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死刑について
僕は、命を奪う権利なんて どんなものにもないと考えます。 どこかのサイトに 「最高裁は公共の利益を妨げる行為をしたものの生命を剥奪することが許される」と書かれていました。 僕はそれを見て本当に許せないというのか、なんともいえぬ気持ちになりました。 僕が勝手に思っているだけなのかもしれないのですが、 命を奪える権利を有するだって? 人間が生まて築き上げてきた成果が、この程度だったのだろうか。 今まで何人の人がこの話題に触れて僕のようなことをいってきたのでしょうか。 深く考えればやっぱりわかりません。 しかし、命を奪う権利を持っているというなら、それは神様だけではないだろうか。 人なんかが、殺していい訳ないと思います。 これでは、人を殺して死刑になったその人とやっていることはなんら変わりない。 以前ここで僕はそれを知りました。 兄が憎くて、どう仕返ししたらいいのかという無茶苦茶なことをここでおたずねしました。 そこで返ってきた回答のひとつに、 「それじゃあ、君の兄とやっていることは、なんら変わりないんだよ」 ってありました。 そのときふと気付いたのですよ。 最高の復讐っていうのは兄より幸せになることなんだって。 人はいつしか復讐っていう意味を間違えてしまったんじゃないかって・・・。 確かに、死刑囚はそれほどのことをしてきたから、そうなるのだと思います。 しかし、どんなに悪い人間でも、命なんです。 それは、重みとか、そういうものじゃなくて、命なんです! いい人を、善人なる人の命を奪うことと変わらない、そういうとなんだかおかしな人ですが・・・。 問題もありますよ。 現在じゃ監獄の数も不足、それに対する施設の数、金、人、何もかもが足りていません。 それは仕方がないですよね・・・。 夢のような話ですが、確かに幼稚だとは思いますが、 今現在日本経済が大不況ですよね。 なら、ですよ。 それを経済力につなげてみてはいかがでしょう。 死刑囚には働く意味などないです。 働かないとしても死ぬことはないのですから。 その命は国が補償しています。 そこが唯一の問題・・・他にもありますね。 とにかく、どうかそのような意見、賛否どちらも募集したいです。 夢みたいなことでも、何でも・・・。
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死刑賛成派と、死刑否定派にはどうやっても越えられない壁があると常々感じています。 この話題になると、その人の属性がどうしてもむき出しになってしまって、普段仲良くしていた人とも、一気に距離を感じてしまいます。 私は、「もし、自分の家族や大切な人が、この上なくむごたらしい殺され方をしたら、私は犯人の死を望むだろうか」とよく考えます。 答えは…いまだにわかりません。 少なくとも「死刑にしてほしい」と考えることはできません。 大切な人を殺されて「死刑にしてほしい」という人の気持ちは、そう思うのも当たり前だな、と思います。 しかし、たとえばあったことのない人について、「○○の犯人ははやく死刑になるべきだ」「被害者の気持ちを考えると死刑にするべきだ」と発言する人の気持ちは全く共感できません。 正直、いやだな、とまで思います。 「家族を殺されたのだから相手に死んでほしいと思っているはずだ」という短絡的な想像力のない思考がとっても怖いです。 「弟を殺した彼と、僕」という本はご存じでしょうか? これは、被害者家族でありながら、死刑制度に疑問をなげかけている著者の書かれたノンフィクションです。 この本を読むと、本当に被害者のことを考えるとはどういうことなのか、と思ってしまいます。 少なくとも、ステレオタイプに当てはめてしまうことは、決して本当に被害者のことを考えていることにならないと思います。
私は 感情で 物事を考えてしまう為、「key-knightさんは 命ばかりに 固執して考えすぎなのではないか?」と思ってしまいます。 命は尊いものです。それは 当然の事ですが、 「どんなに悪い人間でも、命なんです。それは、重みとか、そういうものじゃなくて、命なんです!」 こんな 偽善的な言葉なんて 被害者・家族・友人の すべての方々は「聞きたくもない!!」と 思うはずです。 自己中心的な考えで 殺人を犯した犯罪者の命を そんな偽善の言葉で 守って どうするんですか?! と逆に聞きたいです。 私は 光市の 母子殺害事件のニュースを見るたびに とてつもない怒りと悲しみを感じ、犯人の死刑を心から願っていました。 key-knightさんは 何を思って見ていたんでしょうか? 「手紙」という映画はご存知ですよね? 加害者家族側からの視点で描かれていましたが、加害者家族も被害者家族も 同じように傷つき、つらい思いをするのだと 改めて感じました。 被害者は加害者の 心からの謝罪、反省で(少なからず)救われる・・・ということも。 もし その反省も 謝罪もすること無く自らの罪を悔いる事のできない人間がいたとしたら・・・!私なら 命で償ってもらいたいと 思ってしまいます。 死の恐怖に怯えながら、自分の犯した罪の重さに気づいてほしい・・悔いてほしい・・。そう 思います。 死刑はよくない 犯罪者の命も大切 なんて言葉で言うのは簡単ですが、人の 心にも目を向けてほしいと思います。
人の生命を奪う権利など誰にもありません。神であっても同じです。 それは動物の命であっても同じです。私たちが牛や豚を食べるのは権利に依ってではありません。 ただ、法治国家において、一定の条件下においては、その罪を問わないというだけの事です。 中絶も、脳死状態からの臓器移植も、正当防衛も、緊急避難も全て、人の命を奪う事では同じです。 死刑も、罪に問われない殺人です。 被害者が抵抗していたら、被害者が銃を持っていたら、正当防衛で奪われていた生命ですよ、加害者の生命は。 国による正当な(合法的)殺人ですので、復讐とは違います。 現行法は仇討を認めていませんから。 尚、被害者感情を根拠とする応報としての死刑には私は否定的立場です。 あれでは、身寄りのない人の命は軽い事になってしまう。
- localtombi
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まず大原則から言います。 日本は法治国家です。 法治国家というのは、国家におけるすべての決定や判断は、国が定めた法律に基づいて行われ、いかなる場合でも法律から外れた行動をしてはならないということです。 そこで、人が犯した罰をどう裁くか、については「罪刑法定主義」というのがあります。 それは、「どのような行為が犯罪」で、それに対して、「どのような刑罰が、どの程度の重さで科せられるか」ということを、予め法律(ここでは刑法ですが)に定めておかなくてはいけないということです。 刑法は、犯罪の内容や処罰の程度を明確にすることによって、国民を犯罪から守る働き(抑止)があるのに加えて、一方では、国民は刑法に定められた刑罰に触れない限り、法によって裁かれることはないということ、要するに、国民は、どこまで自分の行為が許されるのかを、刑法によって予め知ることができ、それによって自由な行動をとることができるわけです。 法律の難しい話はともかく・・・ 江戸時代は、あだ討ちというのがありました。また昔は、「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典というのがありましたが、西アジア一帯で広く使用されているイスラム法は、基本的にこの刑罪の原則の上に成り立っています。 ですが、復讐というのはその加減が恣意的、無秩序になってしまうため、近代国家にあっては、その罰を法律によって規定し、「個人に代わって国家が罰を与える」というようになったのです。 その究極が死刑となります。 命を奪う権利云々とおっしゃっていますが、犯罪を犯した者はそれ相応の償いを受けなければいけません。 その程度は、犯罪を犯した程度と勘案されて決まります。 決めるのは裁判官という人間のようですが、実は法律です。 法律が決めるのです。 >どんなに悪い人間でも、命なんです 確かにそうですが、その人に命を奪われた人も尊い命があったんです。 理不尽な理由で命が奪われたんです。 「亡くなった人の命」VS「犯罪者の命」を天秤にかけたら、どちらが重いでしょうか? 遺族の感情からすれば、先ほどのあだ討ちではないですが、自分で殺したいくら憎いと思います。 ですが、それを許さないのが法治国家です。 遺族に代わって国家が裁きをする。場合によっては死刑にする。 これが根本的な考えです。 それによって、ある意味遺族の過剰行動が抑制されているのです。
- eiji5620
- ベストアンサー率14% (78/538)
私は死刑囚には命の権利など試聴できないと考えます 犯罪を犯しといて命の保証はない 主文被告人は死刑 理由裁判を開く権利がなく弁解の余地なし 中国で実際にあった判決です 大量殺人を犯したオウムの松本地図尾(浅原商工)を 主さんは許せますか 私は許せませんね早くぶっ殺してほしいクソジジーですよ
- tenma55
- ベストアンサー率33% (28/83)
私は死刑容認派です。 かと言って、むやみやたらと感情論で殺せ殺せと叫ぶものでもありません。 犯罪者であっても一つしかない命を奪うことは許されないとという意見は理解できなくはないです。 しかしながそれを主張される方は、一方で踏みにじられ永久に奪われてしまった権利を軽んじられているのではないでしょうか? それとも死んでしまった人は、人ではないからその権利はすでに過去のものという考え方なんでしょうか? よく「刑務所に行って罪を償う」という言葉を聞くことがありますが、私はそれは単なるきれいごとにしか思えません。 刑務所はすべからく、犯罪者に罪の重さを思い知らせ、後の犯罪を抑止する効果がなければ全く意味を成さないと思います。 そうではないというのであれば、被害者の原状回帰をしてください。同じような状態に回復するのではなく、犯罪以前(権利が侵害される前)まで戻せという事です。 それができるのなら、死刑もいらないでしょう。刑務所すらいらないでしょう。 しかし現実はそうではありません。それができないのであれば、どれほど命の大切さを説いたところで、単なるきれいごとでしかありません。 したがって、命を奪う事が悪だというのであれば、死刑とは社会秩序を現実的に維持していく上での必要悪だと思います。 ただし、冤罪・誤認等の可能性もあげられる事から、警察の捜査や検察の調査、裁判は厳格な基準でしつこく行われる事が必要だとは思いますが。
- 植松 一三(@jf2kgu)
- ベストアンサー率32% (2268/7030)
確かに死刑囚にも命の権利が有ります≪これは認めます≫ でもその前に、人の命を奪ったから死刑になるのですよ≪現在は人を殺していないと、まず死刑になりません≫ その辺はどのように考えていますか? 殺された人の人権はどうなのですか? 人を殺して謝りもしない、反省の色も見えない人間に税金を使って生かしておけますか? 例えば死刑囚が50年以上生きるとして、その間税金が使われて、病気になったら病院で治療してもらいます でも殺された人の家族は、お父さんだと、その瞬間から、収入が無くなります損害賠償もできますが、本人は刑務所などに入っていて収入が無いので告訴しても回収できません、死刑囚が成人していた時には親にも請求できないのです被害者家族は路頭に迷うのに死刑囚は制約はあっても3食食べて健康に暮らせるのです、 ただ必ずしも死刑でなければいけないのでは無く アメリカの一部の州の様に盲導犬や介助犬などの育成をして行くことが出来る人間でしたら終身刑でも構わないと思いますがはたして例えば秋葉原の犯人を見ていると盲導犬や介助犬の育成は無理でしょう、 ≪判例からみると心神喪失などが認められなければあれだけの人を殺傷していたら現行法では死刑でしょう≫
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