僕はね、”人殺し”とは分かり合えないと思っていた。どんな事情があれ、絶対に認める事など出来ないと思っていた。償えやしない”罪”だと思っていた。いや、思っている。それは今でも僕の心の中にある。
でも、現に僕は”人殺し”に該当するかもしれない人と友達だし、人間的に好きだ。
本当に”人殺し”になってしまった人もいる。でも、僕はその人の事は憎めない。そこに避けがたい事情がある事も知っているし、それを責めても仕方が無いとも思っている。
何より、諦められないんだ。例え人殺しだとしても大事な人には違いないんだ。それに、故意に人を殺すなんて事は決してない事も分かってるし。その人自身、それを苦しんでいる事も知っているし。
これらはかなり自分の中で矛盾している。
僕の友達や知り合いの中に、そういう”人殺し”(と書く事も実は辛い。そう言われる事がその人にとってどれだけ辛いか、想像出来てしまうから。)に該当する、もしくは該当するかもしれない人がいるという事実が、それを再確認するのがとても辛い。
僕は開き直ろうと思う。
その人達は”人殺し”なのかもしれない。ああ、そうだ。”人殺し”だ。
僕が認める事の出来ない罪を背負っている人達だ。僕が一番憎む罪を犯した(かもしれない)人達。
でも、僕はその人達が好きなんだ。今はその人達が好き。
それは”人殺しが罪である”事よりも確かな事だ。実際に彼らと接し、会話を交わし、理解しそう感じている。
今でも鮮明に思い出す。その人達がいかに善良であったか。思い遣りに溢れていたか。気持ちの良い人達だったよ。たとえ”人殺し”かもしれない、としてもね。
彼らは徒に人を殺したりはしない。それは確実に分かる。少なくとも今の彼らについてはそうだ。
それに・・・僕だって彼らの立場だったら人を殺していただろう(だから、彼らが”人殺しかもしれない”と推理するわけで。その立場なら自分は人を殺さずにいられるだろうか?それは難しいと自分が認識しているからこそ)。
それを責めるのはあまりにも・・・酷だ。僕はそれを責めたくない。
貴方が友達だと思うのならば、それで良いんじゃないかな。
過去に覚醒剤をやっていた。それは事実だし仕方がない。
でも、そこには何らかの事情があったのかもしれないよね。
例えば、貴方がその立場に立ったとして、それでも覚醒剤に手を出さずにいられたのだろうか?そんな風に想像してみてもいいと思う。
問題は”今”だよ。今その人はどうだ?それが一番大切だと思う。
お礼
回答ありがとうございます、 みなさまの、貴重な意見が大変参考になっています、人それぞれ色々な意見が聞けて、考えさせられています、確かに今、自分に自信がないです毎日、死ぬ事しか考えられない自分に落ち込みます、どこか自分自身みんなの意見が「もう死ねよ、生きてて恥ずかしくないのもう人間の資格ないよ」ってみなさん言ってくれるのかなってそしたら悔いなく逝けるのですが、みなさん本心はそう思って生きているんじゃないかなって別に人を信じない訳じゃないけど、そう思ってしまうんです、すいません長くなって、最後まで見てくれてありがとうございます。 回答ありがとうございます。