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日蓮上人が思考錯誤の上、南無妙法蓮華経を最高に置いた経緯。
日蓮上人が思考錯誤の上、南無妙法蓮華経を最高に置いた経緯。 ご存知のかたありませんか?
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妙法蓮華経を最高に置いた経緯 これは天台宗の二祖である天台智顗が『妙法蓮華経』が最高の仏の教えであるとしていたからですね。 その経典を持ち帰り日本に天台宗を開いたのが最澄ですから、天台宗の流れは『妙法蓮華経』を第一としてますね。問題は最澄にあったのですね。最澄は経典を持ってきただけで、中身はさっぱりわからなかったのですね。悟ってないから天台の祖を継いでないですからね。 ちなみに同時期の空海は恵果(真言七祖)の後の真言八祖を継いでますね。 それゆえ、天台系の弟子は『妙法蓮華経』の中身がさっぱりわからなかったのですね。 日蓮も同じですね。中身はさっぱりわからないけど「最高の法」と天台宗の祖がいっているのだから、南無「妙法蓮華経」と唱えてもご利益があるだろうということですね。 「南無」は帰依しますという意味ですね。 経文の題目に帰依しても利益はないでしょうね。 でも最澄がわからなかったのだから弟子はそれしかなかったのでしょうね。天台系でも南無「無量寿」南無「阿弥陀仏」と浄土に流れた者もいたわけです。もとは『妙法蓮華経』の中身がわからなかったので弟子は迷ったということでしょうね。 未だにその迷いが続いているということでしょう。迷いだけだといいんですけどあらぬ方向に行く場合もありますからね。あの世の日蓮さんはすごく反省してますね。
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- mmky
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>>そのように指導している教団ばかりではないでしょうか? ○鎌倉期の浄土宗は仏教の名を借りたキリスト教ですね。法然・親鸞以下みなイエスの弟子の転生でしたからね。西方浄土の阿弥陀仏は仏陀ではなくイエスを指していたと考えれば理解できるでしょうか。キリスト教は仏教で言えば『信仰の門』に入りましょうという程度の宗教です。 西方浄土信仰でも仏教では異端ですが、それでも何とか引っかかる程度ですね。更にお題目信仰となればおのずと外道「道をはずしたもの」でしょうね。 >>信仰とはただ信じることではなく、知る事ではないかと思うのですが? ○そのように感じられる魂は立派な魂ですね。 仏教の本道は「真の智恵=人生の意味、人類存在の意味など」を含む正しい知識を得ることですね。正しい知識を得るために、正しい教えを説く仏陀に帰依するのですね。お助けを受けるために帰依するのではありませんね。ましてやお題目に帰依することでもありませんね。 つまり、「私は仏陀を信じる。仏陀の教えを信じる。」と言うのが「信仰」の意味ですね。この意味での『信仰』を立てない限り『真の知識』にはたどり着けませんね。 これを「信仰の法門」の先に「智恵の法門」が在るといいますね。「信仰の門」と「智恵の門」の隔たりは遥かなる道のりなので「自身に戒」を設けて道を外さないようにしているということですね。 また、弟子がそうでなければ仏陀も真の教えを説くはずもないのですね。ここに仏陀の「無記」があることがわかるでしょうね。「無記」は知らないという意味ではなく「今話してもわからないだろう。もっと勉強してから来なさい。」と言う意味ですね。 どこの大学の教授も教授を信じ良く勉強してついてくるものには多くを教えるものですね。でも勉強もせず学歴看板だけを望む学生には適当な講義しかしないでしょ。それと同じですね。 その看板学生が間違って教授になればほとんど「詐欺」行為ですね。宗教も同じですね。 こういう場を利用して宗教の正しい知識を得ることは人生にとって良いことだと思いますね。 それが「りやく」というものでしょうね。
お礼
okです。 特別な人をのぞいてですが普通はだれでも救いを求めて宗門を叩くわけですね。それは良いと思うのですが、宗門側で求道が目先の救いにすりかわって公表されている様な気がします。それが宣伝効果で都合がよいのかもしれませんが。 最初のボタンかけ違えているような。 そんな事して人集めしなくても、何千年かかっても知る人を増やしていく方が良いのではとも思いますがね。 いろんな意味で血道を上げるような事、心が乱れている証拠では。 仏弟子の陥っては一番いけない境地では、、つまりまさに地獄界。
- mmky
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>>書いたものが本当に正しいかどうかが、見出されていなければ決められないと 思うのですが。 永年、論議が続いているようですが、、、、、。 追伸まで そういうことが疑問ですか。法華経の内容は大教授の公演を学生が聞いて書き留めたという内容に似て、釈尊晩年のりょうじゅせんでの説法の内容の一部が書かれていることは間違いないですよ。 これは学者の議論ではなく、知っているか知らないかのことですね。その場にいたものか、あるいは後代に仏陀から同じ説法を聞いた者であればわかることですからね。 悟りを得た立派なお坊さんは三世を見通せるのですから経典の意味は内容が不備であったとしてもその場に行って聞くことができるのですね。あるいは自身がその場にいたのであれば記憶をよみがえらせば良いことだけなのです。それが三妙を得るという意味ですね。 残念ながら天台チギも最澄も日蓮もその場にいた者、見聞きした者ではなかったということですね。 経典は聞き伝え文ですし、いろいろな混じり物もはいっていますから学問的にいくら経典を読んでも理解は出来ないでしょうね。 宗教的悟りとはそういうものなのです。悟りえないものが宗教を起こすという怖さは千数百年を経てあなたがここで質問するような疑問を持つようになるのですね。 ちなみに釈尊のりょうじゅせん説法は釈尊の眉間からでた光が現代的なプロジェクターの役目をした映像でしたね。宇宙の創造から未来まで映し出したものでしたがこれを書き留めた弟子も理解できなかったと思いますがえらいですね。現代の物理学者や科学者が見ると驚くでしょうが良くわかると思いますね。 そのような内容が断片的に書かれているのが法華経ですね。釈尊は「本尊論」のためにこの説法をしたのですね。つまり人間釈迦も釈尊であるが、同時に人類の本尊でもあるという説法ですね。 現代の日本にはりょうじゅせん説法を見聞きした人がたくさんいるのですよ。 まあ、あなたの疑問は至極当然なことですがそれにまともに答えられないことに「あきれかえっているのです。」 ・・・信じる信じないは別にして疑問の要点はそんなところでしょうか。
お礼
再度のご回答有り難う御座いました。 日蓮も悟ってはいなかったと言うご意見には 頷けます。 わたしもそこにひっかかっていたのです。 つまり、お経を集めて訳したと言うお仕事をされたと言う事でしょうか。 映画「空海」で最澄も空海からお経を読むだけでは悟れないと言われいたシーンが ありましたね。 まさに、そこのところ。 三世の見通しが出来ない限り本当の事が分かっていないと言う事ですね。 でも、その判っていない人(一般大衆など)がただ信じるのみを信仰とは思いぬくい のですが、そのように指導している教団ばかりではないでしょうか? 信仰とはただ信じることではなく、知る事ではないかと思うのですが?
それほど思考錯誤していませんよ。 日蓮大聖人(日蓮正宗系ではこう呼びます)の教義の元をただせば 天台宗です。天台宗と言えば、比叡山延暦寺ですが、開祖伝教大師の書や、 また開祖が中国天台宗より持ち帰ったと思われる書の中に、御題目である 「南無妙法蓮華経」は既にあって、唱題業も行われていた記述があります。 後の第三代の慈覚大師が真言の密教に影響され、その教義を取り入れ、本来 の天台の教義を踏みにじったため、現在の天台宗には伝教大師の正当な教義 が継承されていません。 日蓮大聖人は、末法において衆生救済のために、「南無妙法蓮華経」を御本 尊と定め、認められたのです。 全ては日蓮大聖人の御書の中に記述がありますよ。
お礼
ご回答有り難う御座います。 よく、判りました。 人類救済の為に、 古い経典をまとめたって事でしょうか。 では、なぜその中から 「南無妙法蓮華経」を選んだのだしょうか?
お礼
ご回答有り難う御座います。 宗教といっても何だか、学者の研究みたいに 思もえて来ました。 書いてあるかどうか、とか、誰が言ったかとかですよね。 書いたものが本当に正しいかどうかが、見出されていなければ決められないと 思うのですが。 永年、論議が続いているようですが、、、、、。