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身体障害者は存在するか?
身体障害に対して罵声を浴びせた場合それは一般的に差別発言に当たると思いますが。差別ではなく単なるイジメではないでしょうか?(単なると言ってもイジメは重大な問題ですが)その事によって恥ずかしさや、悔しさ等はありますが就職や結婚ができないというような行動を制限されるような問題は発生しないと思います。(もちろん、能力に応じて雇用されない。と言ったことはあると思いますが、あくまでもその発言で制限されないという意味です)容姿が悪い人に対して「ブス!」と言うのと変わりないように思います。その場合はケンカにはなるかもしれないけれど、人権問題ほど責任を問われないと思います。こういった考えは障害者に対する誤った解釈を生んでいる温床だと思います。 ただのイジメが人権問題に化けてしまう根底には我々の作り出した障害者の定義が原因と思います。 広い意味で捉えた場合、メガネをかけている人も障害者です。しかし 腕や足がないは障害者で、メガネの使用者や、容姿の悪い人は健常者。 彼らは特定の能力が低いだけで我々と同じではないでしょうか? 逆に私には目の見えない友人がいますが、ピアノがとても達者です。 というように健常者よりも優れているものを持っています。 『障害者』という定義がものすごくあらゆる面で誤解を生んでいると思います。 後半少し話が脱線しましたが、まとめますと 「障害者に罵倒した場合それは差別とあなたは考えますか?」 みなさんの意見も是非きかせて下さい。
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- mokemoke_z
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まず身体障害者は身体障害者として認定され、身体障害者手帳が配布された人です。そして社会全体で人権を守らなくては生きていくことすら難しい人達です。 社会全体で守るべき身体障害者を罵倒することは非社会的行為ですので、健常者とは違う接し方をしなくてはなりません。感情的になってしまったとしても決して罵倒などしてはいけません。 メガネをかけている人や容姿の悪い人は社会全体で人権を守らなくても生きていけます。メガネをかけていない人や容姿の良い人と同じ接し方で問題ありません。普通に接しましょう。 認定された障害者と、cicade_001さんがおっしゃる「広い意味で捉えた障害者」は社会的には明確に違います。認定された障害者への罵倒は差別です。「自分の考えはこうだから」で許されることではありません。
罪もない人を罵倒しないように、勉強や教育をすればいいのでは、ないですか。 障害者を罵倒する人は、教育を受けても理解できない違った意味での障害者なのでそれは、それで暖かく見守ってあげましょう。 障害者が障害者を罵倒する事になるので差別には、なりませんが弱い立場の人を罵倒する人は、嫌われます。
- kottinQ
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もしあなたが私の息子なら、げんこで頭をコツンとやらなきゃなりませんね。 あなたの質問から、人を見下げた物言いを強く感じます。人間愛、平等感が希薄ですね。 差別と罵倒は、どなたかが理路整然とおっしゃってくれているように、違うと思います。しかし、どちらも人間の尊厳を傷つけることにかわりはありません。
- anachronism
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あなたは、「ブスと罵られる」ことと「障害を有する」こととを、同等のことと捉えておられるんですね。それが差別にほかなりません。 障害者が障害をもつことで侮辱されることと、容姿に難がある人がそれで侮辱されることとには本質的な差異はありません。あなたが前者は許容されていないけれど後者は許容されるなどと思っているなら思い違いもはなはだしい。 念のために言うと、少々容姿に難のある人を「ブス」と罵ること自体も十分「人権問題」だし、いじめそのものも人権問題です。その辺からすでに認識が間違っているのではないでしょうか。 その上で申しますが、「障害者」というのは別に差別語でもなんでもありません。(一部に異論を言う人もいますけど。)障害を有していること、それ自体は「事実」であり、四肢障害者、あるいは「手や足が不自由な方」「四肢に障害をお持ちの方」などというのは、何ら問題となる発言ではありません。ですが、それを「ブス」と罵るのと同じニュアンスで「罵倒」するなら、そりゃ、差別以外の何者でもありませんね。 障害者差別というのは、障害を有することそれ自体を、その人の「欠点」として取り扱うことであり、差別語というのは障害をその人の欠点と位置付ける言葉として扱われるからこそ、差別語なのです。 身長が足らなければ警察官になれなかったり、あるいは容姿が優れていなければ女優になるのは難しいのと同様、障害により就業に一定の制限が出てしまうことはままあります。ですが、障害があることによる現実的な問題が無いのに不採用とするなら、それは差別です。あるいはモデルなどでもないのに容姿が醜いからとか、血液型で不採用とするのも差別です。そのようなことをすればそれは「人権問題」として扱われます。 「障害を有していることそのものを欠点と捉える扱いをするならば、それは表明の如何にかかわらず差別である。」これが回答です。
- orangezzzz
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こんにちは。#1です。 >健常者への罵倒と、障害者への罵倒が同等に扱われないことに対してどう考えますか? 言葉遊びとはどういう意図がよくわかりませんが、一般的で常識的なことを言ったまでです。 相手を罵倒する行為そのものに差はないでしょう。 しかし、それが同等に扱われないというのは、障害者蔑視ということなのでしょうね。 民衆の愚かさというか、くだらなさというか。
- ryuken_dec
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>「障害者に罵倒した場合それは差別とあなたは考えますか?」 罵倒だけならただの侮辱罪です。 健常者に対して、「お前、馬鹿か。なんでこんなことも分かんねぇんだよ。前も言ったろ!?・・・・(30分続く)」のように罵倒してもそれは侮辱罪です。これを障害者に対してやっても同じです。 ちょっと、差別の認識が間違っているかと思います。 差別にあたって、能力が優れているだとか優れていないかは問題ではありません。何らかの不当な条件によって分けることが差別です。そして、上でも書きましたが罵倒は差別ではありません。 「優秀な人間は、危険な発明をして世界を混乱に陥れる可能性があるから、IQ130以上は隔離施設に幽閉」というのも差別です。肌の色によって奴隷だったりと身分を決めることも差別です。これらは一切能力に基づいていませんし、罵倒もしていませんが差別です。 そして、身体障害者は存在します。 眼鏡をかけているというのはその正常の範囲に入っていますし、容姿にいたっては価値観の問題で能力の問題ではありません。 仮に質問者様が言われるように手足が無かろうが、目が見えなかろうが健常としましょう。そうすると何が起こるか?怪我などが存在しなくなります。 交通事故にあって目を怪我して見えなくなってもそれは"健常"になります。そうなると目が見えないことは"健常"なのですから医者は見えるように治療しません。医者が治療をするのはそれが異常だから(健常でないから)治療するのです。 工場の機械で指を切断しても指を接合しません。それが正常(健常)ですから。やる治療は止血だけですかね。 でも、現実社会は違いますよね?指が切断されたらその状態は正常(健常)ではないと考えて治せるなら治すべきだと考えますよね。このように何か正常(健常)という範囲を規定しているからこそ、それが侵されると異常として対応(治療)しようとします。 そして、健常と異常の定義がされ、一時的な怪我などで異常状態になっているのではなく、常態的に正常の範囲から外れている人は身体的に「健常ではない人」と定義されます。ですから全員が健常者と言うことはありません。
- dai-ym
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障害者だろうがブスだろうがチビだろうがノッポだろうがクロンボだろうがジャップだろうがイエローモンキーだろうがバナナだろうがその人の身体的特徴や出身地などを理由に罵声を浴びせることは差別でしょう。 そういうことを特別に蔑視してなければそういうことで罵声を浴びせることにならないのですから。 ただ、必要以上に人権問題を取り上げる人も確かに困った人たちであるのは間違いないです。 障害者がお笑い芸人になったりショーマンとして他人を楽しませる職業に就くことを妨げようとしているのですからね。 必要以上に人権問題を口にする人のほうがよっぽど差別主義者なのは間違いないです。
- sirousagi1
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障害者を罵倒するのと差別との関連させていいのかがよく飲み込めない。「バカにしている。」という言い方のが質問者の得た印象から受け取れます。 これも偏見になってしまいますが、うちの近辺のお年寄りにもあることです。 今でも地方や田舎色のある都市といったらいいのか、60歳代後半以上の方々は、「カタワ」という言葉を平然と使います。 ま・、今更直せといっても無理なことですが。 障害を持つ方を蔑んだ言い方です。 また、「士農工商」の名残りがあるようで、「部落(同和問題)」と同じような見方を障害者にもしているようです。 逝去した祖母が言っていたことで、 「自分たちは連中と違うんだ。」 この言葉に考え方のすべてが集約されているようです。 親族の中で、障害を持った人がいなかった事が当事者の気持ちまでを考えられない要因であると考えます。 人権問題、環境問題、捕鯨といったクローズアップされそうな案件はお金になります。それを活動して商売や資金集めになったりする手段であるともどこかのTV番組でも流していたことを憶えています。 質問者の言う障害者に対する「イジメ」と「差別」については、一部のお年寄りの持っている「イジメ=差別」(適当な言葉が見当たらない)に位置するのではないかと考えます。 私は、学校の「いじめ」は≪仲間はずれ、優劣のゆがんだ表現≫といったことだろうとも考えているので、同じものだろうと思います。 「差別」は、良くいうと「階級別でフェア」であったり悪く言うと「阻害、排除」なのかもしれません。 「障害者」の定義は誤解というものはないと思いますよ。質問者の感じた時にはまた違ったことがそこに起因していたかと推察します。 だいたい、相手に対して「ハンデ」があると思った時点で自分とは違っているから「してあげるんだ。」とした目線になっていると健常者は認めないといけないんじゃないのかな。 でも、これを「お互い様」ということで「手を貸す」ことが大事なことと思います。
- toshipee
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アナタは障害を持っておられる方でしょうか。障害者の生活生き様を介護的に見守ったことがある故で言われているのでしょうか。 障害を持っておられる方が、声高にそれを叫ぶ社会ができあがれば、社会は成熟したと考えます。それならば、介護を経験した私でも言うことはありません。もっともな話となります。 で、質問の「罵倒した場合」に限られると、その内容によるでしょう。障害を侮蔑した糸であれば差別ですし、物理的に絶対できないことをさげすむのも差別です。その意味での罵倒は差別であると言えます。しかし、その人が相手を侮蔑した場合は、返しの意味での侮蔑は差別ではありません。しかし、その人の生き様や、これまで苦労してきたことを想像できる人間的配慮があれば、その範囲は狭くなると言わざるを得ません。いろいろなところで優遇措置はあるとはいえ、社会はまだまだ障害に対しては、隔離的です。護られる場所に行け、そこなら幸せだと。教室では目の悪い人は席を前に希望できたりします。メガネなどでも簡単に修正可能なものはされています。しかし、腕や足がない方は、義足義手をすれば何も問題なく涙を流さずに生きれるものではありません。合わない義手義足が擦れてつけたくなくなります。メガネやコンタクトレンズは痛みを与えません。また、見た目上わかりません。故に奇異な目で見られることも少なくなります。どこも「ここの義手義足は完璧で値段も生活を圧迫しない楽なところだよ」とは教えてくれません。病院も、今後の生活をどうすれば少しでも生きやすくしてくれるかの情報も進んで与えてはくれません。 人を見れば健常者も障害者もその人の人生があります。見てくれで明らかにわかる状態で人のことを「いろいろあるんだろうな」と想像できない人を、人格障害として、隔離して薬漬けにして矯正させればいいと罵倒したら、それは差別だと言うのでしょうか。侮蔑でもかまいませんが。それと同じことだと思われます。車いすを幼少時に押し続けて、普通の人と同じように生活がしたくて、喫茶店でも行こうとすれば、タクシーは目があっても止まらない、地下や2階にあるところはムリなので、広い入り口のやっと入った喫茶店もイスは動かないから車いすでコーヒーも飲めない。子供心に「大人の世界はおかしくないか」と思ったことがあります。私もたいしたことない経験値で言ってますが。
- futagofutago
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何度か質問者様の文章を読んでやっと意味がわかりました。 『障害者』と区別することが余計に彼らを社会から隔離しているのではないのかということでしょうか? たしかに『障害者』の中にも優れた能力を持つ方がいるし、『健常者』とされる方でも私自身のような特に何の能力がない方もいらっしゃるでしょうね。 『障害者』とされる方で例えば盲目の方はそうではない方と比べると見えないことを克服する時点で想像を超える努力を必要とされていると思います。 国から等級で区別されあらゆる面で保護されるのはやはり『障害者』がこういった努力をするためのサポートなんですよね。 公共交通機関なども運賃を優遇したりしています。 このように『障害者』をサポートするという意味での区別は必要ではないかと思います。 質問は『障害者』を罵倒することが差別になるか?ですよね。 本当に難しいですがやはり人権問題に発展する差別だと思います。
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