第2次UWFに、欧州遠征中の船木が前田に誘われ、新日を離脱し合流しました。同じころ、新日の体制に不満を持っていた鈴木が、やはりUに移籍しました。キャリアは違うが年は同じぐらいの2人が、同期になったのです。
しかし、そこで藤原に慕っていた彼らは、Uの解散騒動に巻き込まれます。UのスポンサーだったメガネスーパーがSWSを旗上げ。そこの田中社長のタニマチだった藤原は、UとSの合併を目論見ますが、折からのUの選手側とフロントの軋轢からUが解散し、藤原組として独立します。
S(SWS)は、3道場(天龍派閥、高野派閥、若松派閥)の対抗戦を謳っていましたが、藤原組もいずれの道場ではないけれどもスポンサードを受けていました。その結果、S初のビックマッチ(神戸、東京ドーム)への参戦が実現したのですが、Uスタイルを追及したかった若手の鈴木、船木は、従来どおりのプロレススタイルを行うことを拒否し、結果、その後に藤原組を離脱し、日本初の真剣勝負プロレス団体パンクラスを旗揚げします。
そこで理想を追った2人でしたが、船木がヒクソンとの大一番に負けたリングで突如引退を表明、その後パンクラスも離脱したことで、鈴木にとっては、引退に何の相談もなかったことから感情的しこりが芽生え、それが今に至るということです。