのある形で映り込んでいる必要があります。 それがないと、脳みそが「これは嘘だ」と判断してしまいます。 友達の単なる旅行写真でも、雪が映ってない写真を見せられて、 「雪が降ってるよ」と言われると頭が混乱しますし、 水色の布1枚を背に「海に行って来た」と言われても、写真では水色の布にしか見えません。 舞台演劇や小説は想像力で脳内補完できますが、 映像は基本が写真であり、ダイレクトに“視覚”に訴えかけられるので、 正確な視覚情報を与えてあげないと、目と脳みそが違和感を覚えてしまうのですね。 また、舞台演劇はそもそも虚構ですが、映像は現実or現実寄りです。 現実を写すはずの機器で虚構を作り上げるという摩訶不思議な行為なので、現実と虚構の境界線がとても曖昧。 それゆえ、虚構の物でも現実的に見せられればOK、なのですが、、、、 (↑最近はCG技術の発達で、特にそれが顕著ですね) 逆に、現実にあるべきものが欠損すると途端に違和感を生じます。 というわけで、映像は視覚的リアリティが求められる媒体であるのが大きな理由ですね。本物or本物に見える物を画面に映さないと整合性が取れなくなります。 ただ、「映像」もとても奥が深い表現媒体なので、 簡単かつ一概には言えない部分があるのも確かです。 2004年に公開されたニコール・キッドマン主演の、 『ドッグヴィル』という映画をご存知ですか? 世界的に有名なラース・フォン・トリュアー監督の作品で、 3時間の超大作ですが、質問者様ならとても面白く観れると思います。 (ちなみに、『マンダレイ』という続編もあります) オススメ&必見ですよ。
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- isoiso0423
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映画の”お約束ごと=限りなくそれっぽく見える”は、どこかの誰かが定義したわけではありませんが、誕生からその歴史の中で、個々の作り手=監督たちが追求した結果だと思われます。 映画の黎明期は”ありのままをそのまま映す”ということから始まりました。 ・工場から出てくる人たちをただ撮っただけの「工場の出口La Sortie de l'usine Lumière à Lyon」 ・駅のホームに入ってくる列車を撮っただけの「ラ・シオタ駅への列車の到着」 といった作品が映画誕生時の作品として有名ですが、”実写というもの”を初めて見た観客たちは大いに驚き、特に列車の到着では「轢かれる!」と逃げ出した人が居たくらいだったそうです。 これが作りものだとはっきるわかる列車だったらそうはならなかっただろうと思われますが、この時点からホンモノ、あるいはホンモノらしい作り物であることが映画ならではの醍醐味として監督ら作り手に受け入れられたのだと思います。 誕生から20年くらいが経過し、映画が物語性を持つようになり、少し成熟してくると、作り手たちは、ホンモノではなく、”表現の一種としての映像”を求めるようにもなりました。 「ドイツ表現主義」と呼ばれる流れで「カリガリ博士」という映画が有名です。 この映画ではホンモノぽいセットは排除され、どれも歪んでいて平衡感覚のおかしい家や町並みが再現されました。 こんなことをわざわざしたのは観客により不安感を持たせるためだと言われていますが、日本の溝口健二監督(23年の血と霊)やサスペンスの神様ヒッチコックも初期の作品でこうした表現を取り入れているものもあります。 が、しかしこのシュールな表現はその後映画ではあまり用いられることはなく、1940年代にはネオリアリズム運動といってさらにリアルな映像表現の流れが生まれました。 その後は現在に至るまで、”出来るだけリアルな世界を構築する”映画が大半を占めています。 ということで、観客により映画の世界に没頭してもらうには、あり得ない世界の出来事でも、よりホンモノぽく見せるに優ることはない、ということなのだと思います。 ただNo2の方が挙げていますが、ラースフォントリアーのいくつかの作品のようにリアルなセットをすべて排除してしまうことで、新たな映像表現を追求している作品もありますし、フランスの映画監督トリュフォーの「アメリカの夜」のように”映画のウソ”をすべて見せてしまうことをモチーフにした映画も存在します。 いかにも作り物っぽいチープさを売り物にした「マーズアタック」のようなSFもありますし、要は作り手の取り組み方(もしくは表現方法)次第ということではないでしょうか。 演劇ではOKでTVや映画ではNGになってしまう、マイクが見えたりセットがあきらかに作り物だとわかるというのは、演劇が誕生した古代ギリシアの時代から、人類のあいだで培われて来たものなんじゃないかと思いますが、どうでしょうねぇ?
お礼
ありがとうございました。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
昔のフィルム時代では鮮明でもないので、ごまかしも出来たようですが、ハイビジョン撮影など細かな物まで見えるようになってきたので本物を使うように成ってきたかな。時代劇なんかもカツラの境目が目で見ればはっきりするような物でも、スクリーンでは目立たなかったようで、今は目立たない形に変わっています。 舞台などでは限られた空間ですので現実にそこに無い物で作られていくので違和感はありませんが、テレビや映画では実際の自然の風景や建物など本物を使う事が多いです。そこに不自然なものがあると違和感を感じてしまうのです。映像へのこだわりもあり、本物に近い物、本物をと求めていったのでは無いでしょうか。 国内では黒澤作品などがそうなのかな。ただ求めすぎてお金がかかりすぎなのも問題ではありますが。
お礼
ご回答ありがとうございます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >映画やTVドラマなどの“映像”は、そもそも活動写真(動く写真)です。 写真とはもちろん、その場にあるものをフィルムに焼き付けた物です。 つまり、そこにある風景・物・人物などを“撮影”して始まる表現媒体。 >舞台演劇や小説は想像力で脳内補完できますが、 映像は基本が写真であり、ダイレクトに“視覚”に訴えかけられるので、 正確な視覚情報を与えてあげないと、目と脳みそが違和感を覚えてしまうのですね。 ものすごく説得力がある説明で、大変よくわかりました。