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消滅したい・・・

当方、高校生♂です。 数年前から、「消えたい」という願望を持っています。 「死にたい」ではなく「消えたい」です。 人間は自殺をすることができる唯一の生物ですが、動物である以上、通常の精神状態では自殺なんてできません。消えたいなら死ねばいいわけですが、死ぬ勇気があるとかないとか以前に生物である以上、自分からは死ねません。でも、この世界から消えるには死ぬしかありません。自殺をするつもりはありませんが、この世界から消滅したいです。元からいなかったかのように自分という存在を消し去りたいです。 なぜ、「消えたい」か。それは、この世界にいても意味がない、いや、それどころか、この宇宙と全ての物質に対して存在意義が見出せないから。 人間はいつかは死ぬ。死ぬために生まれてくるなんて意味が無さすぎる。人間は高度な感情があるからまだいいとして、そこらの虫はなんのために生きてるのか?種の保存以外に他ならない。じゃあ、種を保存して何の意味があるのか?なんの意味もない。地球が永遠に存在するならばまだしも、いつかは星としての命を終える地球に種を保存したって無駄でしかない。1個体は死によって滅び、種は地球とともに滅ぶ。どうせ消えてなくなるなら、最初からいなくたって同じこと。地球には生命がいるが、それは地球が生命をはぐぐめる位置にできたからであるが、生命の存在意義は肯定するとしても、もし地球が生命のいない星だったとしたらどうだろうか。宇宙にはただ石が浮かんでるだけの何の価値もない世界。あってもなくても同じ世界。 つまり、「永遠」というものがない以上、すべての物質に存在意義はないと思うわけです。つまり自分という存在も意味をなさないので消えたいわけです。みなさんは生きていて楽しいですか?楽しいと思う人もいるでしょうが、誰しも辛い経験はしたことがあるはずです。辛いことの方が、楽しいことよりも多い人もたくさんいるはず。私はこう考えます。「生まれることは不幸である」と。生まれた瞬間から拷問が始まるのです。自殺とは解放です。自殺できた人は幸運です。それができない人は死ぬまで、無益な拷問に苦しめられるのです。たとえ自分が金正日だとして、国は思いのままに動かせて、毎日喜び組に囲まれた夜を過ごせたとしても、これは不幸ですね。人によって不幸の度合が違うだけです。 最近、うちの親が「やってもらって当たり前と思うな」と言うのですが、ものすごく腹が立ちます。正直言って、「やってくれて当たり前」ですよ。世話しないなら生まないでほしいです。迷惑です。生まれてきただけでものすごく不幸なのに、「人並みの世話もしてくれない家庭」で生きるなんて不幸中の不幸。不幸の度合が低い人は、自分が不幸であること、生まれたこと自体不幸であることに気付きにくいものですが、不幸しかない自分にとってはまさに生きることは無益。両親は仲が悪い、家は貧乏なのになぜか私立にいかされ、しかも学校はつまらない。早く大人になって解放されたいけど、まだ大学生という最後の難関があって、大学生活を現状維持のまま過ごせればいいのですが、いつ親が離婚するかもわからない、そもそも大学の学費は払えるのか?弟も私立の高校いってるのに。このご時世で高卒とか、大学中退というレッテルで一生を過ごさなければいけないなら、もうやってられない。 小さい頃から両親は仲が悪く、母親がうつ病ですぐヒステリーを起こし、小さい頃の家庭環境が心の発達に影響するのは当然なわけで、こういう負の思想を持つ人間になったのもすべて親のせいと言いたいけど、もはやそうは思わない。だって生まれることは不幸だから。たまたま自分は不幸の度合が平均より大きかっただけ。 要するに、わざわざ生まれてきて不幸な人生歩んで結局死ぬんだったら、消えてもいいんじゃないかってことです。 この人生観は異常でしょうか?ほかにいい人生観があれば是非聞きたいです。それが自分の中で合理的であれば、考えを変えるかもしれません。だって、この人生観、実に合理的だとは思うのですが、すごく悲しいですから。 追伸: 「生まれる=不幸」という思想を編み出し、すべてを悟った気がしたのですが、最近気づいたことがあります。それは「愛」です。 全人類への愛とかキリスト教的な愛ではありません。自分にとって「大切な人」への「愛」です。これって全てがどうでもよくなる力があるんじゃないかって。その人さえいればなんだっていいという。このことを発見したとき、なんかものすごく感動しましたね。

みんなの回答

noname#100196
noname#100196
回答No.2

私たちには、永遠がありません。いやむしろ、その存在理由、存在目的もない。 人間は従来、神という永遠の存在を規定し、その永遠という存在である神が人間一人ひとりを永遠に評価をしてくれる(=永遠の命を与えてくれる)という仮定をすることによって、有限と言う空虚からその命を逃していました。今の人生を生きる意味をつくりだしていました。神だけではなく、仏教における輪廻転生といったこともそうですね。 「イエスは答えて言われた。 「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」」 《ヨハネによる福音》第8章:14節 しかし神や仏がいない今、この世界は有限で、空しいもので満たされています。無から有を造り出せる存在は、もういない。 そういう点で、あなたの人生観が異常だとは決して思いません。皆、何となく気づいていながら、それとなく逃げ回っているだけです。 そしてあなたが気づいたといわれる「愛」についても、私は強く同意します(以下に示す解釈が間違っていたらごめんなさい)。 愛の前にすべての言葉は消え去ります。 その愛は、宗教とか、労働、富の再分配といったことを通じて誰かと共有できるものでは決してない。何故なら、過去に存在したことは一度たりともないし、未来にも二度と存在することはないから。人間の命が有限で、空虚で、意味のないものだからこそ、二度と存在しない。できない。 だからこそ、その愛の前にすべての言葉は消えてなくなる。今までに存在したことが無く、この後も存在することのない、その愛を表わす言葉は、この世界にはないから。 この世界に無いもの、それは永遠でしょう。 「これって全てがどうでもよくなる力があるんじゃないかって。その人さえいればなんだっていいという。」 これは至言でしょうね。 「100万回生きたねこ」という絵本があります。百万回、空しい人生、いや猫生?を生きた主人公の猫が、最後の一生でたったひとつの、誰とも共有できない、言葉にできない愛を見つけて、生き返ることをやめる。本当の永遠を、本当の意味を手に入れ、それを真に永遠たらしめるために生き帰らなかったのだと、私は解釈しています。 ヴィトゲンシュタインは、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 としましたが、そういった言葉にならないもの、私たちが知らないもの―沈黙―にこそ、永遠の存在があるのではないか。私はそう思います。

回答No.1

解りません。 死ぬまで存在して考えてください。

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