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なぜ元木はホームランバッターになれなかったのでしょうか?
元巨人の元木大介選手はくせ者で有名ですがwikipediaによると、 「高校通算24本塁打。甲子園通算6本塁打は清原和博に次いで歴代2位タイ(桑田真澄と同数)の記録である」 らしいです。 こんなすごい選手がなんでプロに入るとホームランバッターになれなかったのでしょうか?
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>歴代2位タイ(桑田真澄と同数)の記録である」 桑田もホームランバッターになれませんでしたよ(笑)。 まぁ、単純に「パワー不足」でしょう。 ガタイを見てもお世辞にも清原・松井のような「パワーヒッター」という感じではありません。 しかし、ホームランバッターでは無いにしろ「クセもの」でそれなりにプロでメシを食えたのですから大したもんです。 余談ですが、巨人が桑田を強行指名した理由の一つに桑田の「野球センス」を評価していました。 「桑田ほどのセンスなら仮に投手で目が出なかったとしても、ショートやセカンドあたりの内野手として成功する」という読みの上での指名でした。(実際は投手として一流でしたが) ちなみに、ゴールデングラブ賞も8回受賞してますし、通産打撃成績でも 打率 .216/192安打/7本塁打 と、投手としては抜群の成績を残しています。 先日引退試合(欽ちゃんのチームと対戦)でも外野守備でイチローの「背面キャッチ」に近い技?を見せてました。
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- goodtoday
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元木選手と同世代の者です。 元木選手が高2で注目されている時に、「爽やかだなあ」と思いつつ、元木特集の雑誌をじっくり読んだ記憶があります。 ホームランバッターになれなかったというより、もともとアベレージヒッターだったと記憶しております。さらには、打撃よりも、華麗な遊撃手という扱いだったと思います。 同じ高校だった種田選手が「大介の遊撃の守備に比べれば俺なんて。。。」と謙遜していたのが印象的でした。
- NCC-2000
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ホームランバッターになれるタイプではなかった、との回答は皆さんされているので、別の角度から考えたいと思います。 まあ単純に素質の不足だという話で済むのかも知れません。かつて西武の名二塁手として鳴らした辻もアマチュア時代はホームランバッターでしたが、プロの練習に参加した途端に自分の力では通用しないと悟り、以後振り回すバッティングは捨てたそうですし。 確か落合が言っていたと記憶していますが、元木というのは本当に素質はあったそうです。「巨人で一番素質があるバッターは元木。松井以上かもしれない」みたいなことを言っていました。ただ、こう続きます。「でもあいつは本当に練習しないんだ」と。 元木の練習嫌いは有名でした。持って生まれた性格なんでしょうが、練習嫌いこそが元木の限界であり、致命的な欠陥だったのでしょう。もしも元木が練習嫌いでさえなかったら、もしかするとあの程度のどこにでもいる選手では終わっていなかったかも知れません・・・「たら・れば」はありえませんけどね。 練習嫌いであそこまでやれたと考えれば元木の才能は確かに凄かったのかも知れませんが、やはり努力できる力も才能のうちですから、やはり彼は所詮それまでの選手だったのでしょう。
- asljdlas
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自分の生かしかたの問題だと思います。 彼なりに自分で考えて、自分がもっとも生かせる生き残りの道が ホームランバッターであることを捨てることだったのでしょう。 ご存じの通り、ホームランバッターは、確かに華やかではありま すが、ある程度打席を与えられないと結果がでませんし、また ある程度の三振(凡打)もがまんしてもらわなければなりません。 彼の器量として、そこまで許される環境になく、また素質もなか ったと、かれがみきったので、ホームランバッターとしての道を 捨てたのでしょう。 ほかの世界でもそうですが、高校時代の記録というのは、そのひ とのその道への適性(その道にあっているか否かなど)をみるには 適しているものの、そのなかでの個別論についてはあまり参考に なりません。 ますが、
若い時から腹出てたしねえ・・・ そもそもそんな器量じゃないですよ。
- Danniel
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こんにちは プロのスピードと切れについていけなかったというところだと思います。 ついていけないので、スイングは小さくコンパクトになりますし、打撃はボールを引き付けておっ付けるようなヒット狙いのバッティングになります。 高校時代はピッチャーのスピードが遅いので豪快に大きなスイングで振りぬいていました。 あとは性格でしょうね。巨人の一軍選手で満足しちゃったんでしょうね。
元木はホームランバッターになるには小さいでしょう。松井・清原なら詰っても入るが元木では外野フライ止まり。高校時代は金属バットなので参考にはならないと思います。単純にパワー不足。
- delta-re
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アマチュア時代とプロ入り後でプレースタイルが違うのは当たり前・・・という回答だけでは面白くないので(^^;;)、ここでは元木にも長距離砲としての適性があったものとして考えてみます。 準レギュラー起用ながら、シーズン9本塁打を4度も記録しているので、それなりに素質はあったはずです。 元木が台頭し始めた1992年~1993年にかけて、ジャイアンツは長打力不足というチーム事情を抱えていました。 4番レベルの成績を残しているのは原辰徳くらいで、その原も怪我が多く全盛期に比べて迫力不足になっていました。 外国人選手は本塁打こそ出るものの低打率ばかりでパッとしない。(原が怪我のときは、その外国人が4番を打つしかないほど打線が弱かった) 駒田徳広は連続試合出場が途切れるほどの大不振。 それでも斎藤雅樹・槙原寛己・桑田真澄のいわゆる三本柱がチームを支え、投手力でAクラスを維持している状態でした。 1993年オフ、導入されたばかりのFAで落合博満を獲得したのがジャイアンツの金満補強の始まりと言われますが、当時は高齢で明らかに衰えを待つだけの落合に大枚をはたかざるを得ないほど、中軸打者に窮していたチームだったわけです。(1994年は、プロ2年目の松井秀喜が3番ライト、落合博満が4番ファースト、新外国人ヘンリー・コトーが5番センターを務め、クリーンアップが前年から一新された) このとき、松井に遅れを取ったのが、元木のプレースタイルを決めたものと思います。 ご存知の通り、これ以降のジャイアンツは広沢克己(1995年)、清原和博(1997年)をはじめ、基本的に一塁手はFA補強で獲得するようになります。 一方の元木はというと、鈍足がたたり、ポスト川相の遊撃主候補としては物足りない。(それでも遊撃手としての出場は少なくありませんでしたが) また、1996年には仁志敏久が入団し、この年は三塁手、翌年から二塁手に完全に定着してしまいます。 外野は松井秀喜で1枠が埋まったうえ、1995年~1996年はシェーン・マックが安定したセンターとして優勝にも貢献、1998年からは高橋由伸が入団してやはり攻守とも優れた戦力でポジションに収まってしまいました。 また、毎年のように繰り返されるダメ外国人(笑)と、FA補強からあぶれた選手がレフトの守備を争っていました。 唯一、原が引退した三塁手だけは毎年激戦区(というか固定できない)でしたが、内外野どこでもこなせる元木は三塁の固定されるよりも、「怪我・不振・休養で誰かが空いた所に入る選手」という扱いになっていきます。 当然ながら打順も一定せず、また中軸は松井をはじめ決まった選手がつとめることから、打線の中で「一発を期待される役割」を求められていなかったことになります。 そうこうしているうちに、長嶋茂雄監督からは「クセ者」なるあだ名をちょうだいし、長嶋シンパのマスコミからも同じように呼ばれるようになってしまったんですね。 今さらホームランバッターに転身するにしても、元木を追い抜いてスター選手になった松井をはじめ、ネームバリューを持ってクリーンアップを打てる強打者は他にも腐るほどいるわけですから、便利屋の元木にお呼びはかからなかったのでしょう。 考えてみれば皮肉と言えなくもありません。 王貞治に憧れて巨人ファンになり、1989年のドラフトでのホークスの指名を蹴って、野球浪人してまでジャイアンツに入団。 その結果が「クセ者」です。 一方のホークスは、元木が年齢的に全盛期に突入した頃の1995年から、その王貞治監督の長期政権。 チームは広い福岡ドームに移り、慢性的な長打力不足に悩まされていましたが、もし元木が1989年ドラフトですんなりホークスに入団していれば、後には不動の3番打者ぐらいになっていた・・・かも知れないですね。 まあ、「たら、れば」の話です。
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回答ありがとうございます。