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夏目漱石『我輩は猫である』について・・・

ご存知『我輩は猫である』について質問します。 著者夏目漱石は、対象に距離をおいて眺める初期の傾向から「余裕派」といわれていますが、 皆さんはその傾向が『我輩は猫である』のどのような所に現れていると思いますか? 人物の描き方や話の組み立て方・時代背景などの面からお答えいただければと思います。 勿論、1人1人考え方や感じ方はずいぶん異なりますし、あくまで参考としてお聞きしたいと思います。 といいますか、異なった意見の方が勉強になるのでありがたいです(^^) よろしくお願い致します。

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回答No.1

漱石を「余裕派」と批判したのは、文壇の中心を占めていた自然主義の作家たちでした。 漱石は当時の状況を振り返って、後に『作物の批評』の中でこう言っています。 「あるものは、人間交渉の際、卒然として起こる際どき真味がなければ文学でないと云ふ。あるものは平淡なる写生文に事件の発展がないのを見て文学でないと云ふ。……余は之を不快に思ふ」 「余裕派」として批判されていたのが、どういった点であるか、わかると思います。 『吾輩は猫である』には、告白もなければ、生きる苦しみも出てきません。生活苦もなければ、身を焦がすような恋愛もない。言ってみれば、筋らしい筋もなく、日本文学史を見てみても、他に類例を見ないほど、奇妙な作品です。 にもかかわらず、十分におもしろい。 個人的には、そのおもしろさの最大の要因は、文体にあると思っています。 口語の基礎を築いたのは、二葉亭四迷です。四迷はロシア文学を読みながら、新しい文体を模索した。その範を、三遊亭円朝の落語に取ります。 漱石もまた、落語を愛し、「小さんと同時代に生きる幸せ」と書いています。 『猫』もあきらかに、落語のリズムが感じられます。

Paolo
質問者

お礼

自然主義の作家たちがそういっていたのですか! 知りませんでした。というより、あまり考えていませんでした(苦笑) とてもわかりやすいご回答、どうもありがとうございます。 『吾輩は猫である』は、ただ「面白い」という思いで読み終えてしまったので、改めて「余裕派」的な文章を探すことが困難だったんです。 確かに、文体面白いですよね。そういった面で考えたことがなかったので、とても勉強になりました!

Paolo
質問者

補足

「我輩」→「吾輩」ですね(汗) 漢字変換で先に出たほうにしてしまっていました・・・。(反省)