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霊格
霊格の高い人の特徴と、低い人の特徴を教えてください。 私は、 ・タバコを吸う ・酒を飲む ・ギャンブルをする ・物の食べ方が汚い・下品 ・見るからに不潔 これらのどれか一つでも当てはまる人を見ると、この人は霊格が低い人であると思ってしまいます。たとえその人がどんな地位の人であろうともです。上記のどれかに該当しているが霊格は高いという人も存在するものなのでしょうか? スピリチュアリズム的見地から回答していただけると幸いです。
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>タバコ 私は5年前、シルバーバーチに「タバコを吸うと霊界らかのインスピレーションが伝わりにくくなる」とあり、何とか工夫して止めました。止めると確かに肉体の清浄さがアップする気がします。しかし、タバコを吸うか吸わないかが霊性を決めるとは、一概に言えない問題だと思います。私がスピリチュアリストになっても、しばらくは吸っていたわけですし。肉も食べます。要は、現世に心残りが無いように生活すればいいわけで、無理してカルマを避けようとしても無駄です。今世で学ばなくても、来世では必ずまた命題がやってきます。人生は、やりたいだけやればいい、ということです。何でもいいから、生き抜くのです。積極的に、ポジティブに。それが学びに対する積極性を意味します。 タバコを吸うことは確かに部分的な霊性の劣等ではありますが、全体を決めるものではありません。 確かにタバコを吸うこと自体は現世の欲望ですから、そんなに麗しきものではないでしょう。魂が肉体に踊らされているわけですから。本当は魂が主役。肉体は魂に使われる存在なだけです。魂は使うはずの身体に踊らされて、身体の性能を自ら落としてしまっていることになります。 真、善、美の観点から言えば行為自体は×ですね。しかし、その部分で人間全体を決めつけてはいけないということです。タバコへの欲望は、魂を推し量るものとしては不十分な細かいこと。現在地上の人間の、霊性の平均的な感じからは、そう受け取れる気がします。 >酒 タバコと同様です。ただ、酒はただの欲望だけの問題ではなくて、「本音を言うために利用する」とか、社交的な動機も考えられるので、一概に悪いとも言えません。すべては動機の善し悪しによります。私は血圧の問題で飲めません。 >ギャンブル だめですね。完全にだめです。依存心。自分が成長することなく、楽だけ手に入れよう、そういうことです。まったくもって向上心が無い。堕落です。ただ、これも動機の問題で、1年に1回、ロマンとして年末ジャンボくらい楽しんでもいいや、くらいなら良いのではないでしょうか。私は全く興味ありません。 >残り まったく関係ありません。霊性の高い人がホームレスに身をやつして修行することもあります。食べ方だってそうです。文化、認識の違い。そんなことで霊性を推し量られてはたまったものではありません。全ては動機の問題です。堕落した動機かどうか、その一点につきます。 これらをヒントにして、真、善、美の感覚をつかんで下さい。それが道を知ることにつながるでしょう。ただやみくもにタブーを感じてもとりとめがありません。このご質問は感覚的なもの。それ自体が獣性を意味します。理性を磨くのです。
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何度も言うようですが、「動機の問題です」。この辺の理解をしない限り、同じことの堂々巡りから抜け出すことは出来ないでしょう。 ギャンブラーであることの動機が何かによります。勝負の世界で切磋琢磨したいという高尚な理念があるのか、それともただ単に成長も無く楽になろうとしているのか、ということです。もっとも、ギャンブラーであることの動機に、それほど高尚なものがある可能性が考えにくいことを加味すれば、それほど高尚である可能性は低いと言えるでしょう。だからギャンブラーの霊性が高い可能性は低いでしょう。 飲んだくれの場合は動機が高尚である可能性が限りなくゼロに近いです。あくまで私見ですが。だから飲んだくれの霊性が高い可能性は非常に低いでしょう。 何においても可能性の話です。それだけですべてを決めつけるのは短絡的です。それよりも「すべては動機の問題だ」というただその一点を身につけて、注意力を磨くべきです。現象そのものに翻弄されても仕方ありません。それは身体に翻弄される魂のようなものです。現象を見るのではなくその奥に控えた魂の実態を見抜くのです。それは、現象そのものでレッテルを貼れるような、簡単なものではありません。考察すること=分析=祈りこそ重要なのです。本当の世界は、心の真の動きが反映されます。現象で物事を決めつけることも、また堕落なのです。神界はそこを見ているのです。
お礼
再度回答していただきありがとうございました。
- michael-m
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昔話によく観音や如来がみすぼらしい格好の老人や旅人、畜生に姿を変えて出てくる話しがあります。 また、高僧が見た目だけの価値を捨ててみすぼらしい格好をする。そもそも僧は自活せず施しによってのみ生きる為に托鉢をしているわけですから、一つの言動で霊格を云々する事は出来ないでしょう。 あくまでも心の目を見えるようにして、見極めることが大事だと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 そのような昔話があるのですか。よかったらその物語のタイトルや本などをご紹介いただけないでしょうか? 読んでみたいです。 また、観音や如来がヘビースモーカーのギャンブラーになることも有り得るのでしょうか? 毎晩酒場をうろつきまわっている人間が、実は観音や如来のような高潔な魂であることも有り得ることなのでしょうか?
おせっかいを焼くようですが、スピリチュアリストのよしみ。お見逃し下さい。 >酒 ほほう、厳しいことをおっしゃいますね。未熟、確かにそうかもしれません。しかし、「本音を言うために酒を飲むこと」はその人なりの向上へ向かう手段なのであって、私は特にそれが堕落した精神とは思わないのですが。未熟と言えば誰だって未熟なのです。霊格には無限の高み、低さがあります。だから、あなたが現在落ち着いているその位置で、未熟だなんだと叫んだところで、まったく意味がありません。要は、堕落しているか向上へ向かって邁進しているか、の方が重要なことなのではないでしょうか。 小学6年生が、小学1年生をつかまえて、「未熟だ」と述べても意味がありません。そうではなくて、「あの子は一生懸命頑張っている小学1年生だ」「あの子は頑張っていない小学1年生だな…」と考え、物事を向上に向かわせる小学6年生の方が、はるかに素晴らしいでしょう。そっちの方に着眼点を変えて見られてはいかがでしょうか。このご質問から想像される精神状況には脆い固さを感じます。王者の精神は、全てを包み込むもの。柔らかさを持って強くなるには、着眼点を変えた方がよろしいかと。 >食べ方 それは現在の日本の文化上の話ですね。だったらそれは最初に付け加えておくべきでしょう。地上には現代日本人しか存在しないわけではないのだから。 だから、すべて動機の問題なのです。周りの者に対する思いやりが絡んでくることなのかどうか。現代日本ではこうなっている。「郷によっては郷に従え」。現代日本ではそれは不快に感じられることだから、周りのことを思うなら止めるべき。止めないなら周りに対する愛情が足りていない、ということです。 まあ、ご質問は「未熟と熟の違い」ということですから、あなたの定義上に関して言えば、あなたのおっしゃる通りでしょう。
お礼
ふたたびありがとうございます。 お聞きしたいのですが、高潔な魂がギャンブラーや飲んだくれになることも有り得るのでしょうか? もしよろしかったらご意見をお聞かせくださると幸いです。
お礼
回答ありがとうございます。 酒に関してですが、酒を飲まないと本音を言えないというのは結局はその人の弱さ未熟さの表れでは?と感じます。 あと、食べるときにクチャクチャと音を出して食べる人や平気でゲップを何のためらいも恥じらいも無くする人は、周りの人が不快になるということが分からない未熟な人、と感じます。 もちろん日本とは文化の違うどこかの国の人が、箸やスプーンなどを使わずに手でつかんで食事しているからといって、それは文化が違うからだと分かるので、それを下品だなどとは思わないです。