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京都府の「与謝峠」「加悦大橋」

京都府の北部の与謝野町にある、加悦大橋、与謝峠について質問します。 丹後ちりめんの生産地として加悦は栄えたという話は ウェブなどでもよく見るのですが、 私の想像では、トンネル、加悦大橋が出来る前の旧道でちりめんを京都に運ぶには相当な難所だったと思います。また、工事にあたっても苦労もあったかと・・・。 そんなエピソードが解る文献、ウェブサイトなどを教えてもらえないでしょうか。 また私の想像が外れていることもあるかと思いますので、その場合も、それがわかる情報やアドバイスがもらえれば有難いです。 どなたかご協力いただけますでしょうか。 よろしくお願いします。

みんなの回答

  • ima_gawa
  • ベストアンサー率73% (39/53)
回答No.4

昭和52年ごろに自転車で与謝峠を越えたことがあります。 当時は福知山市の175号からの分岐から加悦まで、8割方は1~1.5車線の未改良道路だったと記憶しています。まぁ、トラックや路線バスも通っていましたが、交通量は現道よりずっと少なく、丹後半島方面への道路交通は舞鶴から海岸沿いに宮津へ入る国道がメインだったと思います。与謝峠はクマザサの茂る狭い切り通しでしたね。 おたずねの丹後ちりめんの運搬路ですが、下記の京都府のサイトが参考になると思います。与謝峠が最もよく使われたのは、明治以降鉄道開通までということのようです。 もっとも現在は鉄道の貨物輸送はありませんので、主に与謝トンネルを越えるトラック輸送主体となっているはずです。

参考URL:
http://www.silk.pref.kyoto.jp/oriki/orimonoshifuukei/tango3.html
sdxr
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 お教えいただいたサイト、京都府のサイトはチェックしたつもりだったのですが、見落としていました。 出所もしっかりしているサイトですので助かります。 ありがとうございました。

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  • manchanf
  • ベストアンサー率31% (170/543)
回答No.3

今みたいに自動車が大型化していなかったときは、トラックも普通車も比較的走れたと聞いていますが、現在あの道を走ってといわれると、狭いなーと感じると思います。  加悦鉄道ができるまでは、国鉄の丹後山田(現KTR宮津線の野田川駅)まで人力車等で運んでいたように聞きました。  現与謝野町加悦庁舎(旧加悦町役場)の近所に、加悦鉄の記念館のようなものがありますので、時間があればお立ち寄りください。(小さいですので期待はされませんように。)昔はここに、SL広場がありました。旧加悦町の図書館もこの近辺だったと思うので、資料等があるかもしれません。

sdxr
質問者

お礼

記念館の件、お教えいただき、ありがとうございます。 SL広場は知っていましたが、記念館?は知りませんでした。

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  • momo-kumo
  • ベストアンサー率31% (643/2027)
回答No.2

>トンネル、加悦大橋が出来る前の旧道 30年ぐらい前ですかね、トンネル、橋が無くても峠越えの道が ありました、普通に乗用車もトラックも通れる道でした。

sdxr
質問者

お礼

三十年前ということは加悦鉄道もあった時でしょうか。 旧道の様子をインターネットなどで見るとえらく狭いような 印象をうけました。

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  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7995/21384)
回答No.1

宮津線(現北近畿タンゴ鉄道)が出来るまではともかく、それ以降の ちりめんなどの輸送は与謝峠経由ではなく、丹後山田(現:野田川)駅 からの「加悦鉄道」が担っていました。「加悦鉄道」についてはこちら http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%82%A6%E9%89%84%E9%81%93 現在、その鉄道で使っていた車両は、加悦SL広場で展示されています。 ほっこりする良い施設なので、是非一度訪問して下さい。 http://www.kyt-net.ne.jp/kayaslhiroba/ なお、現在のように国道が整備されたのは、加悦鉄道が廃止された後です。

sdxr
質問者

お礼

実は加悦のSL広場あたりは何度か行った事がありまして、そのときはあまり興味が無かったのですが・・・。 丹後ちりめんは加悦鉄道が敷かれる前から生産されていたと思いますが、加悦鉄道が敷かれるまでの京都へのルートはやはり与謝峠だったのでしょうか??

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