孤独は 互いの孤独関係であって 孤立ではない
表題の内容を 次の評論にからませて問います。
ボルケナウは その著『封建的世界像から市民的世界像へ』の最終・第八章を パスカルの議論に当てているが その最後に・すなわち書物全体の最後に こう述べている。:
かれ(パスカル)はその時代ではついに孤独の存在におわった。生き
るとは その時代にあっては 見まいとすることであるから。
そして生きると見るとがふたたび統一されるのは 歴史主義が――
哲学の分野でパスカルをのりこえて踏みはだれた(=ママ。《踏み出さ
れた》か)根本的には唯一のこの前進が――弁証法をわがものとし
またその弁証法によって矛盾を脱却しうる道をさししめすときからである。
そしてその道とは 思考によって生活を解釈しなおし ないしは思考に
よって 生活の不満を訴えるかわり 生活そのものを変更するということ
である。
(F.ボルケナウ:『封建的世界像から市民的世界像へ』§8・4
水田洋,花田圭介,矢崎光圀,栗本勤,竹内良知訳 2004 p.673)
あたまは生きている内に使えと言っている。近代の特徴だとも思えないが 民主制の進展につれて そうなって来たというくらいのことなのであろうか。
だから この思考の活用ということが歴史をつうじて例外なくごくふつうに有効であるのと同じように 孤独は おのれの《固有の時》へと到らせることはあっても 社会で独り孤立していることを意味するものではない。これが歴史をつうじて 普遍的な真理である。
パスカルについて ひとつ 言えることは かれは のちにヤンセン派の人びとと立ち場を同じくし かれらからは 自分の思想がアウグスティヌスのと同じであると褒められもしたのであるが パスカルは 哲学から入った すなわち エピクテートスとモンテーニュとを学ぶことをとおして アウグスティヌスのならアウグスティヌスのその思想と同じものを抱くに到った ゆえにパスカルは アウグスティヌスに対しては 自分の独創性を主張することができた この点である。
だから パスカルは たとえばいまの国家観の問題でも アウグスティヌスと同じ考え方をしていても ほとんど そうは言わない。しかも 両者がもし 同じ思想を持つことがあったとした場合 それは 必ずしも ボルケナウの言うように《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という論点に 要約されないであろう。《必要悪》論は 付随的な一帰結にそれがあったとしても それは 問題の中心には来ない。
問題の中心は ボルケナウが次のように批評するところの一観点のほうが 有効ではないか。
パスカルはその時代ではついに孤独の存在に終わった。
しかもこれは うそである。
《その時代では》という条件をつけても うそだと言わなければならない。そして――そして―― 《実定主義国家学説》の徒としてのパスカルならば それは ほんとうであるだろう。そして――さらにそして―― わたしは パスカルは かれの人間学基礎をもってしてならば その自然法主体に――つまり 人が人であることに――孤独はないのだから 《孤独の存在に終わ》りはしなかったと言う。ここでは この限りで 国家論と人間学基礎とが みっせつにかかわりあう。
つまり 時代総体としての出発点ということになる。それは いつの時代においてもである。
わたしは 想像の世界に遊ぼうとは思わないし 抽象的な議論で終わらせたくないので まづは ひるがえるならばただちに 孤独であってもよいと言う。すなわち・そして 人は 社会習慣の領域で 孤立するかも知れない。なぜなら つまり 孤立した(孤立を欲した)人びとが 孤独者をも 孤立していると見るはずだ。――しかも もはや かれは ひとりではない このことを明らかにすることにつとめよう。
わたしは わたしひとりであるゆえに ひとりではない と言ったのだ。
自然法主体の主観動態は 少なくとも論理的に こうであるほかない。そして――まだ論証していないのだが――これが 社会経験の生活領域でも その出発が開始され(そしてこのとき むろん なんらかの法治社会として 人定法が持たれていて いっこうに 構わないわけだが) 社会行為の関係が構造的にゆきわたっていくならば つまりもう一度繰り返すと 自然法主体の主観動態が 社会習慣の領域でも 互いにゆきわたった動きを見せるなら じつは 大地は すこやかである。ひとりであって ひとりではないからである。
わたしは 神話を説く趣味はないから これを これだけで 主要な議論としたい。論理的な証明をおこなおうとすることさえ それが成功しても なんらかの神話をつくり勝ちなのである。
ボルケナウに反を唱えた すなわち かれの到達点としての新しい生活態度(思考の有効活用)はこれを受容し そうではなく他方で その生活態度の観点から言ってボルケナウが パスカルは 《孤独の存在に終わる》と言い そんな一人の人間としてのみ その時代では 実践し生きたと見ること これに反を唱えたい。これだけで まづは じゅうぶんだと考えたい。
わたしは独りであると言うとすれば そのように誰もが同じく言うことになるのだから 孤独はつねに孤独どうしの関係としてある。つまりは 孤立ではない。
そのつてでは こう言おう。孤独の人パスカルの主観動態――おのおのの《固有の時》――がゆきわたった世界は その大地(つまり社会習慣)が すこやかであると。ここを耕す人の手足はじつにうつくしいと。