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学校は何のために行くの?
題名のとおりなのですが、たまに、無理して学校に行ったり行かせたりする人を見かけるのですが、学校というのは、そこまで行かないといけないものなのかと思うことがあります。 私は、集団の中でどのように周りと協調しつつ自分を生かすかということの実技訓練をするところだと思いますが、世間一般的にはどのような事をするために行かれるのでしょうか?
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ご質問者のrinrinnnohitoriさん(一体どう読めばよろしいのでしょうかnが1つ多いような気がするのですが)はお礼の文などからかなりその経歴および被教育歴が特殊な人であり、かつ年齢がまだお若い方(せいぜい20代前半でしょう)と思いました。そこで、もう一度私の考え方をお答えさせていただきます。 まずはもともとのご質問についてですが 私も無理して学校に行かせる必要はない、と考えております。もちろん、教育を受ける本人が無理して行く必要もありません。ただし、何らかの別の手段で社会性の涵養ができるならばという留保条件をつけさせていただきますが。言い換えるならば、学校で習う知識に関しては充分に代替手段があるということです。なお、無理に学校に行く必要はありませんが「学校に行きたくない」という思いが生じることはその生徒にとって不幸なこと(注*参照)であり、大半の生徒にとって「学校は楽しいから無理しても行きたい」所であることを忘れてはなりません。 補足すれば、ご質問者は参考書の充実、インターネットによるQ&Aサイトの存在などをあげておられますが、代替手段に関しては現代に限りません。と言うより、教育とは本来マンツーマンなものであり、教える側と教わる側が一対一で向かい合う真剣勝負的なものであったからです。その意味では近現代の学校システムの方が異常であり、これはひとえに社会による教育の効率性を追求した結果です。 さて、私も勉強は自分でやればよい(あるいはもっと強く「勉強は自分でしなければ意味が無い」)と思っています。ただし、ごく少数の人を除きたいていの人間にそういう能力はありません。でも、そのような人間でも練習・訓練すれば自学自習の能力は身に付きます。言い換えると、学校の役割の1つは勉強することだけではなく、勉強する方法を身につけるための訓練をすることです。 分かり易く言えば、例えば中学校で学習する教科は国語・社会・数学・理科・外国語・美術・音楽・技術家庭・体育の9教科ですが、それら全ての上に「教科学習法」とでも言うべきものが隠れて存在しています。このことは表面には出てきにくいものですから、一般の人には(いや、教職にあってすら)理解されにくいことかもしれませんね。蛇足ですが、私の考える良い教員は、自分の教える教科の知識だけではなく上に述べた学習法をも伝える人だと思っていますし、その教科の内容に関して学ぶ側の意欲・好奇心をかきたてることのできる人だと思っています。知識だけを教えているのは2流教員です。 また、教育の本質の1つは学習者が「適切な問いを発することができる」ようにするということだとも私は思っています。 さて、話を変えていくつかの些末な点(ここで話されている質疑応答の本線からは離れるという意味です)について書きます。 まず、rinrinnnohitoriさんのいう「授業のつまらなさ」と他の回答者の方のいう「授業のつまらなさ」とは同じ言葉を使いながら意味が違っているように私には思われます。既知のことを再学習させられるつまらなさと学習内容の理解困難で味わうつまらなさは質が異なります。 二つ目に、学校は「友達と同じ時間を過ごしに行くところ」ではありません。もちろん結果としてそういう形になりますが因果関係は逆で「同じ時間・同じ空間を共有すること」で友達になるのです。学校という空間に強制的に集められ、時間・空間を共有する中から友人となり友情が育っていくのです。ですから、友達がいるから学校に行く、というのは学校というシステムが健全に働いていることの証明です。 3つ目に学校の存在理由やそのシステムと受験競争というものはここでは切り離して考えていただきたいということです。学校教育の有効性(優秀な成績のものが社会での有用な一員となりやすい)およびどの学校で学んだかがその後の社会的地位に関係するということが一般に浸透してきた結果生じてきたのが受験競争です。学校なんて役に立たないと皆が思い、無理に行かなくても良い(明治の学校制度初期ではこうでした)と思うならば、学校制度そのものが崩壊するでしょう。(いや、私は崩壊しても構わないのですが、実際に崩壊した時に困るのはおそらく崩壊させた一般庶民自身でしょうね。)学校と受験競争を不可分のものと考えては本質を見誤ると思います。 このように書いていくと次から次へと書きたいことが出てきてしまうのでこれぐらいにしたいと思います。最後に私の個人的な話を書かせていただくと、私も親の話によると3歳の時には教わったりしないのに仮名文字を読めていたようです。そして自分の記憶では漢字を書くことにつまづいたのは小学3年生の時で、それ以来漢字は努力して覚えることにしました。読みの方で苦労したことはありません。また、数学も大学受験数学に触れるまで判らなかったことはありませんし、当然に自学自習していました。それでもなおかつ、私は自分が受けた学校教育を非常に役立ったものとして受け止めております。そこがおそらく私とrinrinnnohitoriさんとの感じ方の違いの原点でありましょう。 注* 人間は誰でも社会の一員として社会に所属し、その帰属感が人間の幸福のひとつをなしています。他者から受け入れられているという気持ちは幸福そのものです。ですから、社会に参加したくないとかその社会から拒絶されているとか思うことはすなわち不幸です。
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- news_0203
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やはりそれぞれの各学校では社会に生きていく中で大事なことを学ぶためではないでしょうか? 確かに実技訓練で早速!ということもいいと思いますが、その場面が人によって様々な実技訓練になるのではないでしょうか?アルバイトなどをしてる場面などではいいのですが、その他あまり好ましくない場面で幼少から学ぶのは・・・・。という感じですね。
お礼
>やはりそれぞれの各学校では社会に生きていく中で大事なことを学ぶためではないでしょうか? そういうことを学ぶためだとは思うのですが、それが出来ない人というのを見たり、体を壊しているのに無理やり行ったり、行かせたりするのをみると、本当にこのためなのかなと思ったのです。 ちなみに、実技訓練には、「集団の中でどのように周りと協調しつつ自分を生かすかということの」がかかります、読みにくくてごめんなさい。
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お礼
>ただし、ごく少数の人を除きたいていの人間にそういう能力はありません。 こういった能力は、知らず、知らずのうちに身に着けることなので、こういうことに関しては見落としがちですね。 >学校は「友達と同じ時間を過ごしに行くところ」ではありません。 私は、最初は、学校に行く前に近所の同年代のことの友好関係が最初だと思うんです。だから、最初は、友達が行くから学校に行くのが目的になり、それからまた友好関係が広がっていくのだと思います。 >3つ目に… 私は、社会は、成績が悪かった人が頑張ってくれているから成り立つんだと思います。確かに、成績がよかった人が、社会的には上に行くかもしれないけど、その人たちはお飾りじゃないかなと思うし、成績がよかった人がやってることは、社会がよりよくなるためのことだと思うのです。 それに、成績が悪かった人もよかった人も社会の足を引っ張っているような気がするので、本当のところはどちらがいいのかわかりません。成績がいい方が選択性は広まりますが、最終的にどちらの方が社会に貢献できているかはわからないと思います。 それに、受験の方に気をとられると、本来、その年代に経験すべきことができないんじゃないかなと思います。特に、恋愛とかがそうですよね。 受験とかに気を取られるから、本来経験するはずの恋などを経験できずに、ずるずると大人になるから、どうしたらいいかわからなくなるんじゃないかなと思います。それに、異性に現を抜かすのも必要なことだと思うし、人格形成や、その後の社会性というのにも関係するんじゃないかなと思います。 だから、進学校とかは、普通に経験する事を、普通にできているのかなと思うし、必要な存在なのかなと思うのです。だから、ある意味、学校の存在理由にも少し関係するのかなと思うのです。 最後に、私が3歳のころは有名な脱走犯だったようです。その後、生き物に興味を持ち始め、いつの間にか字が読めるようになり、現在に至るという感じです。漢字と数学でこけたのは小学6年生のころに飛ばしに飛ばして本を読んでいたらつまずきました。さすがに小学生の知識では、微積と、聞いたこともない言葉及び漢字には手も足も出ませんでした。logがかろうじてわかるぐらいでした(pHの意味で使うので)。これが未だにトラウマになって現在苦労しています。
補足
また1000文字を超えたのでこのまま縦にお読みください。 ririnnnohitori← りりんのひとり と読みます。 んの と打つためには nnno と打つことになりますのでnが3回になりました。そしてaminouchiさんのご推測どうりの年齢です。 >私も無理して学校に行かせる必要はない、と考えております。 私は、これが普通だと思います。しかし、世の中には、そうでない人もいるようで、体が思いっきり拒否反応を起こしていて、なおかつ、学校に行かないことによって症状が緩和される可能性があるにもかかわらず、行かせるという親も多いようなので世間一般的にはそういう人が多いのかなと思ったのです。子供のステータスと自分のものを混同している方がいるんじゃないかなと思うんです。 社会性に対しては難しい面がありますね。代替手段のほうなのですけど、ネットでは似たような人が集まるか、いろいろな世代の方が集まるかのどちらかになりますが、どちらがその人のためになるかわからないし、文字(最近は音声ちゃっとなる物も出来ていますが)での交流と、面と向かっての会話というものは普通は似て非なるものだと感じます。 家から出るとなると、基本的に似たような人しか集まらなくなるために世の中にはいろんな人がいるものだということを感じることができるのかなと思うんです。実生活ではそのうち、似たような人が集まっていく傾向がある気がしますが。だからまだ代替手段というものが確立されていないような気がするのです。 学校に無理していくような状態だと人間関係でこけていることが多いようだし、その人もそれがわかっているので、ある意味トラウマに近いものも感じていることがあるから、それを最初に何とかしないといけないことがこれからの課題かなって思います。学校の勉強というのは何とかなっても、コミュニケーション能力は実習をやりながらじゃないと育ちませんからね。 >「学校に行きたくない」という思いが生じることはその生徒にとって不幸なこと(注*参照)であり… 私もそう思いますが、実際にはどうしてもできてしまいます。みんながみんな同じ風に育つわけではないですからね。そういう人たちには幸せを感じてほしいと思いつつも、私にも幸せというのはどのようなことなのかがわかっていない(不幸というものがわからないと幸せな状態にいても幸せを感じることができないと私は思います)ので、伝えてあげられないと思います。それに、自分達が幸せだという価値観が相手にとって幸せになるのかという疑問もありますのでこのことは思うだけですね。 >教育とは本来マンツーマンなものであり… 私が小学生のころはすでに崩壊しつつありました。みんなが同じ授業を受けている状況でしたので、わからない子というのは、そのずっと前でこけても授業は進んでしまうので、どんどんわからないようになっていきますし、逆にわかる子にとっては、遅いという逆の意味でストレスになっている状況でした。ですので、マンツーマンのその人にあった勉強というのはしいて言うなら、わかる子がわからない子に教えるということぐらいだったでしょうか。