• ベストアンサー

メディアの文章が安っぽくなっていること

たまに、雑誌や新聞そのたメディアの古い文章、およそ30年よりふるくなると、今の一般的表現より、かなり違う感じがあります。格調高くて敷居が高い、文章を仕事にしているひとが推敲して書き上げたような趣があるものが多いようです。 対して、いまはそういう格調が失われて、ほとんど一般的メディアの文章は、そのプロでなくても誰でも書けるわいという程度のものになってしまったようなのですが、これは果たして喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、よくわかりません。 やはり、日本語の衰退と言う面で悲しいと私は感じてしまいますが、メディアと言うものがプロばかりが書くものではなくなってきたと言う時代背景もあり、必然的な流れなのかなとも思えます。 どう思われますか? ☆たとえば、30年ほど前のクラッシックレコードの解説書に「わが国」「たおやかな」「異名」「現象を呈している」「耽溺した」などの表現があります。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#101110
noname#101110
回答No.9

>雑誌や新聞そのたメディアの古い文章、およそ30年よりふるくなると、今の一般的表現より、かなり違う感じがあります。格調高くて敷居が高い、文章を仕事にしているひとが推敲して書き上げたような趣があるものが多いようです。 対して、いまはそういう格調が失われて、 本当にそうですね。私もそんなことを感じます。 漢字の読めない総理大臣が率先してマンガ「文化」を吹聴し、一方でまともな文学雑誌が廃刊し、純文学ということばが廃語になりかけています。いわゆる文体というものを持った力のある小説家が(たくさんいるのでしょうが)新刊を出しても売れずに逼塞して無力を嘆き、村上春樹だけが100万部を売るという単なるブーム、おまつりになっている。 もちろんプロの書き手の書く場が増えてそれなりの仕事をしているというのは悪いことではないでしょうが、全体にレベルが落ちているのがはっきり感じられます。以前のような一級の文学者たちが日本の活字文化をハイレベルで引っ張っていくと言うことがなくなったのでしょう。つまり日本の言語文化の衰退ということだと思います。 上質の文学を多くの人が喜んで読むという流れを取り戻さなければ、文学者小説家も消滅に向かうだろうし、単なる儲け商売だけで出版をする書店ばかりという傾向が増すだけになると思います。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 じっくりと思索したり、自分と向き合うという時間がすっかり廃れてしまった。情報の氾濫に人々は翻弄されるようになった。そんな時代推移だった気がしますね。グローバル化という波が、全ての質を奪っていくと言う構図じゃないでしょうか。

その他の回答 (8)

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.8

商売だからね。 稼ぐなら必然的に分かりやすい内容になる。 格調なんて最初からありません。 それだけ暇だっただけです。 今はそれほどまでに時間が無いから。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「商売」は格調に勝ると言う法則ですね。

  • ryuken_dec
  • ベストアンサー率27% (853/3139)
回答No.7

今は情報の量が増え、変化のスピードが加速しており、早さ、分かりやすさが求められている。 会社のレポートなどでも格式高い表現など通用しない。相手が資料に数秒目を落としただけで、何の資料で何を言いたいかが分かるように作れと言われる。流し読みで訴求ポイントをアピールしろと言われる。図表を駆使しろとも言われる。 昔は小難しそうな自分しか分からないんだ風の資料が歓迎されたこともあったようですが。 また、グローバル化や価値観が多様化したために、婉曲的表現や格式高い表現が通用しにくくなった。昔は日本語であれば、まず日本にいる駐留の日本人が読むものというイメージだったが、今はそれが通用しなくなりつつもある。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 文字化された情報が氾濫しているのでしょうね。その量が質を奪っていると言うことなのでしょう。人間は逆方向にはいけないですからね。グローバル化っていうのは、媒体の質を落とすと言う宿命持っているようです。

noname#168404
noname#168404
回答No.6

No.4です。 メディアに限らないのでしょうが、かつては「超~」と何でもかんでも「超」を付けてことさらオーバーに表現するのが当たり前でした。 そして最近では 「ビッグ」→「メガ」→「ギガ」→「テラ」 と、どんどんエスカレートしてしまい、もはや単位を引き上げる「合戦」かのようになってしまいました。 それに伴い、もうすでに「メガ」は陳腐化した言葉となってしまいました。 たぶん、こんな現象など日本だけなのではないでしょうか。 「日本人は、言葉を大切にする人種だ」とか言いながら、実はまわりよりも優位に見せかけるため単位を引き上げればいい、と言う安易な発想です。 日本人は、オーバーに表現する傾向がありますが、それだけにとどまらず安直な言葉の置き換えだけで、表面を取り繕おうとするのです。 このあたりを自覚し改善しないと、本質を見ずにただいつも大げさに騒ぐだけで終わってしまうのでしょう。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ただ最上級をつければいいという安易な思考法がありますね。ただの音列に過ぎないのに。要は言葉を大事にしないからでしょうね。もちろん内容も然りです。

  • nidonen
  • ベストアンサー率55% (3658/6607)
回答No.5

 メディア・媒体と呼ばれるものは、30年前とは比較にならないほど 増えています。文章を書くことを仕事にしている人の数はおそらく、 10倍以上に増えているでしょう。量が増えれば質が下がるのは当然 であり、量が増えたことを喜んでもいいのではないでしょうか。  いまでもマスコミや物書きはそれなりのスタータスを持つ職業 ですが、30年前はそれこそエリートを自認していたはず。それが いいことかどうかは判断が難しいですね。物を書く行為が一般化 したことは、ある意味喜ばしいことかもしれません。  また、本サイトもそうですが、自分が書いた文章をほかの人に 読んでもらえる機会は圧倒的に増えています。これを日本語の民 主化が進んだと考えることも可能です。特権階級だけが書き手に なれる世界がいいのか、誰でもそれなりの文章を発表できるのが いいのか、考え方ひとつで違ってくるものだと思います。 ※質問者さんが文章の最後で使った ☆ も、30年前だったら  ありえない表現だったでしょうね。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そのとおりですね。両が氾濫すれば当然レヴェルは下がるはずです・インターネットと同様ですね。私は素直に喜べませんが。物を書くと言うことが、特権階級的あるいは、特殊能力的な特権だったからこそ、洗練された文章が世に出回った。結局光があれば影もあるということのようです。

noname#168404
noname#168404
回答No.4

(たぶんですが)そのようになった境目は、1974年にNHKで磯村尚徳氏がニュースセンター9時という番組で「ニュースキャスター」と言うものを日本で初めて導入して、それまでニュースと言えばただ淡々と原稿を読むだけだったものを、解説を加えてわかりやすくしました。 それまでは(たとえば)政治家が「善処します→何もしないこと」などと常に裏を読みながら記事を書くことだけが報道の使命であったような気がします。 それを境に一般の人にわかりやすく解説することが報道の使命となり、それはドンドンとエスカレートしてしまいました。 今では、選挙ともなるとロクに政治を知らないおばちゃんが「私にもわかるようなマニフェストでないと駄目」などと、自分が理解できないことを自慢するまでになってしまいました。 日本人の場合は、あまりにも極端に考える傾向があるため、どちらに転んでも加減を知らずに、おかしな方向に進んでしまいます。 しかし、その「安易なわかりやすさ」によって、おばちゃんも少しは政治に関心を持てるでしょうから、いい方向に向かっているのではないでしょうか。 P.S ○のもんた氏が「これはシンプルで、わかりやすい!」と言えば、それだけで良い事かのように思ってしまうのは、チョット怖い気がしますが。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 たしかに、キャスターと言うものが北朝鮮の報道などとは一線を画してきたのでしょう。民主化というべきなのか大衆かなのか。安易なわかりやすさを、視聴者の立場からサーヴィスする精神があるようです。

  • kyhr1688
  • ベストアンサー率20% (100/489)
回答No.3

新しい言葉の増え方、外来語の侵入速度が30年前とは圧倒的に違ってきていますから、それの処理が物理的に間に合わない、という側面もあるのではないでしょうか。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。横文字の氾濫もあります。

noname#114356
noname#114356
回答No.2

クラシックレコードの解説書をもってメディアの文章例とされても、どうかとは思います。今だって例えば自動車雑誌を見ると、何だかよく分からない独特の用語を使ってクルマを形容しております。一般的メディアの言葉づかいの変化は、それは当然あるでしょう。言葉自体が変化しているわけですから。新聞ならば30年前に比べ活字が大きくなった分、字数は減っており、余計な修飾語は省く傾向にあります。放送もまたしかりでしょう。メディアの文章が安っぽくなったのではなく、日本人の話す言葉全体が浮薄になった、という言い方はできるかもしれません。 しかしそれにしても一般的傾向を捉えて「こんな風になった」なんていうのは簡単です。そうではなく、具体的な例をあげて、論ずることが大事なのではないでしょうか。よくある「昔はよかった」という、ただの繰り言に聞こえてなりません

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 しかし、今のクラシックレコードの解説と比べてみても、明らかに文体に差がある。このことは社会全体の傾向として起こっているのです。それは「日本人の話が軽薄になった」からという要因が大きいでしょう。

回答No.1

TVは、スピードが売り物なのに、毎朝、新聞をならべてこの新聞はこう書いてある。この新聞はだめですね。とやっています。 非常にレベルの低さを感じます。時間つぶしをやっているだけという感じです。いうことは愚痴、不平不満、政府がわるい。 これでは赤字局がでてくるのは当然の流れでしょう。 景気の低迷というのもありますが、100年に一度の不景気と大合唱です。馬鹿なことをやるもんだと思っております。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 新聞の紹介あります。全体に安っぽい口調になります。