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空腹で死にそうな家族のため窃盗を働いた

もし、空腹で死にそうな家族のため窃盗を働いた場合、犯人に対し宗教人はどう解釈するでしょうか? 法的には当然罪にはなりますが・・・ どなたか教えてください! 

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  • hiro822
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回答No.2

道徳観のある人道的な行動と 秩序を守るための法に遵守した行動は 矛盾することもあると思います。 法を犯して、進むべき道を選ぶときに、 宗教だとかそんなもので、行動を正当化するのは意味がないでしょう。 法ほど冷徹ではないかもしれませんが、 宗教だって秩序の上にあるものだと思っているので。 程度の差はあっても、同じことだと思います。 秩序を破る時には、正当化せずに罪を背負う義務・責任・覚悟 が必要だと思います。

okok110
質問者

お礼

スッキリしました!

その他の回答 (6)

  • kelbow
  • ベストアンサー率26% (36/134)
回答No.7

宗教といっても多数の教義がありますが 基本は法律よりもずっと重たいものです たとえ法律で裁かれて、刑務所から出たとしても その人は来世で苦しめられるのです 私の信仰では、家族の為に何かをするのではなく、神の為にするのですから 家族の為にした行為は間違えです あなたの肉体を生んだのが母親であって、あなたの魂は輪廻してきているのです あなたの魂には現在の家族は関係ないのです よってあなたのした行為は大きな間違えであり、来世で償うようになります 来世で償うとは、もう1度人間に生まれ変わる事です この辛い世の中を又繰り返す。これ以上辛い事があるでしょうか こんな教義もあります

  • peri1005
  • ベストアンサー率33% (610/1798)
回答No.6

罪を憎んで人を憎まずという言葉があります。 やりたくなくても犯してしまうのが犯罪なんです。 やってしまったことは、他人に迷惑をかけることです。 償いはしていかなければなりません。 それが人間の手による「罰」であろうと神仏による「罰」であろうと、受け入れていかねばならないことです。 かつて同じ宗教を信じているから大目に見ろと言う人たちがいました。それは単なる身内びいきの発言であって、容認することはできません。人の生き方に良い影響を与え、良い方向に導いていくのが根本の「教え」のはずです。社会での決まりごとを守れない人は、それなりにやっただけのことが返ってきてもあたりまえのことなんです。 やってはならないことは、やってはいけないんです。同情はしますが、人に迷惑をかけたその責任は自分でとらなければならないことです。 その人の根本を信じることと、その人がやった行為に対して償わせることは別物です。ただそれぞれの人の感じ方は異なりますから、その人がまわりからどのような扱いを今後受けようとも耐えねばならないことです。 以上です。

  • papanda26
  • ベストアンサー率40% (407/1002)
回答No.5

彼に他の方法を考えるだけの知恵があれば避けられた罪だと嘆くのかも。 窃盗は宗教的にも罪だと思います。 ただ、飢えた家族をどうにかして助けたいという気持ちは善なるもの。 他の方法(働く、物乞いする)を選ぶ知恵がなかったことがとても悔やまれる。 もし、他の方法がまったくない状況(迫害などにより働くことも物乞いも不可能など)で 本人が窃盗をしたことを強く恥じ、罪だと感じているのであれば、神はいずれ許される…のかな。 宗教には詳しくないですし、どの宗教かによっても違うのでしょうが 犯人に悔い改めさせることが宗教人の目的だとすれば、上記のようになるのかなと。想像してみました。

回答No.4

宗教に詳しいわけではないので、個人的な考えということになってしまいますが。 仏教では因果応報という言葉があります。 善い事を行えば善いことが、悪い事を行えば悪いことが結果として返ってくると言われています。 どの宗教にも同じような教えはあるそうですが、お釈迦様は、どうももう一歩、奥の深いところまで考えていたようです。 ウィキペディアより 原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。 難しい教えですが、私なりに解釈してみると、こういうことではないでしょうか。 直接の原因が窃盗で、結果として罰せられるか許されるか、ということですが、そういう単純なことではなく、次のような極端な例から考えると、その途中の状況も複数あることから、結果はいろんな可能性のある中から、適当な状態に落ち着いていくというもの。 1のケース。この人が窃盗をする前は、とても人柄が良く、他人のために色々尽くすような立派な人物だったが、貧困で家族が死にそうだったので、魔が差して窃盗をしてしまった。 2のケース。この人は、日ごろから不平不満を言い、近所の人に迷惑ばかりかけていた。お金も食べ物もなく困ったので、盗みを働いた。 この極端な例えだと、説明するまでもないと思いますが、現実的には、この途中の状態がたくさんあると思います。これらがすべて縁となり、また、1のケースの人が反省し、さらに人のために尽くせば、これが新たな縁となり、また、2のケースの人が、「何でこんな目に」などと悪態をつけば、それがまた新たな縁になり、その後の結果をまた変えていくのではないかと思います。 こんなことを言うと、実も蓋もないですが、法律ではない部分で、罪が許されるかどうかは、われわれ凡人にはとても計り知れないことだと思います。 しかし、普段から善いことをしていないと、善い方には進みそうもないことは直感的に分かる気がします。

  • ID10T5
  • ベストアンサー率31% (732/2312)
回答No.3

懺悔すれば許されるってのは宗教的な考え方でなくて、単なる日本人の誤った道徳観に過ぎないね。 日本人はごく些細なことでも不愉快なことがあると相手に謝罪を求める一方、相手がどんな重大なことをしても謝罪さえすれば許してあげたくなる民族です。 東京電力を見れば分かるでしょう…。謝罪する前は非難ごうごうだったけど、謝罪したとたんに許してやってもいいんじゃ?という風潮が出てきた。 東電に罵声を浴びせる被災者の方を批判する連中がいたりして。びっくりです。 さて、宗教的だろうと何だろうと、窃盗を働いたなら許されませんね。 窃盗に至る理由は関係ありません。 なぜなら空腹で死にそうな家族のためには働いて金を稼ぐべきだから。 働いて金稼げばいいところを、窃盗を働いていいということにはならんでしょうが。そういうのをただの甘ったれというのですよ。

回答No.1

  宗教的には懺悔すれば全て許します、嫉妬にかられた殺人でも許します。 ただし、宗教的に許すだけで法的に許したのではありません。  

okok110
質問者

お礼

納得です!

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