長文で申し訳ないのですが、どなたか英語に翻訳してく
長文で申し訳ないのですが、どなたか英語に翻訳してくれませんか?
東京に家族が住んでいた
家族の構成は母、二人の兄弟、父は昔戦死、
上の兄は仕事で家を出て、いまは母と息子の二人暮らし
母は農業を営んでいて、その金で息子を学校に通わせていたが、ギリギリの生活だった
そんなある日、母はアメリカへの移民に関するチラシを目にし、いまの生活から抜け出したいと覚悟を決めてアメリカへ行くことにした。
後日、支度を済ませ、もう一人の息子と別れを告げて母と息子は日本を離れ、アメリカへ向け船で出発した。
船の中は暗く、毎日とても不安な夜を過ごした。
日本を渡航してから8日後、ようやく目的地のカリフォルニアに到着、家と土地を見つけ、母はそこで新たに農業を始め、息子も学校に通わせた。
さいしょのうちは慣れない英語に苦労することもあったが、特に大きな問題には至らず、順調に時がすぎていった。
そして、息子は現地の人と結婚し、子供も生まれた。
しかし、1941年の真珠湾攻撃(The attack on Pearl Harbor[nb 4] was a surprise military strike conducted by the Imperial Japanese Navy against the United States naval base at Pearl Harbor, Hawaii, on the morning of December 7, 1941 (December 8 in Japan). The attack led to the United States' entry into World War II.)で状況は一変した。
周りで暮らすアメリカ人からは差別を受けるようになり、かなり厳しい毎日を送った。
そして、日系人に対する差別はどんどん悪化していき、ついにその家族は日系人強制収容所(Japanese Internment Camp)に収容された。
強制収容者の住居に宛がわれた建物は、いずれの強制収容所においても急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、家具も粗末なものしか与えられず、トイレの多くは仕切りすらなかった。また、この様に衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。
また、基本的に強制所からはでることができず、とても縛られた空間で生活をしていた。
しかし、時が立つに連れ強制収容所での生活も快適に感じるようになり、何人かの日系人とも仲良くなった。
しばらくして第二次世界大戦が終わり、家族は強制収容所から解放された。まだ周りからの冷たい目はあるものの彼らは必死に努力し、周りに溶け込もうと頑張った。